ルナは、恋をした。
第4話 ルナは、見ます
その頃。
昇降口で月を見ていた女子生徒の一人が、スマートフォンを操作していた。
画面には、凪へ次々と質問をする月の姿。
そして、去っていく凪の背中へ、
『大好きです!』
と叫ぶ姿まで映っている。
動画には、短い文章が添えられた。
『昨日、一条先輩に振られた一年生。懲りずにアピール中』
投稿されてから、数分。
再生数。
共有数。
コメント。
数字が、次々と増えていく。
『メンタル強すぎ』
『また告白してる』
『これ誰?』
『推薦組の子らしいよ』
『一条先輩、迷惑そう』
動画はクラスを越え、学年を越えて広がっていった。
昨日の噂が消えるより先に、月はまた、学校中の視線を集め始めていた。
*
翌朝。
「ねぇ」
「あの子じゃない?」
「動画の子」
「また一条先輩でも待ってるんじゃない?」
近くで、クスクスと笑う声がした。
昇降口には、まだ数えるほどしか生徒がいない。
月はいつもより三十分早く登校し、小さなメモ帳を手に玄関を見つめていた。
昨日、凪へ質問しても、一つも答えてもらえなかった。
なら。
質問しなくても、知る方法を探す。
月が考えた最初の方法は、
見ることだった。
誰かが扉を開けるたび、朝の冷たい空気が校舎の中へ流れ込んでくる。
一人。
また一人。
登校してくる生徒が増えていく。
静かだった昇降口には、靴箱を開け閉めする音や、挨拶の声が重なり始めた。
月は、その間も同じ場所に立っていた。
「きゃあ! 一条先輩!」
一人の女子生徒が声を上げる。
「今日もかっこいい!」
「一条先輩、おはようございます!」
一条凪が、昇降口へ入ってきた。
声をかける女子生徒たちに囲まれても、凪は足を止めない。
一度視線を向けただけで、そのまま靴箱へ向かった。
月はすぐにメモ帳を開いた。
『七時四十分ごろ登校』
書き終えて顔を上げたときには、凪の姿はすでに校舎の奥へ消えていた。
「また一条くん待ってんの?」
近くにいた二年生の女子生徒が、面白そうに月へ話しかける。
「まだ諦めてないわけ?」
月はメモ帳を閉じた。
「はい」
女子生徒たちの笑顔が、一瞬止まる。
「ストーカーじゃん」
「今日は質問しません」
「……は?」
「見るだけです」
女子生徒たちは顔を見合わせ、また小さく笑った。
月はそのままメモ帳を開いた。
三限目。
体育では、来月の球技大会に向けた練習が始まった。
「今日から球技大会の練習に入るぞ。チームに分かれて、まずは試合形式でやってみろ!」
教師の声に、体育館のあちこちから歓声が上がる。
月も指定されたコートへ向かった。
「朝比奈さん、そこね」
「はい」
先生の笛が鳴った。
サーブ。
レシーブ。
トス。
何度かボールが行き来したあと、相手コートから強い返球が飛んでくる。
「朝比奈さん!」
名前を呼ばれ、月が顔を上げた。
身をかわすより先に、ボールが肩へぶつかった。
バシッ、と乾いた音がする。
「……っ」
肩の奥に、じんとした痛みが広がった。
ボールは床を転がっていく。
月は痛む場所を押さえたあと、すぐにボールを拾った。
「ごめーん!」
相手コートから声が飛ぶ。
その後ろで、数人の女子生徒が笑っていた。
笑い声に重なる色の中へ、黒いものがわずかに滲んだ。
月は、その黒を目で追った。
何を意味する色なのかは、分からなかった。
「大丈夫?」
同じチームの生徒が尋ねた。
「はい」
痛かった。
けれど、動かせないほどではない。
試合が再開する。
今度は、さっきよりも注意してボールを見る。
試合が続く中、別の方向へ飛ぶと思っていたボールが、急に月の方へ向きを変えた。
腕へ強く当たる。
「痛っ……」
「ごめーん、コントロールできなかった!」
相手コートから笑い声が上がる。
また、その色に黒が混じった。
今度は、さっきよりも少し濃い。
月は痛む腕を押さえた。
「おーい、ちゃんとコントロールしろよー!」
離れたところから教師が声をかける。
「すみませーん!」
明るい返事が返った。
試合は、そのまま続いていった。
*
昼休み。
チャイムが鳴ると、月はすぐに立ち上がった。
弁当箱とメモ帳を持って、教室を出る。
「何あれ」
「さあ?」
クラスメイトたちは、廊下の向こうへ消えていく月の背中を見送った。
二年生の教室が並ぶ階へ上がる。
月は、廊下にいた男子生徒へ声をかけた。
「すみません。一条先輩のクラスはどこですか?」
「え?」
突然話しかけられた男子生徒が、少し驚いた顔をする。
「一条なら、二年A組だけど……君って、あの動画の——」
「ありがとうございます!」
知りたいことを聞けた月は、すぐに頭を下げた。
「あ、ちょっと……」
呼び止める声には振り返らず、二年A組へ向かった。
教室の前へ着く。
開いた扉から中を覗き込んだ。
「一条先輩……一条先輩……」
見える範囲を、端から順番に探す。
すると近くにいた男子生徒が声をかけた。
「一条なら食堂だよ」
月は振り返った。
見たことのない男子生徒だった。
けれど相手は、月のことを知っているような顔で笑っている。
「さっき出ていった」
「ありがとうございます!」
月は頭を下げると、すぐに踵を返した。
「噂どおりだな……」
背後で聞こえた声にも振り返らず、階段を駆け下りる。
昼休みで混雑する廊下を抜け、食堂へ続く扉を開けた。
その瞬間、月の足が止まった。
高い天井。
壁一面の窓から差し込む陽の光。
ゆったりと並んだテーブルと椅子。
学校の食堂というより、ホテルのラウンジに近かった。
月は入学してから、ほとんどここへ来たことがない。
毎朝、施設の園長が作ってくれた弁当を持ってきている。
食堂で昼食を買う必要はなかった。
それに、並んでいる料理の値段は、施設からもらっているお小遣いよりずっと高かった。
月は入口に立ったまま、広い食堂を見回す。
窓側。
中央。
奥。
たくさんの生徒の中から、ようやく凪の姿を見つけた。
数人の男子生徒と一緒に、昼食を食べていた。
月は、凪から少し離れた空席へ腰を下ろした。
そこなら、凪の姿がよく見えた。
弁当箱を開き、その隣にメモ帳を置く。
『昼休みは食堂』
書いてから、もう一度凪を見る。
友人の一人が、何かを話していた。
凪が短く答える。
遠くて言葉までは聞き取れない。
けれど、様々な色の間に、柔らかな白が浮かんだ。
別の男子生徒が笑う。
凪も、ほんの少し口元を緩めた。
白の中に、細かな光が瞬いた。
月はペンを構えたまま、その様子を見つめた。
『友達と食べる。話す回数は少ない。ときどき笑う』
そこまで書いて、月の手が止まった。
これを書けば、一条凪という人が分かるのだろうか。
凪が何時に登校するかは分かった。
昼休みに食堂へ来ることも分かった。
けれど、何が好きなのか。
どうして笑ったのか。
その友達のどんなところが好きなのか。
そういうことは、何も分からない。
見えているのは、行動だけだった。
一条凪という人そのものは、まだ見えなかった。
それでも、質問をすれば嫌がられる。
今できることは、見ることだけだった。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。
月は、余白の多いページを見つめた。
それから、メモ帳を閉じた。
翌日も、その次の日も。
月は朝も昼休みも放課後も、凪を見かけるたび少し離れた場所からメモを取った。
数日後には、白かったページにも細かな文字が増えていた。
*
放課後。
月は中庭に面した柱の陰に立ち、メモ帳を開いていた。
柱から半分ほど顔を出し、向こうを歩く凪を見る。
「あれ、ルナちゃんじゃない?」
凪と一緒に歩いていた男子生徒が、足を緩めた。
「あ、本当だ」
別の男子生徒も月を見つける。
「何してんだろ、あんなところで」
「凪のこと見てるんじゃないか?」
その視線につられ、凪も柱の方を見る。
月は、自分が見つかっていることにも気づかず、真剣にペンを動かしている。
凪はしばらく黙っていた。
「……」
額へ指を当てる。
「……はあ」
「完全に凪のこと見てるだろ」
凪は月から視線を外した。
「さあな」
それだけ言って、歩き出す。
男子生徒たちも、そのあとを追った。
柱の陰では、
月が、新しい一行を書き足していた。
『友達と歩いているとき、話す回数は少ない』
月は書いた文字を見つめた。
今日もまた、一条先輩のことを一つ知った。
けれど。
一条先輩がどんな人なのかは、まだ分からなかった。
昇降口で月を見ていた女子生徒の一人が、スマートフォンを操作していた。
画面には、凪へ次々と質問をする月の姿。
そして、去っていく凪の背中へ、
『大好きです!』
と叫ぶ姿まで映っている。
動画には、短い文章が添えられた。
『昨日、一条先輩に振られた一年生。懲りずにアピール中』
投稿されてから、数分。
再生数。
共有数。
コメント。
数字が、次々と増えていく。
『メンタル強すぎ』
『また告白してる』
『これ誰?』
『推薦組の子らしいよ』
『一条先輩、迷惑そう』
動画はクラスを越え、学年を越えて広がっていった。
昨日の噂が消えるより先に、月はまた、学校中の視線を集め始めていた。
*
翌朝。
「ねぇ」
「あの子じゃない?」
「動画の子」
「また一条先輩でも待ってるんじゃない?」
近くで、クスクスと笑う声がした。
昇降口には、まだ数えるほどしか生徒がいない。
月はいつもより三十分早く登校し、小さなメモ帳を手に玄関を見つめていた。
昨日、凪へ質問しても、一つも答えてもらえなかった。
なら。
質問しなくても、知る方法を探す。
月が考えた最初の方法は、
見ることだった。
誰かが扉を開けるたび、朝の冷たい空気が校舎の中へ流れ込んでくる。
一人。
また一人。
登校してくる生徒が増えていく。
静かだった昇降口には、靴箱を開け閉めする音や、挨拶の声が重なり始めた。
月は、その間も同じ場所に立っていた。
「きゃあ! 一条先輩!」
一人の女子生徒が声を上げる。
「今日もかっこいい!」
「一条先輩、おはようございます!」
一条凪が、昇降口へ入ってきた。
声をかける女子生徒たちに囲まれても、凪は足を止めない。
一度視線を向けただけで、そのまま靴箱へ向かった。
月はすぐにメモ帳を開いた。
『七時四十分ごろ登校』
書き終えて顔を上げたときには、凪の姿はすでに校舎の奥へ消えていた。
「また一条くん待ってんの?」
近くにいた二年生の女子生徒が、面白そうに月へ話しかける。
「まだ諦めてないわけ?」
月はメモ帳を閉じた。
「はい」
女子生徒たちの笑顔が、一瞬止まる。
「ストーカーじゃん」
「今日は質問しません」
「……は?」
「見るだけです」
女子生徒たちは顔を見合わせ、また小さく笑った。
月はそのままメモ帳を開いた。
三限目。
体育では、来月の球技大会に向けた練習が始まった。
「今日から球技大会の練習に入るぞ。チームに分かれて、まずは試合形式でやってみろ!」
教師の声に、体育館のあちこちから歓声が上がる。
月も指定されたコートへ向かった。
「朝比奈さん、そこね」
「はい」
先生の笛が鳴った。
サーブ。
レシーブ。
トス。
何度かボールが行き来したあと、相手コートから強い返球が飛んでくる。
「朝比奈さん!」
名前を呼ばれ、月が顔を上げた。
身をかわすより先に、ボールが肩へぶつかった。
バシッ、と乾いた音がする。
「……っ」
肩の奥に、じんとした痛みが広がった。
ボールは床を転がっていく。
月は痛む場所を押さえたあと、すぐにボールを拾った。
「ごめーん!」
相手コートから声が飛ぶ。
その後ろで、数人の女子生徒が笑っていた。
笑い声に重なる色の中へ、黒いものがわずかに滲んだ。
月は、その黒を目で追った。
何を意味する色なのかは、分からなかった。
「大丈夫?」
同じチームの生徒が尋ねた。
「はい」
痛かった。
けれど、動かせないほどではない。
試合が再開する。
今度は、さっきよりも注意してボールを見る。
試合が続く中、別の方向へ飛ぶと思っていたボールが、急に月の方へ向きを変えた。
腕へ強く当たる。
「痛っ……」
「ごめーん、コントロールできなかった!」
相手コートから笑い声が上がる。
また、その色に黒が混じった。
今度は、さっきよりも少し濃い。
月は痛む腕を押さえた。
「おーい、ちゃんとコントロールしろよー!」
離れたところから教師が声をかける。
「すみませーん!」
明るい返事が返った。
試合は、そのまま続いていった。
*
昼休み。
チャイムが鳴ると、月はすぐに立ち上がった。
弁当箱とメモ帳を持って、教室を出る。
「何あれ」
「さあ?」
クラスメイトたちは、廊下の向こうへ消えていく月の背中を見送った。
二年生の教室が並ぶ階へ上がる。
月は、廊下にいた男子生徒へ声をかけた。
「すみません。一条先輩のクラスはどこですか?」
「え?」
突然話しかけられた男子生徒が、少し驚いた顔をする。
「一条なら、二年A組だけど……君って、あの動画の——」
「ありがとうございます!」
知りたいことを聞けた月は、すぐに頭を下げた。
「あ、ちょっと……」
呼び止める声には振り返らず、二年A組へ向かった。
教室の前へ着く。
開いた扉から中を覗き込んだ。
「一条先輩……一条先輩……」
見える範囲を、端から順番に探す。
すると近くにいた男子生徒が声をかけた。
「一条なら食堂だよ」
月は振り返った。
見たことのない男子生徒だった。
けれど相手は、月のことを知っているような顔で笑っている。
「さっき出ていった」
「ありがとうございます!」
月は頭を下げると、すぐに踵を返した。
「噂どおりだな……」
背後で聞こえた声にも振り返らず、階段を駆け下りる。
昼休みで混雑する廊下を抜け、食堂へ続く扉を開けた。
その瞬間、月の足が止まった。
高い天井。
壁一面の窓から差し込む陽の光。
ゆったりと並んだテーブルと椅子。
学校の食堂というより、ホテルのラウンジに近かった。
月は入学してから、ほとんどここへ来たことがない。
毎朝、施設の園長が作ってくれた弁当を持ってきている。
食堂で昼食を買う必要はなかった。
それに、並んでいる料理の値段は、施設からもらっているお小遣いよりずっと高かった。
月は入口に立ったまま、広い食堂を見回す。
窓側。
中央。
奥。
たくさんの生徒の中から、ようやく凪の姿を見つけた。
数人の男子生徒と一緒に、昼食を食べていた。
月は、凪から少し離れた空席へ腰を下ろした。
そこなら、凪の姿がよく見えた。
弁当箱を開き、その隣にメモ帳を置く。
『昼休みは食堂』
書いてから、もう一度凪を見る。
友人の一人が、何かを話していた。
凪が短く答える。
遠くて言葉までは聞き取れない。
けれど、様々な色の間に、柔らかな白が浮かんだ。
別の男子生徒が笑う。
凪も、ほんの少し口元を緩めた。
白の中に、細かな光が瞬いた。
月はペンを構えたまま、その様子を見つめた。
『友達と食べる。話す回数は少ない。ときどき笑う』
そこまで書いて、月の手が止まった。
これを書けば、一条凪という人が分かるのだろうか。
凪が何時に登校するかは分かった。
昼休みに食堂へ来ることも分かった。
けれど、何が好きなのか。
どうして笑ったのか。
その友達のどんなところが好きなのか。
そういうことは、何も分からない。
見えているのは、行動だけだった。
一条凪という人そのものは、まだ見えなかった。
それでも、質問をすれば嫌がられる。
今できることは、見ることだけだった。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。
月は、余白の多いページを見つめた。
それから、メモ帳を閉じた。
翌日も、その次の日も。
月は朝も昼休みも放課後も、凪を見かけるたび少し離れた場所からメモを取った。
数日後には、白かったページにも細かな文字が増えていた。
*
放課後。
月は中庭に面した柱の陰に立ち、メモ帳を開いていた。
柱から半分ほど顔を出し、向こうを歩く凪を見る。
「あれ、ルナちゃんじゃない?」
凪と一緒に歩いていた男子生徒が、足を緩めた。
「あ、本当だ」
別の男子生徒も月を見つける。
「何してんだろ、あんなところで」
「凪のこと見てるんじゃないか?」
その視線につられ、凪も柱の方を見る。
月は、自分が見つかっていることにも気づかず、真剣にペンを動かしている。
凪はしばらく黙っていた。
「……」
額へ指を当てる。
「……はあ」
「完全に凪のこと見てるだろ」
凪は月から視線を外した。
「さあな」
それだけ言って、歩き出す。
男子生徒たちも、そのあとを追った。
柱の陰では、
月が、新しい一行を書き足していた。
『友達と歩いているとき、話す回数は少ない』
月は書いた文字を見つめた。
今日もまた、一条先輩のことを一つ知った。
けれど。
一条先輩がどんな人なのかは、まだ分からなかった。