七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
# 第6話 貝殻
四月の二週目の木曜日。
目覚ましが鳴る五分前に、スマートフォンが震えた。
画面に、母、の文字。
亜美は布団の中で、少しだけ目を閉じた。
それから、通話ボタンを押した。
「亜美? お誕生日おめでとう」
いつもの、少し早口な声。
「ありがとう」
「二十八歳ね。早いわねえ」
母は、少しだけ間を置いた。
「そうそう、お正月に話した方ね。あの公務員の。まだお相手いないんですって」
亜美は、天井を見つめた。
「お母さん、朝から」
「だって、あなた全然帰ってこないじゃない。一度会うだけでもいいから」
「……考えとく」
電話を切る。
寝室の扉の隙間から、リビングの気配を窺った。
静かだった。
ソファの上で、海音はまだ眠っているはずだ。
誕生日のことは、言っていない。
言うつもりもなかった。
居候の大学生に、誕生日を祝ってもらう理由なんてない。
慈善事業に、見返りはいらない。
出勤前、コンビニでコーヒーを買おうとして財布を開けた。
千円札が、三枚。
亜美は、首を傾げた。
二枚だったはずだ。
昨日の夜、確かめた気がする。
また、数え間違えたのだろうか。
最近、こういうことがときどきある。
入れた覚えのない千円札が、財布の奥に一枚増えている。
疲れてるのかな。
亜美はそう思って、コーヒーの代金を払った。
昼休み。
会社の近くのカフェで、同僚たちとランチを食べた。
「ねえ、聞いて。私、婚約した」
向かいの席の同期が、左手を差し出した。
薬指に、小さな石が光っている。
きゃあ、と周りが声を上げる。
おめでとう。どこでプロポーズされたの。式はいつ。
亜美も笑って、おめでとうと言った。
本当に、おめでとうと思った。
それから、パスタをフォークに巻きつけながら、ぼんやりと考えた。
二十八。
三十まで、あと二年。
この二年で、何かが変わるのだろうか。
家に帰れば、ソファで寝ている七つ下の居候がいて。
財布の千円札の数も、ろくに覚えていられなくて。
「早瀬さんは? 彼氏いないの?」
隣の後輩が、屈託なく訊いた。
亜美は、少しだけ考えた。
「……いないよ」
嘘ではなかった。
残業が終わったのは、九時過ぎだった。
マンションのエレベーターの中で、亜美は小さく息を吐いた。
木曜日。
海音は、バーのシフトが入っていない日だ。
たぶん、家にいる。
ソファで寝ているか、テレビを見ているか。
鍵を回す。
扉を開ける。
「ただいま」
返事は、なかった。
部屋は、真っ暗だった。
亜美は、玄関の灯りをつけた。
踵を踏みつぶしたスニーカーが、ない。
リビングの灯りをつける。
ソファの上に、畳みかけの毛布。
テーブルの上に、飲みかけのペットボトル。
海音の姿は、なかった。
亜美は、しばらくリビングの真ん中に立っていた。
シフトのない木曜日の夜。
どこへ行ったのか。
考えるまでもなかった。
十二月の、あの夜と同じだ。
甘い香水の匂い。パーカーの襟のラメ。
亜美は、鞄をソファに置いた。
期待していなかった。
誕生日のことは言っていないのだから、祝ってもらえるはずがない。
わかっている。
最初から、わかっていた。
冷蔵庫を開ける。
昨日、自分用に買ったコンビニのプリンが一つ。
亜美はそれを取り出して、スプーンと一緒にテーブルに置いた。
ソファに座る。
蓋を開ける。
テレビをつける気にもなれなかった。
静かな部屋で、一人でプリンを食べた。
甘かった。
いつもより、少しだけ甘すぎる気がした。
お誕生日、おめでとう。
心の中で、自分に言った。
二十八歳の、わたし。
十時を少し過ぎた頃。
玄関の扉が、勢いよく開いた。
亜美は、スプーンを持ったまま顔を上げた。
「……っ、はあ、はあ」
荒い息遣い。
廊下を、どたどたと駆けてくる足音。
リビングの入口に、海音が立っていた。
額に汗が浮かんでいる。
前髪が、額に張りついている。
パーカーの肩が、上下に大きく揺れている。
両手で、小さな白い箱を抱えていた。
大事そうに。
胸の前で。
「……間に合った」
海音が、息を切らしながら言った。
亜美は、ぽかんと口を開けた。
「間に合ったって、何に」
「今日、亜美さんの誕生日じゃん」
亜美の手から、スプーンが滑り落ちた。
プリンのカップの中に、ぽとりと沈む。
「……なんで、知ってるの」
「莉子さんに聞いた」
海音は、まだ肩で息をしていた。
「先月、聞き出した。いつか教えてくれるかと思って待ってたけど、全然言わないから」
海音は、白い箱をテーブルの上にそっと置いた。
それから、床にへたり込んだ。
「駅前のケーキ屋、閉まってて。隣の駅も閉まってて。三軒目で、ギリギリ」
「……走ったの」
「走った」
海音は、汗を袖で拭った。
「まさか全部閉まってると思わなかった。シフトない日に予約しとけばよかった」
亜美は、テーブルの上の箱を見つめた。
白い紙の箱。
小さな、ケーキ屋のロゴシール。
そっと、蓋を開けた。
苺のショートケーキだった。
四号の、小さなホール。
走ったせいで、少しだけ右に傾いていた。
苺が一つ、クリームの上から滑り落ちかけている。
「あー……」
海音が、覗き込んで顔をしかめた。
「傾いてる」
「うん」
「ごめん」
「……ううん」
亜美の声は、少しだけ震えていた。
箱の隅に、小さな袋が入っていた。
数字の形のろうそく。
2と、8。
電気を消した。
ろうそくに、海音がライターで火をつける。
小さな炎が二つ、暗い部屋の中で揺れた。
2と、8。
炎の向こうに、海音の顔がぼんやりと浮かんでいる。
汗はもう引いていた。
眠そうな目。
でも、今夜は少しも眠そうじゃなかった。
「歌う?」
「……歌わなくていい」
「歌う」
海音は、小さく咳払いをした。
それから、低い声で歌い始めた。
ハッピーバースデー。
音程は、少しだけずれていた。
ディア、のところで、ほんの少しだけ間が空いた。
「……亜美さん」
さん、をつけて歌う人を、亜美は初めて見た。
最後まで歌い終わると、海音は照れたように目を逸らした。
「消して」
亜美は、息を吸った。
目を閉じる。
願い事は、何も浮かばなかった。
ただ、胸の奥がいっぱいだった。
ふっと、息を吹きかける。
炎が消えて、部屋が真っ暗になった。
暗闇の中で、海音が小さく拍手をした。
「おめでと、亜美さん」
電気をつけて、二人でケーキを食べた。
傾いたショートケーキを、二つに切って。
フォークでつつきながら。
「甘い」
「ケーキだから」
「亜美さん、甘いの好きじゃん」
「……好きだけど」
さっき食べたプリンのことは、言わなかった。
ケーキを半分食べたところで、海音がフォークを置いた。
パーカーのポケットに、手を入れる。
少しだけ、ためらうように。
それから、何かを握った拳をテーブルの上に出した。
「これ」
拳を開く。
手のひらの上に、小さなものが載っていた。
白い巻き貝。
親指の先くらいの大きさ。
細い革紐が通してあって、キーホルダーになっていた。
貝の表面が、少しだけ擦れて、つやつやと光っている。
「……貝殻?」
「地元の浜で、ガキの頃に拾ったやつ」
海音は、目を逸らしたまま言った。
「ずっと持ってた。こっち出てくるときも、持ってきた」
亜美は、手のひらの上の貝殻を見つめた。
白くて。小さくて。
何度も、何度も指で撫でられてきたような、柔らかい光沢。
「穴、自分で開けたの?」
「うん。錐で。二個割った」
「二個」
「これが三個目」
海音は、少しだけ唇を尖らせた。
「……金、ないから。これしかなかった」
小さな声だった。
亜美は、顔を上げた。
海音は、テーブルの端を見ていた。
耳の先が、赤かった。
「ださいのはわかってる。いらなかったら、捨てていいから」
「捨てない」
亜美は、考えるより先に言っていた。
海音の手のひらから、貝殻をそっと受け取る。
指先が、触れないように。
海音がいつもそうするように。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
海音は、何も言わなかった。
ただ、テーブルの端を見たまま、小さくうなずいた。
夜。
亜美は、ベッドの中で貝殻を見つめていた。
枕元の小さな灯りに、白い殻がぼんやりと浮かんでいる。
地元の浜。
海の近くの町。
漁師の父。
海の音、で海音。
子どもの頃の海音が、波打ち際にしゃがんでこれを拾う姿を想像した。
小さな手。
濡れた砂。
それを、ずっと持っていた。
一人で東京に出てくるときも。
家賃を払えなくて、アパートを追い出された夜も。
リュック一つとビニール袋の中に、きっとこれも入っていた。
それを。
わたしに。
亜美は、貝殻をそっと耳に当てた。
目を閉じる。
遠くで、何かが鳴っていた。
ざあ、と。
寄せては返す、低い音。
波の音。
海の音。
亜美は、目を閉じたまま、その音を聞いていた。
考えないようにした。
この音の名前を持つ人のことを。
壁一枚向こうのソファで、今夜はどこにも出かけずに眠っている人のことを。
さっきまで、シフトのない夜に出かけた彼を、どこかの女の子のところだと決めつけていたことを。
考えたら、慈善事業ではいられなくなる。
亜美は、貝殻を耳から離した。
手のひらの中に、そっと握り込む。
小さくて。
硬くて。
少しだけ、温かかった。
誕生日を覚えていてくれる居候。
それだけ。
それだけのことだ。
亜美は、貝殻を握ったまま目を閉じた。
耳の奥に、まだ波の音が残っていた。
リビングから、静かな寝息が聞こえてくる。
その夜、亜美は久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠った。
四月の二週目の木曜日。
目覚ましが鳴る五分前に、スマートフォンが震えた。
画面に、母、の文字。
亜美は布団の中で、少しだけ目を閉じた。
それから、通話ボタンを押した。
「亜美? お誕生日おめでとう」
いつもの、少し早口な声。
「ありがとう」
「二十八歳ね。早いわねえ」
母は、少しだけ間を置いた。
「そうそう、お正月に話した方ね。あの公務員の。まだお相手いないんですって」
亜美は、天井を見つめた。
「お母さん、朝から」
「だって、あなた全然帰ってこないじゃない。一度会うだけでもいいから」
「……考えとく」
電話を切る。
寝室の扉の隙間から、リビングの気配を窺った。
静かだった。
ソファの上で、海音はまだ眠っているはずだ。
誕生日のことは、言っていない。
言うつもりもなかった。
居候の大学生に、誕生日を祝ってもらう理由なんてない。
慈善事業に、見返りはいらない。
出勤前、コンビニでコーヒーを買おうとして財布を開けた。
千円札が、三枚。
亜美は、首を傾げた。
二枚だったはずだ。
昨日の夜、確かめた気がする。
また、数え間違えたのだろうか。
最近、こういうことがときどきある。
入れた覚えのない千円札が、財布の奥に一枚増えている。
疲れてるのかな。
亜美はそう思って、コーヒーの代金を払った。
昼休み。
会社の近くのカフェで、同僚たちとランチを食べた。
「ねえ、聞いて。私、婚約した」
向かいの席の同期が、左手を差し出した。
薬指に、小さな石が光っている。
きゃあ、と周りが声を上げる。
おめでとう。どこでプロポーズされたの。式はいつ。
亜美も笑って、おめでとうと言った。
本当に、おめでとうと思った。
それから、パスタをフォークに巻きつけながら、ぼんやりと考えた。
二十八。
三十まで、あと二年。
この二年で、何かが変わるのだろうか。
家に帰れば、ソファで寝ている七つ下の居候がいて。
財布の千円札の数も、ろくに覚えていられなくて。
「早瀬さんは? 彼氏いないの?」
隣の後輩が、屈託なく訊いた。
亜美は、少しだけ考えた。
「……いないよ」
嘘ではなかった。
残業が終わったのは、九時過ぎだった。
マンションのエレベーターの中で、亜美は小さく息を吐いた。
木曜日。
海音は、バーのシフトが入っていない日だ。
たぶん、家にいる。
ソファで寝ているか、テレビを見ているか。
鍵を回す。
扉を開ける。
「ただいま」
返事は、なかった。
部屋は、真っ暗だった。
亜美は、玄関の灯りをつけた。
踵を踏みつぶしたスニーカーが、ない。
リビングの灯りをつける。
ソファの上に、畳みかけの毛布。
テーブルの上に、飲みかけのペットボトル。
海音の姿は、なかった。
亜美は、しばらくリビングの真ん中に立っていた。
シフトのない木曜日の夜。
どこへ行ったのか。
考えるまでもなかった。
十二月の、あの夜と同じだ。
甘い香水の匂い。パーカーの襟のラメ。
亜美は、鞄をソファに置いた。
期待していなかった。
誕生日のことは言っていないのだから、祝ってもらえるはずがない。
わかっている。
最初から、わかっていた。
冷蔵庫を開ける。
昨日、自分用に買ったコンビニのプリンが一つ。
亜美はそれを取り出して、スプーンと一緒にテーブルに置いた。
ソファに座る。
蓋を開ける。
テレビをつける気にもなれなかった。
静かな部屋で、一人でプリンを食べた。
甘かった。
いつもより、少しだけ甘すぎる気がした。
お誕生日、おめでとう。
心の中で、自分に言った。
二十八歳の、わたし。
十時を少し過ぎた頃。
玄関の扉が、勢いよく開いた。
亜美は、スプーンを持ったまま顔を上げた。
「……っ、はあ、はあ」
荒い息遣い。
廊下を、どたどたと駆けてくる足音。
リビングの入口に、海音が立っていた。
額に汗が浮かんでいる。
前髪が、額に張りついている。
パーカーの肩が、上下に大きく揺れている。
両手で、小さな白い箱を抱えていた。
大事そうに。
胸の前で。
「……間に合った」
海音が、息を切らしながら言った。
亜美は、ぽかんと口を開けた。
「間に合ったって、何に」
「今日、亜美さんの誕生日じゃん」
亜美の手から、スプーンが滑り落ちた。
プリンのカップの中に、ぽとりと沈む。
「……なんで、知ってるの」
「莉子さんに聞いた」
海音は、まだ肩で息をしていた。
「先月、聞き出した。いつか教えてくれるかと思って待ってたけど、全然言わないから」
海音は、白い箱をテーブルの上にそっと置いた。
それから、床にへたり込んだ。
「駅前のケーキ屋、閉まってて。隣の駅も閉まってて。三軒目で、ギリギリ」
「……走ったの」
「走った」
海音は、汗を袖で拭った。
「まさか全部閉まってると思わなかった。シフトない日に予約しとけばよかった」
亜美は、テーブルの上の箱を見つめた。
白い紙の箱。
小さな、ケーキ屋のロゴシール。
そっと、蓋を開けた。
苺のショートケーキだった。
四号の、小さなホール。
走ったせいで、少しだけ右に傾いていた。
苺が一つ、クリームの上から滑り落ちかけている。
「あー……」
海音が、覗き込んで顔をしかめた。
「傾いてる」
「うん」
「ごめん」
「……ううん」
亜美の声は、少しだけ震えていた。
箱の隅に、小さな袋が入っていた。
数字の形のろうそく。
2と、8。
電気を消した。
ろうそくに、海音がライターで火をつける。
小さな炎が二つ、暗い部屋の中で揺れた。
2と、8。
炎の向こうに、海音の顔がぼんやりと浮かんでいる。
汗はもう引いていた。
眠そうな目。
でも、今夜は少しも眠そうじゃなかった。
「歌う?」
「……歌わなくていい」
「歌う」
海音は、小さく咳払いをした。
それから、低い声で歌い始めた。
ハッピーバースデー。
音程は、少しだけずれていた。
ディア、のところで、ほんの少しだけ間が空いた。
「……亜美さん」
さん、をつけて歌う人を、亜美は初めて見た。
最後まで歌い終わると、海音は照れたように目を逸らした。
「消して」
亜美は、息を吸った。
目を閉じる。
願い事は、何も浮かばなかった。
ただ、胸の奥がいっぱいだった。
ふっと、息を吹きかける。
炎が消えて、部屋が真っ暗になった。
暗闇の中で、海音が小さく拍手をした。
「おめでと、亜美さん」
電気をつけて、二人でケーキを食べた。
傾いたショートケーキを、二つに切って。
フォークでつつきながら。
「甘い」
「ケーキだから」
「亜美さん、甘いの好きじゃん」
「……好きだけど」
さっき食べたプリンのことは、言わなかった。
ケーキを半分食べたところで、海音がフォークを置いた。
パーカーのポケットに、手を入れる。
少しだけ、ためらうように。
それから、何かを握った拳をテーブルの上に出した。
「これ」
拳を開く。
手のひらの上に、小さなものが載っていた。
白い巻き貝。
親指の先くらいの大きさ。
細い革紐が通してあって、キーホルダーになっていた。
貝の表面が、少しだけ擦れて、つやつやと光っている。
「……貝殻?」
「地元の浜で、ガキの頃に拾ったやつ」
海音は、目を逸らしたまま言った。
「ずっと持ってた。こっち出てくるときも、持ってきた」
亜美は、手のひらの上の貝殻を見つめた。
白くて。小さくて。
何度も、何度も指で撫でられてきたような、柔らかい光沢。
「穴、自分で開けたの?」
「うん。錐で。二個割った」
「二個」
「これが三個目」
海音は、少しだけ唇を尖らせた。
「……金、ないから。これしかなかった」
小さな声だった。
亜美は、顔を上げた。
海音は、テーブルの端を見ていた。
耳の先が、赤かった。
「ださいのはわかってる。いらなかったら、捨てていいから」
「捨てない」
亜美は、考えるより先に言っていた。
海音の手のひらから、貝殻をそっと受け取る。
指先が、触れないように。
海音がいつもそうするように。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
海音は、何も言わなかった。
ただ、テーブルの端を見たまま、小さくうなずいた。
夜。
亜美は、ベッドの中で貝殻を見つめていた。
枕元の小さな灯りに、白い殻がぼんやりと浮かんでいる。
地元の浜。
海の近くの町。
漁師の父。
海の音、で海音。
子どもの頃の海音が、波打ち際にしゃがんでこれを拾う姿を想像した。
小さな手。
濡れた砂。
それを、ずっと持っていた。
一人で東京に出てくるときも。
家賃を払えなくて、アパートを追い出された夜も。
リュック一つとビニール袋の中に、きっとこれも入っていた。
それを。
わたしに。
亜美は、貝殻をそっと耳に当てた。
目を閉じる。
遠くで、何かが鳴っていた。
ざあ、と。
寄せては返す、低い音。
波の音。
海の音。
亜美は、目を閉じたまま、その音を聞いていた。
考えないようにした。
この音の名前を持つ人のことを。
壁一枚向こうのソファで、今夜はどこにも出かけずに眠っている人のことを。
さっきまで、シフトのない夜に出かけた彼を、どこかの女の子のところだと決めつけていたことを。
考えたら、慈善事業ではいられなくなる。
亜美は、貝殻を耳から離した。
手のひらの中に、そっと握り込む。
小さくて。
硬くて。
少しだけ、温かかった。
誕生日を覚えていてくれる居候。
それだけ。
それだけのことだ。
亜美は、貝殻を握ったまま目を閉じた。
耳の奥に、まだ波の音が残っていた。
リビングから、静かな寝息が聞こえてくる。
その夜、亜美は久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠った。