七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
# 第7話 腹が減ったら

朝の六時。

カーテンの隙間が、薄い灰色に明るくなり始めていた。

海音は、ソファの上で目を開けた。

寝るのが仕事。

そう言い張っている人間が、こんな時間に起きているなんて、誰も思わないだろう。

亜美さんも。

海音は毛布を剥いで、音を立てないように床に足を下ろした。

寝室の扉は、少しだけ開いている。

中から、静かな寝息が聞こえる。

リビングの隅に、亜美の仕事用の鞄が置いてあった。

黒い革の、使い込まれた鞄。

海音は、その前にしゃがんだ。

ファスナーを、ゆっくりと開ける。

財布を取り出す。

薄いピンク色の、角が少し擦れた長財布。

自分の財布から千円札を一枚抜いて、亜美の財布の奥にそっと差し込んだ。

札の向きを揃えて。

目立たないように、一番奥に。

財布を戻す。

ファスナーを閉める。

鞄の位置を、元どおりに直す。

それから、ソファに戻って毛布を被った。

心臓が、少しだけうるさかった。

泥棒みたいだ、と思う。

逆だけど。

今月の食費の、せめてもの分。

本当は、もっと入れたかった。

一万円くらい。

でも、今の海音の財布には、それだけの余裕がなかった。

 

昼。

大学の学生課の窓口で、海音は振込用紙を差し出した。

分割で払っている学費の、今月の分。

海音が自分で払うと約束した、半分のほうの。

残りの半分は、親が出してくれる。

それが、東京の大学に行かせてもらうときの約束だった。

半分は、自分で払え。

仕送りはできない。

父は、海音が物心ついたときから漁師だった。

毎朝三時に起きて、暗い海に出ていく背中。

その背中が、ここ数年で少しずつ小さくなっていくのを、海音は知っていた。

網が、空っぽで上がってくる日が増えた。

燃料代だけが、毎年上がっていく。

窓口の職員が、判子を押した用紙を返してくる。

海音はそれを受け取って、スマートフォンで口座の残高を確かめた。

四桁。

来月のバイト代が入るまで、これでやりくりする。

食費は、亜美の家にいるからかからない。

かからないから、せめて千円。

 

キャンパスのベンチで、スマートフォンが震えた。

母からだった。

「海音? 元気にしてる?」

いつもの、のんびりした声。

「元気」

「ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

本当だった。

毎日、亜美の作ったご飯を食べている。

照り焼き。豚汁。肉じゃが。

どれも、世界一うまい。

「お父さんね、今年も網が空っぽでね」

母は、少しだけ声を落とした。

「来年の学費、もしかしたら、少し遅れるかもしれないって」

「……大丈夫。こっちでなんとかする」

「ごめんねえ」

「いいって」

「寮のほうは、どう? 家賃、高くない?」

海音は、少しだけ間を置いた。

「安いよ。寮みたいなとこだから」

嘘だった。

アパートを追い出されたことも。

学費を優先して、家賃を三か月溜めたことも。

七つ上の、会社員の女の人の家に転がり込んでいることも。

誰にも言っていない。

母にも。父にも。

莉子さんにも。

亜美さんにも。

かっこ悪いから。

かっこ悪い自分を、一番見せたくない人の家に、住んでいるのに。

「体に気をつけてね」

「うん。母さんも」

電話を切った。

七月の陽射しが、コンクリートを白く焼いていた。

 

夜。

バーの閉店作業を終えて、裏口から出た。

路地の暗がりに、女の子が立っていた。

さっきまでカウンターに座っていた子。

名前は聞いた気がする。

もう覚えていない。

「ねえ、この後、ひま?」

甘い声。

甘い香水。

腕に絡んでくる、細い指。

海音は、少しだけ考えた。

考えたふりをした。

腹が減っていた。

そういう意味で。

「……いいよ」

 

安いホテルの一室。

カーテンの閉まった、窓のない部屋。

海音には、決め事があった。

一つ。

キスは、しない。

唇は、使わない。

求められても、顔を背ける。

一つ。

顔は、見ない。

相手の顔を、ちゃんと見ない。

目を合わせない。

名前も、呼ばない。

腹が減ったら、飯を食う。

それと同じ。

何も考えない。

何も残らない。

終われば、すぐに服を着る。

相手が何か言っていても、聞かない。

「え、もう帰るの?」

背中に、不満そうな声がかかる。

「帰る」

「泊まってけばいいのに」

「帰るとこあるから」

扉を閉める。

廊下を歩く。

エレベーターを降りて、夜の空気の中に出る。

深く、息を吸った。

何も、残っていなかった。

いつものように。

さっきの子の顔も。

声も。

名前も。

最初から、何もなかったみたいに。

海音は、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。

駅とは反対の方向へ。

亜美のマンションのほうへ。

帰るとこ。

さっき、自分でそう言った。

口にしてから、少しだけ胸が温かくなった。

 

もう一つ、決め事があった。

これだけは、誰にも言ったことがない。

亜美さんの部屋には、絶対に誰も入れない。

あの部屋だけは。

どんなに腹が減っていても。

どんなに面倒でも。

ホテル代がなくても。

あそこは、亜美さんの場所だから。

自分が、ただいまと言って帰る場所だから。

それだけは、守ってきた。

守れている、と思っていた。

 

明け方の四時。

マンションのエントランスで、空が少しだけ白み始めていた。

エレベーターに乗る。

三階。

鍵を、そっと回す。

扉を、音を立てないように開ける。

閉める。

靴を脱ぐ。

踵を踏みつぶしたスニーカーを、揃えずに置く。

廊下を、足音を殺して歩く。

寝室の前で、足が止まった。

扉が、少しだけ開いていた。

いつものように。

亜美さんは、寝室の扉を完全には閉めない。

海音は、その隙間から中を覗いた。

薄暗い部屋。

ベッドの上で、亜美が眠っていた。

横向きに。

片手を、枕の下に入れて。

少しだけ開いた唇。

額にかかった、細い髪。

枕元に、白い貝殻のキーホルダーが置いてあった。

海音は、息を止めた。

それから、その顔をじっと見つめた。

ちゃんと。

目を逸らさずに。

海音が、ちゃんと顔を見る人。

世界で、この人だけ。

触れたい、と思った。

額にかかった髪を、指でそっと払いたい。

頬に、触れたい。

あの唇に。

海音は、自分の手を見下ろした。

ついさっきまで、名前も覚えていない誰かに触れていた手。

この手で、亜美さんに触れたら。

あの子たちと、同じ場所に置いてしまう。

腹が減ったら食う飯と、同じ場所に。

それだけは、嫌だった。

それに。

一度触れたら、きっと、もう止まれない。

もっと欲しくなる。

全部、欲しくなる。

そして、いつか。

こんな男だと知られて、捨てられたら。

海音は、扉の隙間から一歩下がった。

触れない。

この人にだけは。

ちゃんとした男になるまでは。

いつになるのか、わからないけど。

リビングのソファに、倒れ込む。

毛布を被る。

目を閉じる。

すぐに、眠りが来た。

 

朝八時。

目玉焼きの焼ける音で、目が覚めた。

「……いい匂い」

毛布の中から顔を出すと、キッチンに亜美が立っていた。

ブラウスの上に、エプロン。

出勤前の、いつもの朝。

「おはよう」

亜美が、振り返らずに言った。

「おはよ」

海音は、のそりと起き上がった。

寝癖を手で押さえながら、テーブルにつく。

亜美が、皿を持ってきた。

目玉焼き。トースト。ベーコン。

テーブルの上に、皿が置かれる。

いつもより、少しだけ遠くに。

海音の手の届く、ぎりぎりのところに。

海音は、それに気づかなかった。

手を伸ばして、皿を引き寄せる。

亜美は、自分の分を向かいに置いて座った。

コーヒーを一口飲む。

その目が、ほんの一瞬、海音のパーカーの襟元に向いた。

それから、すっと逸れた。

窓の外へ。

海音は、それにも気づかなかった。

トーストに、かぶりつく。

「亜美さんの目玉焼き、世界一」

「目玉焼きに世界一とかないから」

亜美は、笑った。

いつもの顔で。

海音も笑った。

いつもの朝だと、思っていた。

 

亜美が出勤していったあと。

海音は、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出した。

扉を閉める。

扉に、一枚のメモが貼ってあった。

マグネットで留められた、小さな付箋。

亜美の、丸い字。

今週ずっと終電。ご飯先に食べてて。

その下に、小さく。

冷凍庫に、カレーあります。

海音は、麦茶のボトルを持ったまま、そのメモを見つめた。

口元が、勝手に緩んだ。

亜美さんの字。

丸くて、少しだけ右上がり。

カレーあります。

海音は、メモを指先でそっと撫でた。

指の腹に、付箋の端が少しだけ引っかかった。

今週ずっと、終電。

じゃあ、今週はずっと一人か。

海音は、小さくあくびをした。

ソファに戻って、毛布を被る。

寝るのが仕事。

夜まで、まだ時間はある。

目を閉じる。

瞼の裏に、さっき覗いた寝顔が浮かんだ。

枕元の、白い貝殻。

海音は、毛布の中で少しだけ笑った。

それから、また眠りに落ちていった。
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