君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜
### 夜雨に濡れた心(2)
規則正しくなった寝息が、物置小屋の静寂に溶けていく。
リリーはほっと息を吐き、膝をついたまま少年の顔を覗き込んだ。
昏々と眠る彼は、傷だらけで泥にまみれているにもかかわらず、息を呑むほど美しかった。
雨に濡れたプラチナブロンドの髪が白い額にかかり、彫りの深い顔立ちを際立たせている。
閉じられた瞼の奥には、先ほどまで鋭く自分を射抜いていた深い青の瞳が隠されているはずだ。
あの瞳には、十四年生きてきた町で見たことのないほどの冷徹さと、底知れない孤独が宿っていた。
(……この人は、何者なんだろう)
ただの旅の人には見えない。
その立ち居振る舞いの端々から漂う気品。
そして血を流しながらも崩れなかった強靭な意志。
触れた肌は冷え切っていたが、その下に秘めた生命力は凄まじく、危ういほどに張り詰めていた。
リリーは無意識に手を伸ばし、彼の頬に触れそうになって……止めた。
指先が数ミリの距離で止まる。
男の人の肌。
それもこれほど異質で美しい存在に触れることは、どこか禁忌めいた畏れを感じさせた。
「……死なせるわけないよ」
小さく呟く。
それは彼に言い聞かせた言葉でもあり、自分自身への言い聞かせでもあった。
この人がどれほど厳しい場所にいようと、どれほど深い闇を抱えていようと、今はただ怪我をした一人の人でしかない。
命の火が消えかかっているなら、吹き込みたくなるのは自然なことだ。

そう自分に言い聞かせながらも、リリーの心臓は早鐘を打っていた。
彼の冷たい手に触れた時の感触や、あの鋭い視線に射抜かれた瞬間の戦慄がまだ身体に残っている。
もう十分だろう。
これ以上関われば、何か取り返しのつかないことに巻き込まれる予感がした。
リリーは震える指先を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
「……おやすみなさい」
聞こえるかどうかも分からない囁きを残し、リリーは物置小屋の扉をそっと開けた。
外はまだ雨が降り続いていた。
冷たい風が頬を撫で、我に返らせる。
リリーは襟元を合わせると、振り返ることなく闇夜の路地裏へと駆け出した。
胸の奥に残る微かな熱と、言いようのない切なさを抱えたまま。
雨は夜通し降り続いていた。
リリーは路地裏を抜け、薄暗い街路へ出た。
アッシュワ工業連邦――南の黒い工場。
この街では、力と金がすべてだった。
貴族の血筋よりもどれだけの工場を所有しているか、どれだけの富を築いたかが人の価値を決める。
北のグレンフォード王領のような華やかな宮殿も、優雅な舞踏会もない。
あるのは煤煙と鉄と、機械の轟音だけ。
アッシュワ工業連邦の夜は、いつも煤と鉄の匂いがする。
巨大な煙突群が並ぶ南方の工場地帯から、風に乗って漂う重い空気。
雨に濡れた石畳は黒く濡光りを帯び、所々に溜まった水溜まりが街灯の頼りない光を映し出していた。
工場地区は、労働者たちが暮らす居住区でもある。
低く連なる煉瓦造りの家々は煤け、窓から漏れる光はどれも貧しく橙色の街灯だけが頼りだった。
市場の露店は板を被せられ、雨の中でじっと明日の朝を待っている。
昼間なら野菜を売るための台が並ぶ広場も、今は誰もいない水溜まりに過ぎない。
リリーの家は、工場地区の外れにあった。
父のトーマスは工場で蒸気機関の修繕をしている。
常に油と鉄粉の匂いが染み付いた、寡黙で真面目な男だ。
母が家を出て以来、父は笑わなくなった。
ただ黙々と働き、疲れきった身体で帰ってくる。
弟のトムはまだ十三歳で、市場の隅で新聞を売って少しでも家計を助けている。
リリー自身も、朝から市場で野菜を売っていた。
今日は雨のせいで客足も乏しく、売り上げはいつもの半分にも満たない。
それでも帰り道に古着屋の前を通り、棚に並ぶ安い布地を一瞬だけ見つめた。
あの少年の傷口を覆う清潔な布が、もう少し必要だった。
(明日、また来よう)
そう思いながら、リリーは自分の家のドアをそっと開けた。
中からは弟の寝息と、奥の部屋から父のいびきが聞こえてくる。
一家はみな疲れ果てて眠っている。
リリーは濡れた靴を脱ぎ、音を立てないように自分の薄い寝台に滑り込んだ。
毛布を顎まで引き上げ、天井を見上げる。
まぶたの裏に焼き付いて離れないのは、あの少年の顔だった。
プラチナブロンドの髪。
泥と血にまみれてなお隠せない、研ぎ澄まされた美しさ。
あれはこの街の人間ではない。
工場地区の労働者たちとは違う、どこか遠い世界の空気を纏っていた。
あの鋭い眼差し。
最初に見開かれた瞬間、リリーは息が止まりそうだった。
自分を射抜くあの深い青は、氷のように冷たく、それでいてその奥に何か脆 かな光を宿していた。
まるで割れた硝子のように美しく、触れれば砕けてしまいそうな危うさ。
正直に言えば、怖かった。
見知らぬ男の怪我人を一人で見るなど、普通ならしない。
父に話せきっと怒られるだろう。
この街で余計なことをすれば、自分の身を滅ぼすことになる。
それは誰もが知っている掟のようなものだ。
それなのに。
――『死なせないからね』
あの時口から出た言葉は、思考よりも先に溢れ出ていた。
あの瞬間、彼が消えてしまいそうに見えたから。
雨に溶けて、闇に溶けて、この世界から跡形もなくなくなってしまいそうに見えたから。
リリーは毛布を握りしめ、目を閉じた。
指先に残る彼の肌の冷たさ。
傷口を拭いながら触れた、引き締まった体躯の硬さ。
まだ少年の輪郭を残しながらも、そこに宿るものは大人の男のそれだった。
張り詰めた緊張感。
声を押し殺して痛みに耐える、その強靭な意志。
あの傷では、一日では治らない。
熱もある出るだろう。
薬草はまだわずかに残っているが、食事も与えなければ。
自分の分のご飯を少し分ければ、父や弟には気づかれないはずだ。
リリーはそう考えながら、いつの間にかまどろみの中へと沈んでいった。
雨音だけが、世界のすべてだった。
リリーはほっと息を吐き、膝をついたまま少年の顔を覗き込んだ。
昏々と眠る彼は、傷だらけで泥にまみれているにもかかわらず、息を呑むほど美しかった。
雨に濡れたプラチナブロンドの髪が白い額にかかり、彫りの深い顔立ちを際立たせている。
閉じられた瞼の奥には、先ほどまで鋭く自分を射抜いていた深い青の瞳が隠されているはずだ。
あの瞳には、十四年生きてきた町で見たことのないほどの冷徹さと、底知れない孤独が宿っていた。
(……この人は、何者なんだろう)
ただの旅の人には見えない。
その立ち居振る舞いの端々から漂う気品。
そして血を流しながらも崩れなかった強靭な意志。
触れた肌は冷え切っていたが、その下に秘めた生命力は凄まじく、危ういほどに張り詰めていた。
リリーは無意識に手を伸ばし、彼の頬に触れそうになって……止めた。
指先が数ミリの距離で止まる。
男の人の肌。
それもこれほど異質で美しい存在に触れることは、どこか禁忌めいた畏れを感じさせた。
「……死なせるわけないよ」
小さく呟く。
それは彼に言い聞かせた言葉でもあり、自分自身への言い聞かせでもあった。
この人がどれほど厳しい場所にいようと、どれほど深い闇を抱えていようと、今はただ怪我をした一人の人でしかない。
命の火が消えかかっているなら、吹き込みたくなるのは自然なことだ。

そう自分に言い聞かせながらも、リリーの心臓は早鐘を打っていた。
彼の冷たい手に触れた時の感触や、あの鋭い視線に射抜かれた瞬間の戦慄がまだ身体に残っている。
もう十分だろう。
これ以上関われば、何か取り返しのつかないことに巻き込まれる予感がした。
リリーは震える指先を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
「……おやすみなさい」
聞こえるかどうかも分からない囁きを残し、リリーは物置小屋の扉をそっと開けた。
外はまだ雨が降り続いていた。
冷たい風が頬を撫で、我に返らせる。
リリーは襟元を合わせると、振り返ることなく闇夜の路地裏へと駆け出した。
胸の奥に残る微かな熱と、言いようのない切なさを抱えたまま。
雨は夜通し降り続いていた。
リリーは路地裏を抜け、薄暗い街路へ出た。
アッシュワ工業連邦――南の黒い工場。
この街では、力と金がすべてだった。
貴族の血筋よりもどれだけの工場を所有しているか、どれだけの富を築いたかが人の価値を決める。
北のグレンフォード王領のような華やかな宮殿も、優雅な舞踏会もない。
あるのは煤煙と鉄と、機械の轟音だけ。
アッシュワ工業連邦の夜は、いつも煤と鉄の匂いがする。
巨大な煙突群が並ぶ南方の工場地帯から、風に乗って漂う重い空気。
雨に濡れた石畳は黒く濡光りを帯び、所々に溜まった水溜まりが街灯の頼りない光を映し出していた。
工場地区は、労働者たちが暮らす居住区でもある。
低く連なる煉瓦造りの家々は煤け、窓から漏れる光はどれも貧しく橙色の街灯だけが頼りだった。
市場の露店は板を被せられ、雨の中でじっと明日の朝を待っている。
昼間なら野菜を売るための台が並ぶ広場も、今は誰もいない水溜まりに過ぎない。
リリーの家は、工場地区の外れにあった。
父のトーマスは工場で蒸気機関の修繕をしている。
常に油と鉄粉の匂いが染み付いた、寡黙で真面目な男だ。
母が家を出て以来、父は笑わなくなった。
ただ黙々と働き、疲れきった身体で帰ってくる。
弟のトムはまだ十三歳で、市場の隅で新聞を売って少しでも家計を助けている。
リリー自身も、朝から市場で野菜を売っていた。
今日は雨のせいで客足も乏しく、売り上げはいつもの半分にも満たない。
それでも帰り道に古着屋の前を通り、棚に並ぶ安い布地を一瞬だけ見つめた。
あの少年の傷口を覆う清潔な布が、もう少し必要だった。
(明日、また来よう)
そう思いながら、リリーは自分の家のドアをそっと開けた。
中からは弟の寝息と、奥の部屋から父のいびきが聞こえてくる。
一家はみな疲れ果てて眠っている。
リリーは濡れた靴を脱ぎ、音を立てないように自分の薄い寝台に滑り込んだ。
毛布を顎まで引き上げ、天井を見上げる。
まぶたの裏に焼き付いて離れないのは、あの少年の顔だった。
プラチナブロンドの髪。
泥と血にまみれてなお隠せない、研ぎ澄まされた美しさ。
あれはこの街の人間ではない。
工場地区の労働者たちとは違う、どこか遠い世界の空気を纏っていた。
あの鋭い眼差し。
最初に見開かれた瞬間、リリーは息が止まりそうだった。
自分を射抜くあの深い青は、氷のように冷たく、それでいてその奥に何か脆 かな光を宿していた。
まるで割れた硝子のように美しく、触れれば砕けてしまいそうな危うさ。
正直に言えば、怖かった。
見知らぬ男の怪我人を一人で見るなど、普通ならしない。
父に話せきっと怒られるだろう。
この街で余計なことをすれば、自分の身を滅ぼすことになる。
それは誰もが知っている掟のようなものだ。
それなのに。
――『死なせないからね』
あの時口から出た言葉は、思考よりも先に溢れ出ていた。
あの瞬間、彼が消えてしまいそうに見えたから。
雨に溶けて、闇に溶けて、この世界から跡形もなくなくなってしまいそうに見えたから。
リリーは毛布を握りしめ、目を閉じた。
指先に残る彼の肌の冷たさ。
傷口を拭いながら触れた、引き締まった体躯の硬さ。
まだ少年の輪郭を残しながらも、そこに宿るものは大人の男のそれだった。
張り詰めた緊張感。
声を押し殺して痛みに耐える、その強靭な意志。
あの傷では、一日では治らない。
熱もある出るだろう。
薬草はまだわずかに残っているが、食事も与えなければ。
自分の分のご飯を少し分ければ、父や弟には気づかれないはずだ。
リリーはそう考えながら、いつの間にかまどろみの中へと沈んでいった。
雨音だけが、世界のすべてだった。