恋と焦燥のロードマップ
心臓がバクンと跳ね上がった。美智子と交わしていたのは、アラサー独身女子の、最も生々しい本音の会話だ。神谷くんは書類の入ったファイルを持ったまま、給湯室の中へ一度だけ、冷ややかな視線を向けた。メガネの奥の切れ上がった瞳が、一瞬だけ鋭く細められたような気がした。けれど、彼は何事もなかったかのように、すぐに踵を返して営業二課のフロアへと歩き去っていった。
「ちょっと、今の神谷くんじゃない? 聞かれたかな……」
美智子がそう言いながら顔を赤くして身を縮める。
「最悪…。ただでさえ私、あの子から『仕事はできるけどプライベートが必死な年上の先輩』って思われてそうなのに……」
私は頭を抱えた。せっかく始めたアプリのモチベーションが出鼻を挫かれて一気に急降下していく。
その日の夜、残業を終えて江東区の築古アパートに帰り着いた私は、メイクも落とさずにベッドに倒れ込んだ。ヒールで疲れた足をささりながら、おそるおそる『Link』のアプリを起動する。
「はぁ…やっぱり神谷くんに聞かれたの、恥ずかしいな……」
そんな自己嫌悪を紛らわせるように、画面をスクロールした、その時だった。アプリの通知欄に、見たこともないような鮮烈な赤いドットが灯っている。
『あなたに「いいね!」が届いています』
何気なくそのページを開いた私の指先が、完全に凍りついた。そこに表示されていた名前は、ひらがなでもローマ字のイニシャルでもない。漢字で堂々と『神谷誠也』と登録されていた。
登録されている唯一の顔写真が、あまりにも実直で、無機質だった。夜景の風景でも、お洒落なカフェのスナップでもない。白い背景の前で、髪をきっちり分け、ネイビーのスーツを着て、一切の感情を排した目でカメラを真っ直ぐに見つめている。それは、会社のホームページの「社員紹介欄」に使われている、あの公式の証明写真そのものだった。
「何考えてるの、あの子……っ!」
急いでアプリをインストールしたのが丸わかりの、砂漠のように殺風景なプロフィール。けれど、そこからは彼なりの、一切の妥協も隠し事もしないという、おそろしく真っ直ぐな意思が伝わってくるようだった。証明写真の男から、画面の下部、ピンク色のボタンがまばゆく点滅している。
『神谷誠也さんからの「いいね!」にありがとうを返して、マッチングを成立させましょう!』
自己紹介文には、こう書かれていた。
『都内の商社で営業をしています。嘘は嫌いです。本気でお付き合いしたい人がいて、その人のためだけに今日、このアプリを始めました。よろしくお願いします』
会社ではいつも生返事しかしない、あの冷徹な「氷の後輩」が、私の日常を、私のスマホの画面を、猛烈な勢いで侵食しにきている。それが、私以外の誰にも渡したくないという、彼の不器用で純粋なアプローチなのだと気づいた瞬間、背筋に甘い震えが走った。震える親指が、画面の「ありがとう」のボタンの上で激しく躊躇する。これを押せば、繋がってしまう。アプリという画面の中で、あの完璧な後輩と。
覚悟を決めて、トントン、と画面をタップした。画面が鮮やかに切り替わり、軽薄なポップアップが踊る。
『マッチングが成立しました! メッセージを送りましょう』
心臓の鼓動が、静まり返ったワンルームにうるさいほど鳴り響いていた。
「ちょっと、今の神谷くんじゃない? 聞かれたかな……」
美智子がそう言いながら顔を赤くして身を縮める。
「最悪…。ただでさえ私、あの子から『仕事はできるけどプライベートが必死な年上の先輩』って思われてそうなのに……」
私は頭を抱えた。せっかく始めたアプリのモチベーションが出鼻を挫かれて一気に急降下していく。
その日の夜、残業を終えて江東区の築古アパートに帰り着いた私は、メイクも落とさずにベッドに倒れ込んだ。ヒールで疲れた足をささりながら、おそるおそる『Link』のアプリを起動する。
「はぁ…やっぱり神谷くんに聞かれたの、恥ずかしいな……」
そんな自己嫌悪を紛らわせるように、画面をスクロールした、その時だった。アプリの通知欄に、見たこともないような鮮烈な赤いドットが灯っている。
『あなたに「いいね!」が届いています』
何気なくそのページを開いた私の指先が、完全に凍りついた。そこに表示されていた名前は、ひらがなでもローマ字のイニシャルでもない。漢字で堂々と『神谷誠也』と登録されていた。
登録されている唯一の顔写真が、あまりにも実直で、無機質だった。夜景の風景でも、お洒落なカフェのスナップでもない。白い背景の前で、髪をきっちり分け、ネイビーのスーツを着て、一切の感情を排した目でカメラを真っ直ぐに見つめている。それは、会社のホームページの「社員紹介欄」に使われている、あの公式の証明写真そのものだった。
「何考えてるの、あの子……っ!」
急いでアプリをインストールしたのが丸わかりの、砂漠のように殺風景なプロフィール。けれど、そこからは彼なりの、一切の妥協も隠し事もしないという、おそろしく真っ直ぐな意思が伝わってくるようだった。証明写真の男から、画面の下部、ピンク色のボタンがまばゆく点滅している。
『神谷誠也さんからの「いいね!」にありがとうを返して、マッチングを成立させましょう!』
自己紹介文には、こう書かれていた。
『都内の商社で営業をしています。嘘は嫌いです。本気でお付き合いしたい人がいて、その人のためだけに今日、このアプリを始めました。よろしくお願いします』
会社ではいつも生返事しかしない、あの冷徹な「氷の後輩」が、私の日常を、私のスマホの画面を、猛烈な勢いで侵食しにきている。それが、私以外の誰にも渡したくないという、彼の不器用で純粋なアプローチなのだと気づいた瞬間、背筋に甘い震えが走った。震える親指が、画面の「ありがとう」のボタンの上で激しく躊躇する。これを押せば、繋がってしまう。アプリという画面の中で、あの完璧な後輩と。
覚悟を決めて、トントン、と画面をタップした。画面が鮮やかに切り替わり、軽薄なポップアップが踊る。
『マッチングが成立しました! メッセージを送りましょう』
心臓の鼓動が、静まり返ったワンルームにうるさいほど鳴り響いていた。