恋と焦燥のロードマップ

【名前のない時間】

あの日から、少しだけ時間が経った。
遠出した日のことを思い出すことはあっても、日々そのものは変わらなかった。撮影があれば現場に向かい、終割ればマネージャーの佐伯さんの車に乗って帰る。その合間に雫から届いたメッセージを返したり、次に会える日を相談したりするくらいで、特別なことが起こるわけではない。それでも、以前とは少し違う。それは、とてもいい意味で。
仕事を終えて帰宅したある日、シャワーを浴びようとスマートフォンをテーブルに置いたところで、着信がなった。画面に表示された名前を見て、一瞬だけ手が止まった。
母からだった。
「……もしもし」
『あ、湊?今、大丈夫?』
「うん。大丈夫だけど」
『よかった。ちゃんと元気にしてる?』
久しぶりに聞いた母の声だった。最後にちゃんと話したのはいつだっただろうか。電話番号…というか連絡先は消してないし、電話とかで連絡を取ろうと思えばいつでも取れた。それなのに、思い返してみると、母とこうしてちゃんは言葉を交わした記憶は、ずいぶん前のところで止まっていた。
家を出てから何年も経つ。その間に、何度か電話があったことくらいは覚えている。けれど、短いやり取りで終わったり、仕事の合間に折り返すと言ったまま流れたりして、まともに話すことはほとんどなかった。
昔のことをぼんやりと思い返しているうちに、電話の向こうから声がした。
『湊?』
名前を呼ばれて、ようやく我に返った。いつの間にか母の声が遠くなっていて、自分が何を考えていたのかさえ、一瞬分からなくなる。
「あ、ごめん。聞いてる」
『もう。ぼーっとしてた?』
「まあ、ちょっと考え事してた」
『そう。それより、最近ちゃんと寝れてる?』
「大丈夫、寝れてるよ」
『ご飯は?』
「食べてるって」
『仕事忙しいからって、適当に済ませてないでしょうね』
「大丈夫だよ」
昔と変わらない。離れて何年も経つのに、母が口にすることは、昔から何にも変わっていなかった。それは少し可笑しくて、俺は小さく笑ってしまった。
「母さんこそ、元気?」
『元気よ。旅館の方も、いつも通り』
「そっか」
何気なく返してから、少しだけ間が空いた。
「……親父は?」
電話の向こうで、母がほんの少しだけ黙った気がした。
『元気にしてるわよ』
「……そっか」
それだけ聞いて、俺はそれ以上は何も言わなかった。
親父が元気なら、それでいい。そう思った。
『じゃあ、またね。仕事、頑張って』
「うん。母さんも」
最後まで昔と変わらない母の声を聞きながら、俺は少しだけ笑った。
電話が切れると、静かになった部屋に自分の息遣いだけが残った。たった数分の電話だった。何か大事な話をしたわけでもない。帰ってこいと言われたわけでもなければ、親父に何かあったわけでもない。それなのに切れた画面を眺めていると、実家のことが頭から離れなかった。
旅館のこと。親父のこと。そして、家を出た日のこと。
あの頃は、自分の選んだ道を貫くことしか考えていなかった。俳優になりたい。そのためなら、親父と喧嘩して家を出ることだって仕方がないと思っていた。
もちろん、今でも俳優になったことを後悔しているわけじゃない。あのとき家を出たことも、間違いだったとは思っていなかった。
ただ、あれから何年も経った今になって考えると、あの日から俺は、親父と向き合うことをずっと後回しにしてきたのかもしれない。
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