君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜

### 夜雨に濡れた心(3)

朝が来た。

と言っても、アッシュワの朝は常に灰色だ。
雨雲に覆われた空からは、白々とも言えない鈍い光が漏れるだけ。
物置小屋の隙間から、冷たい湿気が忍び込んできた。

ノアは目を覚ました。

最初に感じたのは痛みだった。
脇腹の傷が、心臓の鼓動に合わせてずきずきと脈打っている。
続いて、全身の重さ。
鉛を流し込まれたように四肢は動かず、指一本曲げるのにも激しい労力を要した。

(……生きている)

それが最初の思考だった。
あの路地裏で力尽きた時、もう二度と目は覚めないと思っていた。
それなのに、今こうして意識がある。
脇腹には丁寧に巻かれた包帯。
その下には、昨夜少女が塗ってくれた軟膏のひんやりとした感覚が残っていた。




ノアはゆっくりと視線を巡らせた。
狭い物置小屋。
積み上げられた木箱と古びた農具。
埃っぽい空気。
そして、自分の横に敷かれた古びた藁。
昨夜の記憶が、断片的に蘇る。

――『死なせないからね』

あの声。
迷いのない緑色の瞳。
雨に濡れた栗色の髪。
自分の体重を支えようと、細い腕を必死に回してきた少女。

ノアは天井を見上げた。
この二年間、目覚めた時に誰かの気配を感じたことなど一度もなかった。
アッシュワの城で与えられた部屋は、いつも冷たく、無機質で、誰の温もりもない空間だった。
それが当然だと思っていた。
人質に与えられるのは、生かされているための最低限の場所だけ。
そこに心など介在しない。

城で目覚める朝に、誰かの気配を探したことなどなかった。

それなのに今、この埃っぽい物置小屋の中で、ノアは奇妙な安らぎを感じていた。
理由は分からない。
ただ、昨夜あの少女がここにいたという事実が、小屋の空気を変えているようだった。

ノアは身体を起こそうとした。
腹筋に力を込めた瞬間、脇腹に激痛が走り、息が詰まる。
冷や汗が背中を伝った。
だが、それでも身体を動かそうとした――その時。

扉が開いた。

軋む音と共に、湿った外気が流れ込み、そして――見覚えのある栗色の髪が姿を現した。

彼女だった。

薄い朝の光の中で、リリーは両手に盆を抱えて立っていた。
雨に濡れた肩。
少し乱れた髪。
そして昨日と変わらない、静かな緑色の瞳。

ノアの呼吸が、一瞬止まった。
昨夜は暗がりの中で、輪郭しか見えなかった。
だが今、微かな光の中で見る彼女は――
美しかった。

頬のライン、睫の影、小さな唇。
すべてが穏やかで、淡く、この灰色の街の中で唯一色を持っているように見えた。

リリーはノアが身じろぎしたのを見とめ、すぐに駆け寄ってきた。
盆を傍らに置き、ノアの額に手を伸ばす。
その指先が再びノアの肌に触れた。

「あ、動いたら駄目よ、まだ熱があるの」

少し咎めるような、それでいて心配そうな声。
諭すように、けれど有無を言わせない力があった。
ノアは反射的に身体の力を抜いた。
従わなければならないという義務感ではなく、ただその声に逆らいたくないという、奇妙な服従の意志が働いた。

リリーは熱を確認した後、持ってきた布を水で濡らし、ノアの額に当てた。
その手際は慣れたもので、昨日と同じように丁寧で優しい。

ノアは身じろぎもせず、ただ彼女を見つめていた。
この距離。
触れそうなほど近い。
彼女が息をすれば、その温かい息遣いが届く距離。

二人の間に沈黙が降りた。
雨音だけが小屋の外で立て続けに屋根を叩いている。

リリーは盆を取り、ノアの前に置いた。
粗末な黒パンが一切れと、薄いスープが茶椀に注がれていた。
質素な食事だが、湯気が立ち上り、微かな香りが漂っている。

「食べて。少しでも食べないと、治らないから」

リリーは小さな声で言った。
ノアは盆を見つめ、それからリリーを見た。

(……これは、彼女の食事ではないのか)

この街は貧しい。
工場地区の労働者たちが毎日食べるものなど、知れている。
それを分けてくれたのだ。
自分のような見知らぬ者のために。

ノアはゆっくりと上半身を起こそうとした。
脇腹に鈍い痛みが走るが、昨夜よりは幾分ましだった。
リリーが慌てて肩を支えてくれた。
近づいた彼女から、微かなハーブの香りがした。
昨夜塗ってくれた軟膏と同じ香り。

ノアはそれを無意識に吸い込んだ。
肺の奥まで、彼女の気配を刻み込むように。

スープを一口啜る。
温かかった。
胃に染み渡る熱が、冷え切った身体の内側から溶かしていくようだった。

「……名前は」

ノアは掠れた声で問いかけた。

すぐに後悔した。
聞くべきではない。
相手を知れば知るほど、離れるのが難しくなる。
名前など知らなくていい。
ただの通りすがり、夜明けと共に消える関係。
そうあるべきだ。

だが――聞かずにはいられなかった。
この少女を、名もなき存在のままにしておくことが、どうしてもできなかった。

リリーは一瞬手を止め、それから静かに答えた。

「リリー。あなたは?」

その問い返しに、ノアは言葉に詰まった。

ノア・レイ・グレンフォード。
北の白い宮殿を治めるグレンフォード王家の世継ぎ。
その名を口にすれば、全てが壊れる。
この少女が自分を知れば、敵地の人質という立場が彼女を巻き込む。
ただでさえ、このアッシュワの地でグレンフォードの名を持つことは、死刑宣告に等しい。

「……」

沈黙が長くなる。
リリーは急かさなかった。
ただ静かに、ノアの目を見つめて待っていた。

その等待 ち方が、ノアの胸を裂いた。
責めるでもなく、疑うでもなく、ただ在那里いて、彼が言葉を選ぶ時間を与えてくれている。
そんな優しさを、ノアは知らなかった。

「……言えないの?」

「……」

リリーは不思議と追及しなかった。
ただ、困ったように小首を傾げると、小さく言った。

「じゃあ、旅人さんって呼ぶね」

旅人。
その呼び名が、今の自分にどれほど相応しいか。
王族でも人質でもない、ただの――誰か。

ノアは深く俯いた。
何も言えなかった。
彼女は何も知らない。
自分が敵国の人質であることも、グレンフォードの血を引く者であることも。
ただ「旅人」と呼び、傷ついた見知らぬ人を気遣っている。

その無知が、彼女を守っている。
そして同時に、ノアと彼女の間に越えられない壁を作っている。

(……それでいい)

ノアは思った。
名を明かさないことが、彼女を守る唯一の方法だ。
この温かな小屋での時間は、永遠には続かない。
傷が治れば、自分は去らなければならない。
彼女の人生に、自分のような人間が深入りしてはいけない。

だが――それでも。
この瞬間、彼女が「旅人さん」と呼んでくれたその響きが、ノアの乾いた心に沁みた。
名前ではない。
名乗りでもない。
ただの呼び名。

リリーはそれきり何も言わず、ただ静かに傍らに座っていた。
ノアがスープを飲む音と、雨音だけが小屋を満たしている。

ノアはふと、視線を上げた。
リリーと目が合った。
彼女は微笑まず、問いかけもせず、ただそこにいた。
穏やかな緑色の瞳が、ノアを映している。
その瞳の深さに、ノアは息を呑んだ。

何も言わず、ただ見つめ合う。

ノアは視線を逸らせなかった。

穏やかな緑色の瞳。
そこに映る自分ではなく、その瞳そのものから目を離せなくなっていることに気づいてしまった。

(……リリー)

その名を、胸の奥に刻む。
決して口には出さない、内側だけの呼び名。
そうしておかなければ、この名前が唇からこぼれ落ちそうだった。

雨はまだ、降り続いている。
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