恋愛結婚がしたいだけなのに。
結婚すれば幸せになれると思っていた
綾美と初めて出会ったのは大学院2年生の春。
アルバイト先の飲食店で働いていた彼女は別の大学に通う1年生で、僕とは5歳差だった。
肩まで伸びた髪に、少し垂れた目。笑ったときにできるえくぼが印象的で、どこか幼さを残しているのにふとした瞬間には大人びて見えた。そのときは単純に彼女の容姿に惹かれた。シフトが被った日には、バイトの合間に綾美と喋った。僕のつまらない冗談によく笑ってくれた。そんな彼女にますます惹かれていった。
出会いから半年ほど経った頃、自分のアプローチで綾美と付き合うこととなった。
「大好きだよ」
彼女はいつもそうやって愛情表現をしてくれたが、恋愛に慣れていない僕はどう返すべきなのかよく分からなかった。
「遼は好きって言ってくれないから不安になる」
そう彼女に言われてから、出来るだけ自分も愛情を言葉にして伝えていこうと思った。
その後、僕は大学院を卒業して地元の企業に就職した。
最初に違和感を覚えたのは、就職して初めて迎えた綾美の誕生日のときだ。
僕は彼女へのプレゼントに、少し奮発して4℃の3万円のネックレスを贈った。
それからしばらくは、綾美はそのネックレスを身につけてくれていたのだが、数か月後、気づけば着けなくなっていた。
その代わりに綾美の首元で揺れていたのは、見慣れないデザインのペンダントだった。
「新しいの買ったんだ」
「うん」
特に気にとめなかったが、しばらくして、仕事帰りに高級ブランド店が立ち並ぶ通りを歩いていたときのことだ。
ショーウィンドウの中に見覚えのあるペンダントが飾られていたので、思わず足を止めて見入った。それは、最近綾美が身につけているものと同じものだった。値札に目を向けると、30万円近い金額が記されていた。
それは、社会人になったばかりの自分にとって、気軽に買える代物ではなかった。
その日を境に、彼女の持ち物は少しずつ変わっていった。
ルイ・ヴィトンのバッグにシャネルの財布。
見たこともない高級ブランドのネックレスやピアス。
「それどうしたの?」
僕が尋ねると、綾美は何でもないことのように答えた。
「おばあちゃんから借りたの」
綾美は両親の育児放棄により幼い頃から父方の祖母に育てられてきた。僕は彼女の祖母に会ったことがあるが、高級ブランド品をいくつも持っているようには見えなかった。もちろん他人の懐事情など分からない。
それでも、その説明には引っかかるものがあった。
綾美がインスタで見つけて以来行きたがっていたカフェを訪れたときのことだ。
お目当てのパフェを食べながら他愛もない話をしていたが、どうやら僕は彼女の気に障ることを言ってしまったらしい。
「もういい!!」
綾美はそう叫ぶと立ち上がり、食べかけのパフェを残して店を出ていった。
店中の視線が一斉に僕へ向く。
気まずい空気に耐えきれず、店員に向かって苦笑いしながら声を絞り出した。
「出ていっちゃいましたね」
しかし場の空気は少しも和まなかった。
急いで残りのパフェをかき込み、会計を済ませると彼女の後を追った。
綾美に理由を聞くと、彼女が「美味しい?」と聞いたときの僕の反応が薄かったのが気に入らなかったらしい。
「今度から気をつけるよ」
そう伝えると、綾美は満足したように頷いた。
帰り道、彼女は僕の腕にしがみつきながらはしゃいでいた。
「おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと一緒だよ」
「気が早いな」
「いいのー!」
そんな若さ特有の熱量が眩しく、胸の奥が締め付けられる愛おしさを覚えた。
そうして交際を進めていくうちに、たびたび理解できないことがあった。
それでも綾美は本当に素敵な人だった。
いつも愛情表現してくれるし、つまらない冗談にも笑ってくれた。僕の誕生日には、それまで2人で撮った写真をアルバムにしてプレゼントしてくれた。
だから、彼女の不安定な感情も含めて受け止めようとした。
付き合って2回目のクリスマスのことだ。
その日は都心の高級レストランで食事をする予定だった。
いつも通り楽しく過ごしていたが、食事が終わりに近づいた頃、綾美は突然「用事がある」と言い出した。
僕は彼女を車に乗せ、指定された駅まで送った。
綾美が車を降り、後ろ姿を見送ったあと、助手席の足元に何かが落ちていることに気がついた。
拾い上げると、それは派手に装飾の施された名刺で、そこには聞いたことのない女性の名前と店名が記されていた。
嫌な予感を覚えながら、スマホを取り出し店名と名前を検索する。
画面に表示されたのは、華やかなドレスを身にまとい笑顔を浮かべる綾美の写真だった。
抱いていた違和感が確信へと変わった。
翌日会ったときにそのことを問いただすと、綾美は突然泣き崩れた。
「昨日はお店のお客さんと会っていたの。私はおばあちゃんに育てられてきたから、自分で学費を稼がないといけないし」
泣き崩れる綾美を見ていると、責めるより前に助けてあげたいという思いが込み上がる。
「キャバクラは辞める」
震える声で彼女はそう続けた。
不安定な綾美には自分が必要だ。
今思えば、その頃から僕は彼女の恋人ではなく、救済者になろうとしていたのかもしれない。
交際は順調に続き3年が経とうとしていた頃、会社から2年間の地方勤務を命じられた。
その後は元の職場へ戻る予定だった。
転勤の話を聞いたとき、今が結婚するタイミングだと思った。
家庭ができれば、遠距離になってもまだ若い綾美が浮気する心配もなくなる。
それに、綾美の不安定な情緒や、キャバクラで働く生活も変わるだろう。
交際3年の記念日、僕は綾美を都心の高層ビルにある高級レストランへ連れて行った。店内には静かなクラシックが流れ、窓の外には無数の鮮やかな光が夜の街を彩っていた。
食事が終盤に差しかかった頃、店員が一枚のデザートプレートを運んできた。皿にはチョコレートソースでこう書かれていた。
「Marry me?」
目を見開いた綾美の驚きが、ゆっくりと喜びへ変わっていくのが分かった。
「結婚しよう」
そう言って、用意していたリングケースを差し出した。彼女は箱を開くと目に涙を浮かべながら深く頷いた。
僕は27歳、彼女はまだ22歳のときだった。
後日、母親に結婚の報告をするとあまりいい顔をしなかった。
「まだ若いんだし、こっちに戻ってきてから結婚したら?」
しかし僕は「大丈夫だから」と言って母親の忠告を聞き入れなかった。
今思えば、母は結婚に反対していたわけではなく、遠距離生活が始まる前に慌てて結婚しようとしている僕の危うさに気づいていたのかもしれない。
その後、綾美の祖母へ挨拶に行った日の帰り際のことだ。玄関先で祖母に呼び止められた。
「遼くん」
振り返ると、祖母は穏やかに笑っていた。
「綾美をよろしくね」
「はい。幸せにします」
僕が迷いなく答えると、祖母は安心したように何度も頷いていた。
そして、両家の顔合わせと入籍を無事済ませ、転勤が終わって地元に戻ってから結婚式を挙げることにした。
「楽しみだね」
結婚式の雑誌をめくりながら嬉しそうに笑う綾美の隣で、これから始まる新しい生活に僕も胸を躍らせていた。
数週間後、2年間の赴任のため異動先の地方へ向かった。綾美はまだ学生だったため、地元に残ることになった。
出発の日、新幹線のホームには左手の薬指に結婚指輪をはめた綾美が見送りに来ていた。
「週末や長期休暇には帰ってくるよ」
そう言って、人目も気にせず彼女を強く抱きしめた。