ルナは、恋をした。
第3話 ルナは、知りたいです
翌朝。
月はいつもより少し早く教室へ来ていた。
まだ空席の目立つ教室で、鞄から透明なファイルを取り出す。
中には、昨夜作った歴史の発表資料が入っていた。
原稿の右上には、誰がどこを読むのか分かるように、それぞれの名前も書いてある。
みんな、喜んでくれるだろうか。
月はファイルの端をきれいにそろえた。
教室の扉が開き、西城茜が二人の女子生徒と一緒に入ってきた。
「おはようございます、西城さん!」
茜は月を見た。
「……おはよ」
月の机に置かれたファイルに気づくと、足を止めた。
「それ、歴史の?」
「はい!」
月はファイルを両手で差し出した。
「全部できました!」
「全部?」
「スライドと、原稿と、レジュメです。参考にした本も、最後に書いてあります」
茜は受け取ったファイルを開き、中身をめくっていく。
隣にいた女子生徒が、肩越しに覗き込んだ。
「え、昨日だけで作ったの?」
「はい」
「これ全部、一人で?」
「はい! ルナが一人で作りました。みなさん忙しいので」
「発表しやすいように、読むところも分けました。全部読んだら、六分五十八秒でした」
茜たちが顔を見合わせる。
一人が思わず呟いた。
「……すご」
月は褒められたのだと思って笑った。
「分かりにくいところがあったら教えてください。ルナ、直します」
「うん。ありがと」
茜はファイルを閉じた。
「じゃあ、これ私たちで見ておくね」
「一緒に確認しなくても大丈夫ですか?」
「また今度でいいよ」
「分かりました!」
月は素直に頷いた。
茜たちはファイルを持って、自分たちの席へ戻っていく。
席へ戻ると、声を潜めた。
「ほんとに全部やってきたんだけど」
「頼んだの昨日だよね?」
「暇なんじゃない?」
茜が資料をもう一度開く。
「でも、これなら私たち何もしなくてよさそう」
小さな笑い声が重なる。
月は自分の席で、次の授業の教科書を取り出していた。
その声までは、届いていなかった。
*
放課後。
月は一人、昇降口へ向かっていた。
廊下には、部活動へ向かう生徒や、迎えを待つ生徒たちの声が響いている。
白鳳学院では、放課後になると車寄せへ迎えの車が次々と入ってくる。
月はいつも、一人でバスに乗って帰っていた。
下駄箱から靴を取り出し、上履きと履き替える。
そのとき。
少し離れたところから、男子生徒たちの話し声が聞こえた。
「今日、運転手遅れてんの?」
「ああ。十分くらいかかるらしい」
低く、落ち着いた声。
その声が耳へ届いた瞬間、月の手が止まった。
視界の端に、柔らかな白が広がる。
綿毛のように軽く、輪郭の曖昧な白。
月は顔を上げた。
昇降口の柱の近くに、一条凪が立っていた。
数人の男子生徒と一緒にいる。
凪は片手に鞄を持ち、もう一方の手でスマートフォンを見ていた。
昨日、凪は言った。
知らない相手とは付き合わない。
ならば、まずはお互いのことを知ればいい。
月はそう考えた。
昨夜、月はメモ帳に質問をいくつも書き出していた。
好きな食べ物。
好きな色。
好きな本。
好きな季節。
好きな動物。
その下にも、質問がいくつも並んでいる。
月は鞄からメモ帳を取り出した。
「一条先輩!」
凪と男子生徒たちが、月の方へ振り返る。
「あ」
一人が月に気づいた。
「昨日の一年じゃん」
凪もスマートフォンから顔を上げ、月を見た。
「……」
凪の前まで駆け寄り、メモ帳を開く。
「またあんたか」
低い声とともに、柔らかな白が月の視界へ広がった。
やっぱり、この色だ。
月は嬉しそうに笑った。
そして、メモ帳の一番上を見る。
「好きな食べ物は何ですか?」
「……は?」
「好きな色は何ですか? 好きな本と、好きな季節と、好きな動物も知りたいです」
凪の隣にいた男子生徒が吹き出した。
「昨日は告白して、今日はインタビューかよ」
月は男子生徒を見たあと、すぐに凪へ向き直った。
凪は月を見下ろしていた。
「それを聞いてどうする」
「一条先輩のことを知れます!」
凪が眉間に皺を寄せる。
「知らない相手に、わざわざ自分のこと話す気ない」
月は少し考えた。
知らない相手には、話したくない。
それなら――。
「ルナの好きな食べ物は、オムライスです」
「……何の話だ」
「卵は半熟じゃなくて、しっかり焼いた方が好きです。好きな色は黄色です。猫も好きです」
「だから」
「誕生日は六月十五日です」
月は指を折りながら続ける。
「音楽も好きです。雨の音と、まだ誰も起きていない早朝の空の音も好きです。それから――」
「もういい」
凪が深く息を吐いた。
その声から広がる白に、細い棘のような形が混じる。
「一条先輩の声、尖っています」
「……声?」
「はい。一条先輩の声です」
月は宙へ手を伸ばした。
指先が触れる前に、白はほどけて消えていく。
月には、声の色や形が見える。
けれど、その違いが何を意味するのかまで分かるわけではない。
「とにかく」
凪は怪訝そうに月を見た。
「俺はあんたのこと知りたいと思わない」
月は瞬きをした。
一条先輩は、ルナのことを知りたくない。
胸の奥に、何かが小さく落ちた。
月はメモ帳へ目を落とす。
まだ聞いていないことが、たくさん残っている。
「……好きな色は何ですか?」
「話聞いてたか?」
「はい」
「なら、なんでまだ聞く」
月は凪を見上げた。
「一条先輩がルナを知りたくなくても、ルナは一条先輩を知りたいです」
凪が黙った。
隣にいた男子生徒たちも、顔を見合わせる。
凪が自分を知りたくないことと、自分が凪を知りたいこと。
月の中では、それは別の話だった。
月は返事を待つ。
けれど、凪は答えない。
月は次の項目へ指を動かした。
「好きな本は――」
「答える気はない」
月は顔を上げた。
「本を読まないという意味ですか?」
「違う」
「では、好きな本はあるんですね?」
凪の眉間の皺が深くなった。
「……話通じないな」
「どの部分が通じていませんか?」
凪は黙った。
横で聞いていた男子生徒が、とうとう笑い出す。
「まあまあ、ルナちゃん。今日はこの辺にしときな」
月が振り向く。
「あんまりしつこいと、好きになってもらうどころか嫌われるぞ」
月は考えてから、男子生徒を見上げた。
「一条先輩は、もうルナが嫌いですか?」
「え、俺に聞く?」
男子生徒は笑いながら凪を指した。
「それは本人に聞けば」
確かに、本人に聞くのが一番正確だ。
「一条先輩」
月が口を開きかけたとき、凪の手の中でスマートフォンが短く震えた。
凪が画面へ目を落とす。
「……やっと来た」
スマートフォンを鞄へしまう。
「俺、先帰る」
「おう」
「また明日な」
凪が昇降口を出て、車寄せへ向かう。
「あっ」
月は凪の背中へ声をかけた。
「一条先輩!」
凪は振り返らない。
月は大きく息を吸った。
「大好きです!」
昇降口に、月の声が響いた。
周囲の生徒たちが一斉に振り返る。
凪の足が一瞬止まる。
けれど、振り返らない。
「はあ……」
大きなため息とともに、細く尖った白が凪の横へ伸びた。
凪はそのまま車寄せへ向かって歩いていく。
月も昇降口を飛び出し、凪の後を追って車寄せへ向かった。
そこには、黒い車が停まっていた。
運転手が後部座席の扉を開ける。
凪は月を振り返ることなく、そのまま車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、黒い車がゆっくりと動き出した。
「さようなら、一条先輩!」
月は大きく手を振った。
返事はない。
車は車寄せを抜け、敷地内の道路を進んでいく。
月は車が見える位置へ数歩移動した。
木々の隙間から、まだ黒い車が見える。
「また明日です!」
もう一度、大きく手を振った。
車はそのまま遠ざかり、校門の向こうへ消えていった。
月はようやく手を下ろした。
好きな食べ物は分からなかった。
好きな色も。
好きな本も。
好きな季節も。
好きな動物も。
一つも答えてもらえなかった。
けれど。
分かったこともある。
月はメモ帳を開いた。
白紙のページに、ペンを走らせる。
『一条先輩は、知らない人に自分のことを話したくない』
その下へ続けて書く。
『一条先輩は、ルナの質問に答えたくない』
月はそこでペンを止めた。
凪は、自分のことを知りたいとは思わないと言った。
胸の奥には、小さな重さが残っていた。
月はメモ帳に並んだ質問を見返した。
聞いても、答えてくれない。
それなら。
別の方法を探さなければならない。
月は二つのメモの下に、新しい一行を書き足した。
『質問しなくても、一条先輩を知る方法を探す』
書き終えると、月はメモ帳を閉じた。
「……どうしたら、一条先輩のことを知れるんでしょう」
月はメモ帳を鞄へしまい、考えながら校門へ向かった。
月はいつもより少し早く教室へ来ていた。
まだ空席の目立つ教室で、鞄から透明なファイルを取り出す。
中には、昨夜作った歴史の発表資料が入っていた。
原稿の右上には、誰がどこを読むのか分かるように、それぞれの名前も書いてある。
みんな、喜んでくれるだろうか。
月はファイルの端をきれいにそろえた。
教室の扉が開き、西城茜が二人の女子生徒と一緒に入ってきた。
「おはようございます、西城さん!」
茜は月を見た。
「……おはよ」
月の机に置かれたファイルに気づくと、足を止めた。
「それ、歴史の?」
「はい!」
月はファイルを両手で差し出した。
「全部できました!」
「全部?」
「スライドと、原稿と、レジュメです。参考にした本も、最後に書いてあります」
茜は受け取ったファイルを開き、中身をめくっていく。
隣にいた女子生徒が、肩越しに覗き込んだ。
「え、昨日だけで作ったの?」
「はい」
「これ全部、一人で?」
「はい! ルナが一人で作りました。みなさん忙しいので」
「発表しやすいように、読むところも分けました。全部読んだら、六分五十八秒でした」
茜たちが顔を見合わせる。
一人が思わず呟いた。
「……すご」
月は褒められたのだと思って笑った。
「分かりにくいところがあったら教えてください。ルナ、直します」
「うん。ありがと」
茜はファイルを閉じた。
「じゃあ、これ私たちで見ておくね」
「一緒に確認しなくても大丈夫ですか?」
「また今度でいいよ」
「分かりました!」
月は素直に頷いた。
茜たちはファイルを持って、自分たちの席へ戻っていく。
席へ戻ると、声を潜めた。
「ほんとに全部やってきたんだけど」
「頼んだの昨日だよね?」
「暇なんじゃない?」
茜が資料をもう一度開く。
「でも、これなら私たち何もしなくてよさそう」
小さな笑い声が重なる。
月は自分の席で、次の授業の教科書を取り出していた。
その声までは、届いていなかった。
*
放課後。
月は一人、昇降口へ向かっていた。
廊下には、部活動へ向かう生徒や、迎えを待つ生徒たちの声が響いている。
白鳳学院では、放課後になると車寄せへ迎えの車が次々と入ってくる。
月はいつも、一人でバスに乗って帰っていた。
下駄箱から靴を取り出し、上履きと履き替える。
そのとき。
少し離れたところから、男子生徒たちの話し声が聞こえた。
「今日、運転手遅れてんの?」
「ああ。十分くらいかかるらしい」
低く、落ち着いた声。
その声が耳へ届いた瞬間、月の手が止まった。
視界の端に、柔らかな白が広がる。
綿毛のように軽く、輪郭の曖昧な白。
月は顔を上げた。
昇降口の柱の近くに、一条凪が立っていた。
数人の男子生徒と一緒にいる。
凪は片手に鞄を持ち、もう一方の手でスマートフォンを見ていた。
昨日、凪は言った。
知らない相手とは付き合わない。
ならば、まずはお互いのことを知ればいい。
月はそう考えた。
昨夜、月はメモ帳に質問をいくつも書き出していた。
好きな食べ物。
好きな色。
好きな本。
好きな季節。
好きな動物。
その下にも、質問がいくつも並んでいる。
月は鞄からメモ帳を取り出した。
「一条先輩!」
凪と男子生徒たちが、月の方へ振り返る。
「あ」
一人が月に気づいた。
「昨日の一年じゃん」
凪もスマートフォンから顔を上げ、月を見た。
「……」
凪の前まで駆け寄り、メモ帳を開く。
「またあんたか」
低い声とともに、柔らかな白が月の視界へ広がった。
やっぱり、この色だ。
月は嬉しそうに笑った。
そして、メモ帳の一番上を見る。
「好きな食べ物は何ですか?」
「……は?」
「好きな色は何ですか? 好きな本と、好きな季節と、好きな動物も知りたいです」
凪の隣にいた男子生徒が吹き出した。
「昨日は告白して、今日はインタビューかよ」
月は男子生徒を見たあと、すぐに凪へ向き直った。
凪は月を見下ろしていた。
「それを聞いてどうする」
「一条先輩のことを知れます!」
凪が眉間に皺を寄せる。
「知らない相手に、わざわざ自分のこと話す気ない」
月は少し考えた。
知らない相手には、話したくない。
それなら――。
「ルナの好きな食べ物は、オムライスです」
「……何の話だ」
「卵は半熟じゃなくて、しっかり焼いた方が好きです。好きな色は黄色です。猫も好きです」
「だから」
「誕生日は六月十五日です」
月は指を折りながら続ける。
「音楽も好きです。雨の音と、まだ誰も起きていない早朝の空の音も好きです。それから――」
「もういい」
凪が深く息を吐いた。
その声から広がる白に、細い棘のような形が混じる。
「一条先輩の声、尖っています」
「……声?」
「はい。一条先輩の声です」
月は宙へ手を伸ばした。
指先が触れる前に、白はほどけて消えていく。
月には、声の色や形が見える。
けれど、その違いが何を意味するのかまで分かるわけではない。
「とにかく」
凪は怪訝そうに月を見た。
「俺はあんたのこと知りたいと思わない」
月は瞬きをした。
一条先輩は、ルナのことを知りたくない。
胸の奥に、何かが小さく落ちた。
月はメモ帳へ目を落とす。
まだ聞いていないことが、たくさん残っている。
「……好きな色は何ですか?」
「話聞いてたか?」
「はい」
「なら、なんでまだ聞く」
月は凪を見上げた。
「一条先輩がルナを知りたくなくても、ルナは一条先輩を知りたいです」
凪が黙った。
隣にいた男子生徒たちも、顔を見合わせる。
凪が自分を知りたくないことと、自分が凪を知りたいこと。
月の中では、それは別の話だった。
月は返事を待つ。
けれど、凪は答えない。
月は次の項目へ指を動かした。
「好きな本は――」
「答える気はない」
月は顔を上げた。
「本を読まないという意味ですか?」
「違う」
「では、好きな本はあるんですね?」
凪の眉間の皺が深くなった。
「……話通じないな」
「どの部分が通じていませんか?」
凪は黙った。
横で聞いていた男子生徒が、とうとう笑い出す。
「まあまあ、ルナちゃん。今日はこの辺にしときな」
月が振り向く。
「あんまりしつこいと、好きになってもらうどころか嫌われるぞ」
月は考えてから、男子生徒を見上げた。
「一条先輩は、もうルナが嫌いですか?」
「え、俺に聞く?」
男子生徒は笑いながら凪を指した。
「それは本人に聞けば」
確かに、本人に聞くのが一番正確だ。
「一条先輩」
月が口を開きかけたとき、凪の手の中でスマートフォンが短く震えた。
凪が画面へ目を落とす。
「……やっと来た」
スマートフォンを鞄へしまう。
「俺、先帰る」
「おう」
「また明日な」
凪が昇降口を出て、車寄せへ向かう。
「あっ」
月は凪の背中へ声をかけた。
「一条先輩!」
凪は振り返らない。
月は大きく息を吸った。
「大好きです!」
昇降口に、月の声が響いた。
周囲の生徒たちが一斉に振り返る。
凪の足が一瞬止まる。
けれど、振り返らない。
「はあ……」
大きなため息とともに、細く尖った白が凪の横へ伸びた。
凪はそのまま車寄せへ向かって歩いていく。
月も昇降口を飛び出し、凪の後を追って車寄せへ向かった。
そこには、黒い車が停まっていた。
運転手が後部座席の扉を開ける。
凪は月を振り返ることなく、そのまま車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、黒い車がゆっくりと動き出した。
「さようなら、一条先輩!」
月は大きく手を振った。
返事はない。
車は車寄せを抜け、敷地内の道路を進んでいく。
月は車が見える位置へ数歩移動した。
木々の隙間から、まだ黒い車が見える。
「また明日です!」
もう一度、大きく手を振った。
車はそのまま遠ざかり、校門の向こうへ消えていった。
月はようやく手を下ろした。
好きな食べ物は分からなかった。
好きな色も。
好きな本も。
好きな季節も。
好きな動物も。
一つも答えてもらえなかった。
けれど。
分かったこともある。
月はメモ帳を開いた。
白紙のページに、ペンを走らせる。
『一条先輩は、知らない人に自分のことを話したくない』
その下へ続けて書く。
『一条先輩は、ルナの質問に答えたくない』
月はそこでペンを止めた。
凪は、自分のことを知りたいとは思わないと言った。
胸の奥には、小さな重さが残っていた。
月はメモ帳に並んだ質問を見返した。
聞いても、答えてくれない。
それなら。
別の方法を探さなければならない。
月は二つのメモの下に、新しい一行を書き足した。
『質問しなくても、一条先輩を知る方法を探す』
書き終えると、月はメモ帳を閉じた。
「……どうしたら、一条先輩のことを知れるんでしょう」
月はメモ帳を鞄へしまい、考えながら校門へ向かった。