Wednesday ~ Tracks: Season Collection

 氷雨に打たれて帰ったものの、熱い風呂と掃除したばかりの清潔で暖かい部屋、美味しい御飯に風邪薬、そして何よりも彼女から借りた黄色いタオルのお陰で僕は風邪を引かずに済んだ。
 タオルは洗濯し、乾燥機で乾かしたあと青い包装紙に包んだ。普段、し慣れないことなので包み方がちょっと歪だけれど、感謝の気持ちを込めたつもりだった。


 氷雨は何時しか霧雨に変わっていた。夜になっても霧雨は静かに降り続き、街はひっそりと静まり返っていた。
 気温もかなり低くなっているようで、暖かい室内との温度差で窓には結露が出来ている。

 今まではこんなふうに音もない静かな夜を過ごしているだけで無性に人恋しく、寂しくなることがあった。
 でも今夜はそんな想いは湧いてこない。それはきっと彼女、櫻井 彩さんのせいだと思う。彼女のことを思い浮かべるだけで心が躍る。うきうきしてなんだかとてもハッピーな気分だった。

 彼女と別れてからおよそ六時間余り。まだ一日の四分の一しか経っていないのに会いたくてたまらない。あの柔らかでキレイなメゾ・ソプラノの声が聞きたい。洗い立てのような可愛い笑顔が見たかった。

 ホントに不思議だ。ほんのわずかな時間、ほんの少しだけの会話をしただけなのにこんなに彼女のことが気になるなんて。

 きっとこの想いは彼女を好きになったということなのだろう。一目惚れという類のものだと自分で解釈出来た。好きという気持ちが突然やってきたことに戸惑いもあるけれど、きっかけなんてほんの些細なことなんだと思う。
 まだ芽生えたばかりだけど、この気持ちは大切にしていきたい。片思いだけど、この恋は始まったばかりだ。



彼女はどんな本を読むのだろう。

彼女はどんな絵を好むのだろう。

彼女はどんな音楽を聴くのだろう。

彼女はどんな映画を観るのだろう。

彼女はどんな花を愛でるのだろう。

彼女はどの星や星座が好きなのだろう。

彼女はどの季節が好きなのだろう。



考えただけでも楽しくなる。似たような趣味だといいなと思う。いや、きっと同じだろう。これだけ心惹かれたのだからお互い好きなものはきっと同じはず。僕はそんなことを思いながらいつしか深い眠りに落ちていた。





 水の流れる音と鳥の囀りで目が覚めた。今時の目覚ましはけたたましい音で人を起こすのではなく、ヒーリング音で心地良い朝を演出してくれる。ベッドの上で大きく伸びをして出窓のカーテンを引いた。

 雨は真夜中過ぎに上がったようで朝日が黄金色に輝いていた。空気も空も風も透明感に溢れている。
 僕の気持ちも冴え渡る青空のように清々しい気分だった。心なしかウキウキしている。まだ午前中、朝も早いというのに今からあの公園に行って彼女がチェリーの散歩に来るのを待っていようかとさえ思えるほどだった。

 パジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、着替えをしてからゆっくりとした朝食を済ませた。
 さあ、今から何をして午後まで時間をつぶせばいいのだろう。掃除や買い物は昨日済ませたばかりだし、実際手持ち無沙汰だった。でも、はやる気持ちが抑えきれない。このまま悶々と部屋の中で時間が過ぎるのを待つよりは出掛けたほうがいいと思えた。

 よし、今日はのんびりと散歩をしながら仕事のことも考えて街を歩こう。そう決めた僕はケーブルテレビの地域お天気情報を見て、雨の確率が十パーセント以下ということを確認してから部屋を飛び出していた。


 外は雲ひとつない一月の青い空が広がっていた。真夜中過ぎまで降っていた雨のせいでアスファルトはまだところどころ濡れている。それが陽光にキラキラと反射して、引き締まる凛とした冬の空気をより濃くしていた。

 新しい年になって五日目。街もそろそろ動きはじめていた。昨日に比べて車の通行量も多くなったし、住宅街を歩く人たちの姿もやけに多く感じた。昨日とは違う道をてくてくと歩きながら街並みを眺める。
 この辺りは高級住宅街として知られる地域で、さすがに敷地も広く、建坪も大きな家屋が多く見受けられた。なかには一体どれだけの敷地があるのか見当もつかない家もある。木々の緑の壁に囲まれた総檜作りの日本家屋やチュダー様式の西洋館、石造りのお屋敷ありと、贅を凝らした家屋が誇らしげに建っていた。

 僕は一級建築士の資格を持っていて、注文住宅や小規模の住宅地開発の設計に係わる仕事をしている。今は大手のハウスメーカー社員として働いているが、いずれは様々な知識と経験を蓄えて独立したいのだ。
 そして家全体をコーディネイト出来る建築士になるのが僕の目標であり夢でもある。建物に庭、間取りやインテリア、そして照明等々。全てが住む人にとって心地良い空間、癒しの場所となり、心からくつろげるホームと呼ばれる家屋を設計したいと思っている。

だからこんなふうに街を歩き、さまざまな家を見ているだけでも勉強になる。家屋の工法やデザインは勿論だけれども、僕は調和が取れている家を好みにしている。その家の門から玄関へのアプローチ。生垣や植栽、花壇や芝生。これらの調和がとれていないと、どんなに贅を凝らした建物であっても殺風景に見えたり、無機質な印象を与える家になってしまうからだ。

 いずれはイングリッシュ・ガーデンも学びたい。そんなことを思いつつ、僕はほんとうにのんびりと街を歩き続けた。
 見知らぬ道を彷徨い続けていると、途中で昨日歩いた十字路に出ていた。道は必ず繋がっているのだと思い知る。

 そろそろ頃合いかなと思い、ポケットからスマホを取り出して時間を見た。午後十二時三十分。彼女と出会ったのは多分、十四時過ぎ頃だと思う。お腹も減ってきたことだし、どこかでランチをして公園に向かえば丁度いい時間になるだろう。

 僕はこの十字路の先に小さな喫茶店が営業していたことを思い出し、雨も降っていないのに『雨にぬれても』を口ずさみながら十字路を左に曲がった。




 十三時五十分。僕は公園の噴水前に陣取った。
 昨日、彼女と僕が出会った遊歩道が真正面に見える絶好のポジションだ。一人納得してベンチに腰掛け空を仰いだ。
 突き抜けるような青い空がとても高い。よし、今日は絶対に雨は降らない。そして途中撤退もあり得ない。彼女の時間の許す限り、色んな話をしたい。僕は心からそう思っていた。

 そのときを今か今かと待ちわびていると、遊歩道の奥から歌声が微かに聞こえてきた。きっと彼女だ。
 ベンチから立ち上がり耳を凝らす。上手い具合に噴水も小休止になり、辺りは静寂に包まれた。彼女のメゾ・ソプラノが次第に近づいてくる。歌声が聞き取れたとき、僕は微笑んでいた。

 今日、彼女が歌っていたのはピーターパンの『You can fly』成る程、その日その時の天気や気分次第で歌う曲が変わるという訳だ。確かに今日の青空を見上げれば『You can fly』はなかなかいい選択だと思う。空に舞い上がれそうなくらいの澄みきった青空だもの。

 それにしても色んな映画の曲を知っているうえに、英語も堪能なんだなと感心もしていた。
 やがて曲が終わると同時に彼女とチェリーが木々に包まれた遊歩道から姿を現した。

「櫻井さん!」

 大きく手を振って、大きな声で彼女の名を呼んだ。次の瞬間、遠目にもはっきりと分かる笑顔が見えた。彼女はチェリーと一緒に僕のいる噴水まで小走りでやって来ると、とても素敵な笑顔をもう一度見せてくれた。

「こんにちは。お元気そうで何よりです。風邪、引かなくて良かったですね」

 すごく嬉しかった。気に掛けていてくれたなんて。社交辞令の言葉だったとしてもやっぱり嬉しい。

「おかげさまで。櫻井さんがタオルを貸してくれたから」

 僕はコートのポケットから例のモノ、青い包装紙に包んだタオルをごそごそと取り出した。
 歪だった形がよけいぐしゃぐしゃになっていた。でも、この感謝の気持ちは伝わると思う。多分……。

「洗濯しておきました。ホントにありがとう」

 差し出したモノに目を遣った彼女は顔を上げ、嬉しげに微笑んでくれた。僕の目を真正面からキチンと見て。

「お洗濯までしてくれたなんて……。チェリーのタオルなのに、ありがとうございます」

 受け取った青い包装紙に包まれたタオルを、彼女は着ていたマスタードのダッフルコートのポケットに仕舞った。すると、チェリーが自分の匂いのするモノに興味があるらしく、後ろ足だけで器用に立ち上がりコートのポケットに鼻面を押し当てる。

「ダメだよ、チェリー。Stay」

 彼女とチェリーの遣り取りを見ながら僕は気付かれぬように深呼吸をしていた。さあ、ここからが正念場だ。



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