もう一つの学校
校内マップの異変
ーーガラガラガラガラ。
「失礼しました」
職員室を出ると、生徒たちが一斉に帰宅したからか、廊下はシーンと静まり返っていた。
手ぶらできてしまったから、カバンを取りに教室に戻らなきゃ。
3年C組は、2階の渡り廊下を通った先にある。
1階の玄関近くにある職員室からは、まあまあ遠い。
「ふう」
1階から2階へ階段を上りきると、目の前には、緑の大きな掲示板。
その隣には、校内マップがあった。
それにしても広い学校……。
田舎って土地だけはあるものね。
共学の中高一貫ともなると、高校生も同じ敷地内にいるわけだし……迷路のようだわ。
校内マップを少しの時間眺めるだけで、テーマパークにいるような気持ちになる。
「音楽室……あった。科学室は、ここね。図書室は……少し探検してみようかしら」
各階の掲示板横にある校内マップを頼りに、雅は校内を散策することにした。
だが、校内は広すぎて、すべて回りきるなど到底無理だと序盤に断念し、結局図書室に行きつく。
私立の中高一貫の図書館は宝の山だ。
雅は時間を忘れて読書に没頭した。
どれくらい経っただろう。
窓の外には、オレンジ色の夕日が沈みかけている。
雅が3年C組まで戻ってくると、教室には、クラスメイトの和田ジョウがひとり。
案の定、机に顔を伏せて、窓の方を向いていた。
ずっと寝ているのね……。
雅は、一瞬起こした方がいいだろうかと悩んだ。
だが、自己紹介を聞いてもいない同級生に声をかけても……とすぐに思いとどまった。
ガッと椅子を引いて、引き出しの中の教科書をカバンに入れる。
「秒速1.4〜1.8メートルってとこやな」
突如。
低く、ハスキーな声が、静かな教室に響いた。
驚いた雅は、引き出しの中に入れた手を止める。
秒速1.4?
「DIC-N704……? もう少し薄いか」
ディック……。
どこかで聞いたことがあるような……。
あ、DICか。
カラーガイドのことだろうと雅は合点がいった。
カラーガイドとは、色の一覧がまとまった紙の束。
雅の母親はデザイナーで、母が仕事でよく使っているものだ。
もしかして、色をすべて記憶しているのだろうか。
「桜の色? N704って。たしか、Nは《日本の伝統色》だったかしら」
バッ!
勢いよく起き上がったジョワは、雅を見た。
驚いているのか、目を見開いている。
雅がジョウの顔を見たのは、この瞬間が初めてだった。
そして、美少年とは、このような顔のことをいうのだと妙に納得してしまった。
昼休みにクラスの女子が、ジョウのことを「美少年美少年」と口を揃えて騒いでいたのだ。
真っ黒なサラサラの髪に、長めの前髪。
少しつり目な真っ黒な瞳。高い鼻。
シュッとした輪郭ーー。
視線がぶつかり、ジョウの瞳がかすかに揺れる。
視界の外で、カーテンが柔らかく風になびいた。
「……DIC-582に近いな。それと……y=a(x ーh)²+k」
「……はい?」
DIC-582?
今度は、なんの色かしら。
それに数式……? y=……?
「桜は、ひらひら散ると思うか? それとも、くるくる散るか?」
突然の質問に、雅はなんの話だろうと一瞬思った。
だが、すぐになんのことかわかった。
「左右に揺れる運動と回転する運動の話?」
雅は咄嗟に聞き返す。
物理かしら。
桜はひらひらと散ることもあるし、くるくる散ることだってあると思うけど。
「カオス的軌道の話や」
カオス的軌道?
思考を巡らせていると、背後に気配を感じる。
「お! 起きたか! ジョウ。それに神崎さんだ!」
振り返ると、入り口にもたれかかった茶髪パピヨンーー渡部ヤマトのおでましだ。
「ヤマト。俺は寝てないで。……そういえば、お前、誰?」
ジョウは、再び視線を雅へと移動させる。
「ちょっとー! 女の子に"お前"なんてダメダメ! ジョウ、言葉遣い、気をつけな!」
「は? で、DIC-582、名前は?」
「……神崎雅です」
「ジョウ、やっぱ寝てたじゃん。朝のホームルームで自己紹介してたよ。転校生の神崎さん!」
ジョウは、2秒ほど雅の顔を見つめると、顔を突っ伏すお決まりのポーズに戻った。
ヤマトは、いつの間にか近くまで来ていて、雅の椅子に手をかける。
「てか、神崎さん居残り? もう帰る? 家まで送ろうか? どっち方面?」
キラキラした顔で質問をポンポンポンと投げる。
「もう帰るわ。送っていただかなくて結構よ」
雅は、スクールバッグを肩にかけた。
「えー! 一緒に帰ろ〜よ〜! ジョウ、準備して!」
「……」
雅は、2人を置いて、教室をあとにする。
階段前まで来て、ふと、校内マップに目をやった。
ん?
なんだろう、この違和感。
雅は、もう一度まじまじと見た。
足を止めている間に、ヤマトとジョウがやってくる。
「神崎さん、どうしたの? もしかして、俺らのこと待ってくれてた!?」
「いいえ」
「がーん。なんだあ」
「このマップ……変わっている気がして」
「変わってる?」
ヤマトも雅とともに校内マップを見つめた。
ジョウは、そっぽを向いて大きなあくびをしている。
「……この階段」
「階段がどうしたの?」
「さっきは、なかったわ」
雅の発言に、2人は顔を見合わせた。
先ほどの顔から一変して、ジョウは真剣な表情に変わっていた。
ヤマトは、ニヤッとして、雅と距離を詰めた。
「ははは。神崎さんも見える人?」