恋愛結婚がしたいだけなのに。

自分の幸せを考えてあげなさい

地方勤務が始まってから地元に帰省したときのことだ。半月ぶりに会う綾美は、真新しい高級ブランドのバッグを持っていた。

レストランで食事をしていると、綾美が席を立ってトイレへ向かった。
テーブルに置かれたスマホを何気なく見ると、LINEの通知が目に入った。
そこには、見知らぬ男性の名前と『また会えるのが楽しみだよ』というメッセージが表示されていた。

まだやっているのか。
裏切られた気持ちと同時に、どこかで「やっぱり」と予感していた自分もいた。
しばらくして席に戻ってきた綾美に思わず尋ねた。

「LINE見えたけど、まだキャバクラやってるの?」
「…別にいいじゃん。遼には関係ない」

不機嫌になった彼女にそれ以上何も言えなかった。責めたところで、また情緒が不安定になるだけだろう。




転勤生活が始まりしばらく経った頃、綾美は大学を卒業し、地元の不動産会社に就職して1人暮らしを始めた。

その日は彼女の家で1日過ごす予定だった。
だが、部屋でくつろいでいるときに綾美は急に「仕事が入ったから行ってくる」と言い残し家を出ていった。

そのときの服装が妙に引っかかった。

自分でも馬鹿げていると思いながら、彼女のアパートにある駐車場の片隅に、隠れるように車を停めて待ち続けた。
1時間、2時間と時間は流れ、いつの間にか日が傾き始めていた。


そして夕方、1台の見知らぬ車がゆっくりと駐車場に入ってきた。
運転席に座る男の顔はよく見えなかったが、助手席から降りてきたのは綾美だった。
綾美は笑いながら手を振り、車を降りると、そのままアパートへ入っていった。

怒りは湧かなかった。
ただ「何をやっているんだ、自分は」
という虚しさだけが、胸の奥に広がった。




転勤先の地方に戻ったある晩のことだ。
電話に出た瞬間、怒鳴り声が耳に飛び込んできた。

「私が不幸なのは遼のせいだ!!」

あまりに突然のことだったため、理解が追いつかなかった。

「何かあった?」
「あんたのせいだ!! 離婚してやる!!」

綾美は泣いているのか怒っているのか分からない声で叫び続けた。

「私には好きな人がいるの!」
「何を言ってるの?綾美は結婚しているんだよ?」
「知らない!!」

そう言い放つと通話は一方的に切れた。僕はスマホを耳に当てたまま、呆然と立ち尽くした。


その後、機嫌のいい日には綾美は別人のように優しかった。

「傷つけてごめんね。私には遼しかいない」

泣きながら謝り、甘える声で僕を求めてくる。しかし、機嫌の悪い日になると、電話口から飛んでくるのは罵声ばかりだった。


彼女は職場や友人の前では明るく、誰からも好かれる存在だった。

実際、僕もそんな綾美に惹かれたのだが、関係が深くなり情が移るにつれて、他人には見せない不安や怒りをぶつけるようになった。


今は遠距離生活で不安定なだけ。
また優しい綾美に戻ってくれる。

そう自分に言い聞かせ、なんとか良い方向に持っていきたかった。




ある日、彼女がシャワーを浴びているあいだ、横目で見て覚えたスマホのパスワードを入力した。
やってはいけないことだと頭では分かっていたが、止められなかった。

写真フォルダを開いた。適当に1枚をタップする。そこには、見知らぬ男と肩を並べ、楽しそうにピースサインをする綾美が写っていた。
白髪混じりの男は50代くらいに見えた。ホテルなのか、背後にはダブルベットが見える。

次の写真へスワイプする。また、同じ男と写っている。さらに何枚か進める。今度は別の男が現れた。30代半ばくらいだろうか。
綾美は、その男とも親しげに肩を寄せ合っていた。写真の背景には、観光地らしい景色と鮮やかな紅葉が広がっていた。

次にLINEを開くと、そこには不倫相手と思われる男やキャバクラの客とのやり取りがずらりと並んでいた。僕は一つ一つのトーク画面を開くと、衝動に突き動かされるように返信を打ち始めた。

『あなたがやり取りしている綾美は結婚していて、夫がいます。もうこれ以上、彼女にメッセージを送らないでください』

送信すると、また別のトークを開く。

『綾美には夫がいます。これ以上の連絡はやめてください』

何人に送ったのかは覚えていない。ただ、壊れかけた関係を必死に繋ぎ止めるように、無我夢中で送り続けた。シャワーを終えた綾美が部屋に戻ると、すぐに異変に気づいた。

「……何これ?」

僕の手からスマホを奪い取る。送信済みのLINEを確認していく。その表情がみるみるうちに変わっていった。

「なんで勝手なことをするの!?」

震える声で叫びながら、彼女はスマホを抱きしめた。

「ひどい!本当に好きだったのに!!」

その「好きだった」は、僕に向けられた言葉ではなかった。胸の奥で何かが静かに崩れ落ちる。

「死んでやる!!」

綾美は突然叫ぶと、キッチンへ駆け込み包丁を手に取った。

「やめろ!!」

僕は慌てて立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄る。包丁の刃先は自分のほうへ向けられていた。驚きと恐怖で心臓が激しく脈打つ。
それでも、どこかで「本当に自分を傷つけるつもりじゃない」と思おうとしていた。
僕は恐怖を押し殺して、彼女の手首を掴み叫んだ。

「やめてくれ!!」

綾美は涙を流しながら叫んだ。

「全部、遼が悪いんだから!!」

彼女は力が抜けたように、ゆっくりと包丁から手を離した。次の瞬間、包丁が床に落ちた。カラン、と乾いた音が響く。それまで張り詰めていた空気が、一気に重くなったように感じられた。

僕は全身に嫌な汗をかいたまま立ち尽くしていた。心臓が激しく脈打ち、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。床に落ちた包丁から目を離すことができなかった。

窓の外では、夜の街が何事もなかったかのように静まり返っている。遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。その音は次第に小さくなり、やがて夜の静けさに消えていった。

綾美は何も言わなかった。
ただ呆然とした表情で、床を見つめている。
僕はそんな彼女を見ながら、このまま1人にしておけないと思った。迷った末、綾美を祖母の家まで送り届けることにした。




車の中で会話はなかった。
綾美は助手席で黙ったまま、窓の外を見つめていた。僕も何も言わず、ただ黙って車を走らせた。やがて、綾美の祖母の家に着いた。

玄関先で事情を説明すると、祖母は黙って話を聞いていた。そして綾美を連れて、部屋まで歩いていった。僕は2人を見届けると、そのまま帰ろうと玄関へ向かった。
靴を履こうとしたときだった。

「遼くん」

後ろから、祖母が静かに声をかけてきた。
振り返ると、祖母はどこか申し訳なさそうな表情をしていた。

「遼くんはまだ若いんだから、自分の幸せを考えてあげなさい」

その言葉に返事はできなかった。
綾美のことを一番近くで見守り、あの日「綾美をよろしくね」と言った人が、今は僕の幸せを願ってくれている。

車に戻ると、これまで必死に我慢していたものが一気に崩れ、涙が止まらなかった。





ある夜、またいつものように綾美から電話がかかってきた。

「全部あんたのせいだから!!」

そのとき何かが切れた。
これまでどんなに理不尽に責められても、夫婦だから支えなければならない。そう信じて耐え続けてきたが、限界だった。

「じゃあ離婚しよう!!」

僕は思わず声を荒げた。

「…私、別れない」
「ふざけるな!俺はもう限界だ!!」
「嫌だ!絶対離婚しない!!」
「いい加減にしろ!!」

そう吐き捨て通話を切った。
その後、何度も綾美と交渉を試み離婚届も送ったが、応じてくれることはなかった。


離婚したいのに離婚できない。
夫婦でありながら夫婦ではない。
終わっているのに終わらない。

そんな宙ぶらりんな関係が続いた。
永遠に時が止まっているように感じた。

毎日が苦しかった。
眠れない夜も増えた。


綾美を救うことが愛だと信じていた。
彼女には僕が必要で支えなければならないと。何度裏切られても、どうにかいい方向へ持っていこうとした。

そうしていつしか、離婚よりもこれまでの自分の選択が間違っていると認めることのほうが怖くなっていた。
だが、あの日気づいた。

「遼くんはまだ若いんだから、自分の幸せを考えてあげなさい」

この結婚を終わらせることは、間違いを認めるのではなく、自分の人生を取り戻すことなのだと。

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