恋と焦燥のロードマップ
運ばれてきた、タップから注がれたばかりの色鮮やかなクラフトビールで乾杯する。冷たい琥珀色の液体を喉に流し込むと、爽やかなホップの香りが鼻を抜けた。美味しい。会社での営業事務としての張り詰めた毎日が、その一口でゆっくりと溶けていくような気がした。
けれど、本当の緊張はそこからだった。カウンター席の絶妙な距離感の中、神谷くんは時折ビールグラスを傾けながら、真っ直ぐに私を見つめてくるのだ。会社での無口さはどこへやら、彼は私の好きな映画や、休日の過ごし方について、真摯な瞳で言葉を重ねてくる。
「先輩は、どうしてあのアプリを始めたんですか?」
ふいに投げかけられた核心的な質問に、ビールのグラスを握る指先が強張った。まさか、受付の女の子の婚約指輪を見て、三十二歳のタイムリミットに焦って絶望したから、なんていう泥臭い本音は、このお洒落な空間ではあまりにも格好悪すぎる。
「あー…まあ、周りもみんな結婚しちゃったし、そろそろ真面目に将来を考えられる人と出会えたらいいな、なんて思って。神谷くんは? あんな証明写真で登録して、本気なんだか何なんだか分からなかったよ」
わざと茶化すように笑って、質問を投げ返した。すると、神谷くんはビールのグラスを静かにテーブルに置き、メガネの奥の瞳で、私の目を真っ直ぐにとらえた。いつもはビジネスの報告しかしないその唇から、驚くほど硬質で、熱い言葉が零れ落ちる。
「僕は、最初から本気です。真面目に将来を考えたい相手が他にいないから、あの写真で、あの名前で登録したんです。誰か他の男に、先に行かれたくなかったので」
「え……」
心臓がドクンと大きく跳ね上がった。他の方では意味がないと言った、深夜のメッセージ。私の「神谷くんもアプリやってるんだね」という言葉の裏で、彼は一体どんな想いを抱えているのだろう。本当に私を狙っているのか、それとも別の意味なのか、まだこの時の私には測りかねていた。
やがて楽しい時間はあっという間に過ぎ、お会計のタイミングが訪れた。伝票がテーブルに置かれた瞬間、私は「大人の先輩」としてのプライドを取り戻すように、素早く自分のバッグから財布を取り出した。
「ここは私が払うね。お店も予約してもらったし、一応、私の方が先輩なんだから」
そう言って私が伝票に手を伸ばした、その瞬間だった。大きくて、少し骨張った男らしい手が、私の手の上からグッと覆い被さるようにして、その動きを止めた。
「……っ」
肌と肌が直接触れ合う、確かな熱量と質量。会社での一瞬の接触とは違う、逃がさないと言う強い意志を持ったホールドだった。驚いて見上げると、すぐ近くに神谷くんの顔があった。
「会社では、確かにあなたが先輩です」
神谷くんは私の財布を拒むようにその手を押さえたまま、静かに、けれど確実にトーンを落とした低い声で、綺麗に舗装されていた敬語を崩した。
「でも、今日は違う。……もう子供扱いするの、やめてくれませか」
敬語の抜けた彼の言葉が、ダイレクトに鼓膜を揺らす。真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳には、職場の後輩としての遠慮なんて一ミリも残っていなかった。そこにいたのは、一人の年上の女性と、本気で向き合おうとしている『男』の姿だった。
重なる手のひらから伝わってくる体温が、私の理性をめちゃくちゃにかき乱していく。心臓が爆発しそうなほどの轟音を立てる中、私はただ、赤くなる顔を隠すこともできずに、彼の強い瞳に完全に囚われていた。
けれど、本当の緊張はそこからだった。カウンター席の絶妙な距離感の中、神谷くんは時折ビールグラスを傾けながら、真っ直ぐに私を見つめてくるのだ。会社での無口さはどこへやら、彼は私の好きな映画や、休日の過ごし方について、真摯な瞳で言葉を重ねてくる。
「先輩は、どうしてあのアプリを始めたんですか?」
ふいに投げかけられた核心的な質問に、ビールのグラスを握る指先が強張った。まさか、受付の女の子の婚約指輪を見て、三十二歳のタイムリミットに焦って絶望したから、なんていう泥臭い本音は、このお洒落な空間ではあまりにも格好悪すぎる。
「あー…まあ、周りもみんな結婚しちゃったし、そろそろ真面目に将来を考えられる人と出会えたらいいな、なんて思って。神谷くんは? あんな証明写真で登録して、本気なんだか何なんだか分からなかったよ」
わざと茶化すように笑って、質問を投げ返した。すると、神谷くんはビールのグラスを静かにテーブルに置き、メガネの奥の瞳で、私の目を真っ直ぐにとらえた。いつもはビジネスの報告しかしないその唇から、驚くほど硬質で、熱い言葉が零れ落ちる。
「僕は、最初から本気です。真面目に将来を考えたい相手が他にいないから、あの写真で、あの名前で登録したんです。誰か他の男に、先に行かれたくなかったので」
「え……」
心臓がドクンと大きく跳ね上がった。他の方では意味がないと言った、深夜のメッセージ。私の「神谷くんもアプリやってるんだね」という言葉の裏で、彼は一体どんな想いを抱えているのだろう。本当に私を狙っているのか、それとも別の意味なのか、まだこの時の私には測りかねていた。
やがて楽しい時間はあっという間に過ぎ、お会計のタイミングが訪れた。伝票がテーブルに置かれた瞬間、私は「大人の先輩」としてのプライドを取り戻すように、素早く自分のバッグから財布を取り出した。
「ここは私が払うね。お店も予約してもらったし、一応、私の方が先輩なんだから」
そう言って私が伝票に手を伸ばした、その瞬間だった。大きくて、少し骨張った男らしい手が、私の手の上からグッと覆い被さるようにして、その動きを止めた。
「……っ」
肌と肌が直接触れ合う、確かな熱量と質量。会社での一瞬の接触とは違う、逃がさないと言う強い意志を持ったホールドだった。驚いて見上げると、すぐ近くに神谷くんの顔があった。
「会社では、確かにあなたが先輩です」
神谷くんは私の財布を拒むようにその手を押さえたまま、静かに、けれど確実にトーンを落とした低い声で、綺麗に舗装されていた敬語を崩した。
「でも、今日は違う。……もう子供扱いするの、やめてくれませか」
敬語の抜けた彼の言葉が、ダイレクトに鼓膜を揺らす。真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳には、職場の後輩としての遠慮なんて一ミリも残っていなかった。そこにいたのは、一人の年上の女性と、本気で向き合おうとしている『男』の姿だった。
重なる手のひらから伝わってくる体温が、私の理性をめちゃくちゃにかき乱していく。心臓が爆発しそうなほどの轟音を立てる中、私はただ、赤くなる顔を隠すこともできずに、彼の強い瞳に完全に囚われていた。