恋愛結婚がしたいだけなのに。
最後の保険
『綾美との結婚生活を続けるつもりはない。慰謝料は請求しない。貸している車はそのまま使っていい。だから離婚してほしい』
そう綾美にLINEを送っていた。
彼女にとって決して悪い話ではない。
初めは素直には応じてくれなかった。いつものように「離婚したくない」と縋りつかれても、僕の意思は揺らがなかった。
そうして数週間にわたる説得の末、僕の決意の固さに折れたのか、ついに綾美は渋々ながら離婚を承諾した。
なぜ、不倫を繰り返していた綾美が、ここまで僕にこだわっていたのか。
これは、あくまで自分の推測にすぎない。
幼い頃に両親から育児放棄を受けた経験が、彼女の心に何らかの影響を残していた。
誰かに愛されたい。
見捨てられたくない。
そんな欲望に常に支配されていた。
愛情に飢えた綾美の欲求を満たしてくれたのが、キャバクラやパパ活だった。
彼らは、金やプレゼントを惜しみなく与えてくれる。それは彼女にとって、自分が必要とされていることを実感できる、分かりやすい愛情の形だった。
そうやって誰かから求められることで、彼女は自分の存在価値を確かめていたのかもしれない。
そして僕は、どれだけ裏切られても彼女を見捨てなかった。それもまた、綾美にとっては愛情の証だったのだろう。他の男性との関係がうまくいかなくても、絶対に自分を受け入れてくれる存在。
綾美にとって、僕は最後の保険だったのかもしれない。
師走の街が慌ただしく動く頃、僕と綾美は市役所を訪れていた。年末の窓口は手続きをする人たちで溢れかえっている。
離婚届を取り出すと、綾美がゆっくりとペンを走らせる。僕はただ黙ってその姿を見つめていた。
これで本当にすべてが終わる。
長く苦しい結婚生活から解放される。
楽しい思い出も、苦しかった記憶も、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。
アルバイト先で初めて綾美に出会ったこと。
綾美とシフトが被る日が楽しみだったこと。
恋愛に慣れていない僕に、綾美がたくさん愛情を示してくれたこと。
喧嘩した帰り道、綾美が「おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと一緒だよ」と言ってくれたこと。
そんな綾美を心から愛したこと。
夜景が一望できるレストランでプロポーズをしたこと。
転勤が終わったら、結婚式を挙げようと2人で楽しみにしていたこと。
毎晩、電話越しに綾美に罵倒されてきたこと。
綾美のスマホの通知から、他の男とのやりとりのメッセージを見てしまったこと。
何時間も待ち伏せして、綾美が不倫相手の男の車から降りてくるところを目撃したこと。
綾美のスマホのパスワードを盗み見て、不倫相手に自分からメッセージを送ったこと。
綾美が泣き喚いて、僕に包丁を突きつけてきたこと。
綾美の祖母が言ってくれたこと。
「遼くんはまだ若いんだから、自分の幸せを考えてあげなさい」
その言葉を聞いて、号泣した夜のこと。
離婚したくても離婚できない日々が続いたこと。
窓口で離婚届を提出すると、職員が書類を受け取った。
「少々お待ちください」
そう言って、離婚届に目を通していく。
記入漏れはないか。署名に間違いはないか。
そんなことを確認しているのだろう。
しばらくして、職員が顔を上げた。
「こちらで大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥につかえていたものがすっと抜けていく気がした。
これで、本当に終わった。
今日で全て過去になった。
けれど、不思議とまだ実感はない。
離婚届を提出し終え、市役所を出た。外に出ると、空は灰色の雲に覆われていた。薄暗い街に冷たい風が吹き抜け、頬を撫でていく。道を行き交う人々は足早に歩いていた。
車の音が聞こえ、信号が変わる。
店先には年末の飾りが並び、街はいつもと変わらず動いていた。
その景色がどこか遠く感じられた。
僕たちの結婚生活が終わったことなど、この街にとっては取るに足らない出来事だ。
しばらく歩いたところで、綾美と別れることになった。彼女は僕を見上げると少し笑った。
「今までありがとう。元気でね」
「綾美も、元気で」
それ以上、言葉は出てこなかった。
僕たちはそれぞれ別の方向へ歩き出した。
振り返ることはなかった。
こうして3年間の結婚生活は幕を下ろした。
あれほど離婚を望んでいたはずなのに、残ったものは達成感ではなく深い喪失感だった。
正月、実家に帰省すると、飼い猫が玄関まで出迎えてくれた。
足元にすり寄ってくる猫を撫でながら、久しぶりに帰ってきた実家の空気を感じていた。居間では家族が揃っておせちを囲んでいた。僕は箸を動かしながら、離婚したことを報告した。
「そう。よかったじゃない」
母は穏やかな顔でそう言った。
僕は苦笑いを浮かべた。
「もう、一生独身でいいや」
「兄さん、ずいぶん尖ってるね」
隣で聞いていた弟が笑った。
「もう結婚なんて懲り懲りだよ」
「まだ若いのに」
弟はそう言って、さらに笑った。
そのやり取りを聞いていた父が、ぽつりと口を開いた。普段はあまり多くを語らない父だった。
「正月はゆっくり休みなさい」
その何気ない一言に、僕は少しだけ目を伏せた。
食事を終えると、窓辺に立って庭を眺めた。
冬の庭は静かだった。葉を落とした木々の向こうに、澄んだ空が広がっている。
家族の話し声を背中に聞きながら、しばらくのんびりと息をついた。
離婚してから、こんなふうに何も考えずに過ごす時間はほとんどなかった気がする。
しばらくすると、寝室で休んでいた祖母がゆっくりとこちらへ近づいてきた。
90歳近い祖母は、少し足元を確かめるように歩いていた。
「ばっちゃん、元気にしてた?」
僕が声をかけると、祖母は顔を上げた。
「遼、離婚したんだってね?」
「まぁね」
「ばあちゃんも、一度、離婚したことあるんよ」
「ええ?!」
思わず声が出た。初耳だった。
「じいちゃんに出会う前にね。でも、人生、なんとかなるんよ」
僕は小さく笑った。
「……そうだね」
猫に癒やされ、家族が笑ってくれたことも、父の何気ない言葉も、祖母の突然の告白も、今の自分にはありがたかった。
誰かに励まされるわけでもなく、無理に前を向かされるわけでもない。
ただ、いつも通りに迎えてくれる人たちがいる。家族の温かさに触れ、離婚してから初めて心から肩の力が抜けたような気がした。
今後はもう、綾美と関わることもないだろう。そう思っていた。
だが、このときの僕はまだ知らなかった。
綾美との関係がまだ終わっていなかったことを。
僕は朱音の地元を訪れた。
最寄駅からは電車で30分ほどだった。
待ち合わせの駅に着くと、ロータリーに停まっている黒いコンパクトカーを見つけた。
運転席を見ると朱音と目が合い、笑顔で手を振ってくる。
僕も手を振り返すと、寒さに背中を押されるように、足早に車へ乗り込んだ。
「久しぶりー」
そう言って、助手席に腰を下ろした。
久しぶりに会えた嬉しさもあって、自然と冗談が飛び出した。
「ここで暮らしてもいい?」
「家賃10万払ってくれるならいいよ」
「高すぎ」
僕がツッコミを入れると、車内に笑い声が響いた。
その日は、朱音がおすすめの雑貨屋や地元の観光名所を案内してくれた。夜は食事を終えたあと彼女の家に招かれ、用意してくれたお菓子を食べながら他愛もない話をして過ごした。
「俺、実家で猫飼ってるんだけど、名前当ててみて」
「金太郎」
「惜しい。正解は、もちもち太郎」
「絶対、嘘!」
「本当。もちもちしてるから」
別の日には猫カフェに行き、帰りにケーキを買って彼女の家で一緒に食べたりした。
特別なことはしていないが、楽しかった。
そういえば、僕は綾美との関係の中で、いつも相手の機嫌を気にしていた。
嫌われないように無理をしていた。
給料に見合わない高級ブランド品を買ったりして、自分を犠牲にしていた。
今は、朱音といると、特別なことをしていなくても楽しかった。そこには、高級ブランドのバッグもアクセサリーも必要ない。
まるで、昔からの親友と一緒にいるような感覚だった。
そうして、朱音と何度か会ううちに、僕は彼女と交際している気になっていた。
お互いいい年齢だったし、わざわざ言葉にしなくても分かってくれていると思っていた。
ある日、部屋で何気なく過ごしていたとき、朱音がふと呟いた。
「もう遼くんと会う意味ないし、今日で会うの最後にする」
あまりに突然の出来事に、僕は一瞬、言葉を失った。
「そんな悲しいこと言わないでよ」
このまま終わってしまうのは嫌だった。
それに僕はてっきり、もう彼女と付き合っているつもりでいた。いい歳をした男が改めて口にするのは、どこか照れくさい。
「付き合おう」
そう言うと、朱音はふっと表情が緩んだ。
「……うん、よろしく」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。こうして僕たちは正式に恋人になった。
ある日、朱音の家に招かれた。
「最近ハマってる自信作だから。遼くんはリビングで待ってて」
そう言って、朱音はキッチンへ戻っていった。テレビを眺めながら待っていると、気づけば一時間ほど経っていた。
やがて朱音がリビングに戻ってくる。
テーブルには、手料理が所狭しと並べられていた。
「サーモンのパイ包みと、カボチャのポタージュ」
焼きたてのパイ生地から、香ばしい匂いが立ち上っている。誰かが自分のために、時間をかけて料理を作ってくれる。
そんなことは、いつ以来だろう。
サーモンのパイ包みを一口食べると、パイ生地とホワイトソースが絡み合った濃厚な味わいが口に広がった。
「うまー!!」
僕は思わず小さく叫んだ。
「頑張った甲斐があった!」
目の前に並んだ料理を見つめながら、静かに満たされていくのを感じた。
誰かに大切にされるというのは、こういうことなのかもしれない。
「俺、こんなに幸せでいいのかな」
自然とそんな言葉がこぼれた。
朱音は少し不思議そうに僕を見つめていた。
そうやって彼女と関係を深めていく中で、ある葛藤が生まれた。
いつ、自分の過去を打ち明けるべきか。
一度、結婚したこと。
そして、朱音と出会った頃は、まだ籍が入っていたこと。その事実を伝えないまま、時間だけが積み重なっていくことが苦しかった。
彼女が知ったらどう思うだろう。
軽蔑されるかもしれない。
失望されるかもしれない。
別れを切り出されるかもしれない。
不安が何度も頭の中を巡った。
交際から3ヶ月ほど経った、ある週末の夜のことだ。いつものように部屋でふざけ合っていた。
「俺のほうが朱音ちゃんのこと好き」
「いやいや、私のほうが遼くんのことが好き」
「いや、自分」
「いや、自分」
「いや、自分」
何度も同じやり取りを繰り返しているうちに、朱音が堪えきれず爆笑した。
僕もつられて笑った。
そうやって楽しく過ごしていると、彼女が冗談交じりに言い出した。
「そういえば、私に何か言ってないことあるでしょ?」
いつもの軽い冗談だということは分かっていた。朱音も深い意味で言ったわけではなかったと思う。
それでも、その言葉を聞いた瞬間、罪悪感が重くのしかかった。もうこれ以上、何も知らない彼女の優しさに甘え続けることはできない。
「ごめん。明日、話したいことがある」
朱音の表情が一変した。
「……え?本当にあるの?」
「ずっと、伝えないといけないと思ってた」
僕の神妙な面持ちを見て、ただ事ではないと察したのか、彼女は表情を強張らせた。
「え、何……?怖いから今言って」
「ごめん。明日話すから」
逃げ出したい気持ちと、もう隠してはいけないという罪悪感がぶつかっていた。
「そんなの気になって今日寝られないじゃん。今言って」
「……明日言う」
「無理。今聞きたい」
何度か押し問答が続いた後、覚悟を決めた。
「実は……結婚していたんだ」
少し間を置いて、僕は続けた。
「もう離婚はしている。でも……朱音ちゃんと出会ったとき、俺はまだ籍が入っていた」
朱音の顔を見ることができなかった。
部屋が急に広くなったように感じた。
彼女は何も言わなかった。
そう綾美にLINEを送っていた。
彼女にとって決して悪い話ではない。
初めは素直には応じてくれなかった。いつものように「離婚したくない」と縋りつかれても、僕の意思は揺らがなかった。
そうして数週間にわたる説得の末、僕の決意の固さに折れたのか、ついに綾美は渋々ながら離婚を承諾した。
なぜ、不倫を繰り返していた綾美が、ここまで僕にこだわっていたのか。
これは、あくまで自分の推測にすぎない。
幼い頃に両親から育児放棄を受けた経験が、彼女の心に何らかの影響を残していた。
誰かに愛されたい。
見捨てられたくない。
そんな欲望に常に支配されていた。
愛情に飢えた綾美の欲求を満たしてくれたのが、キャバクラやパパ活だった。
彼らは、金やプレゼントを惜しみなく与えてくれる。それは彼女にとって、自分が必要とされていることを実感できる、分かりやすい愛情の形だった。
そうやって誰かから求められることで、彼女は自分の存在価値を確かめていたのかもしれない。
そして僕は、どれだけ裏切られても彼女を見捨てなかった。それもまた、綾美にとっては愛情の証だったのだろう。他の男性との関係がうまくいかなくても、絶対に自分を受け入れてくれる存在。
綾美にとって、僕は最後の保険だったのかもしれない。
師走の街が慌ただしく動く頃、僕と綾美は市役所を訪れていた。年末の窓口は手続きをする人たちで溢れかえっている。
離婚届を取り出すと、綾美がゆっくりとペンを走らせる。僕はただ黙ってその姿を見つめていた。
これで本当にすべてが終わる。
長く苦しい結婚生活から解放される。
楽しい思い出も、苦しかった記憶も、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。
アルバイト先で初めて綾美に出会ったこと。
綾美とシフトが被る日が楽しみだったこと。
恋愛に慣れていない僕に、綾美がたくさん愛情を示してくれたこと。
喧嘩した帰り道、綾美が「おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと一緒だよ」と言ってくれたこと。
そんな綾美を心から愛したこと。
夜景が一望できるレストランでプロポーズをしたこと。
転勤が終わったら、結婚式を挙げようと2人で楽しみにしていたこと。
毎晩、電話越しに綾美に罵倒されてきたこと。
綾美のスマホの通知から、他の男とのやりとりのメッセージを見てしまったこと。
何時間も待ち伏せして、綾美が不倫相手の男の車から降りてくるところを目撃したこと。
綾美のスマホのパスワードを盗み見て、不倫相手に自分からメッセージを送ったこと。
綾美が泣き喚いて、僕に包丁を突きつけてきたこと。
綾美の祖母が言ってくれたこと。
「遼くんはまだ若いんだから、自分の幸せを考えてあげなさい」
その言葉を聞いて、号泣した夜のこと。
離婚したくても離婚できない日々が続いたこと。
窓口で離婚届を提出すると、職員が書類を受け取った。
「少々お待ちください」
そう言って、離婚届に目を通していく。
記入漏れはないか。署名に間違いはないか。
そんなことを確認しているのだろう。
しばらくして、職員が顔を上げた。
「こちらで大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥につかえていたものがすっと抜けていく気がした。
これで、本当に終わった。
今日で全て過去になった。
けれど、不思議とまだ実感はない。
離婚届を提出し終え、市役所を出た。外に出ると、空は灰色の雲に覆われていた。薄暗い街に冷たい風が吹き抜け、頬を撫でていく。道を行き交う人々は足早に歩いていた。
車の音が聞こえ、信号が変わる。
店先には年末の飾りが並び、街はいつもと変わらず動いていた。
その景色がどこか遠く感じられた。
僕たちの結婚生活が終わったことなど、この街にとっては取るに足らない出来事だ。
しばらく歩いたところで、綾美と別れることになった。彼女は僕を見上げると少し笑った。
「今までありがとう。元気でね」
「綾美も、元気で」
それ以上、言葉は出てこなかった。
僕たちはそれぞれ別の方向へ歩き出した。
振り返ることはなかった。
こうして3年間の結婚生活は幕を下ろした。
あれほど離婚を望んでいたはずなのに、残ったものは達成感ではなく深い喪失感だった。
正月、実家に帰省すると、飼い猫が玄関まで出迎えてくれた。
足元にすり寄ってくる猫を撫でながら、久しぶりに帰ってきた実家の空気を感じていた。居間では家族が揃っておせちを囲んでいた。僕は箸を動かしながら、離婚したことを報告した。
「そう。よかったじゃない」
母は穏やかな顔でそう言った。
僕は苦笑いを浮かべた。
「もう、一生独身でいいや」
「兄さん、ずいぶん尖ってるね」
隣で聞いていた弟が笑った。
「もう結婚なんて懲り懲りだよ」
「まだ若いのに」
弟はそう言って、さらに笑った。
そのやり取りを聞いていた父が、ぽつりと口を開いた。普段はあまり多くを語らない父だった。
「正月はゆっくり休みなさい」
その何気ない一言に、僕は少しだけ目を伏せた。
食事を終えると、窓辺に立って庭を眺めた。
冬の庭は静かだった。葉を落とした木々の向こうに、澄んだ空が広がっている。
家族の話し声を背中に聞きながら、しばらくのんびりと息をついた。
離婚してから、こんなふうに何も考えずに過ごす時間はほとんどなかった気がする。
しばらくすると、寝室で休んでいた祖母がゆっくりとこちらへ近づいてきた。
90歳近い祖母は、少し足元を確かめるように歩いていた。
「ばっちゃん、元気にしてた?」
僕が声をかけると、祖母は顔を上げた。
「遼、離婚したんだってね?」
「まぁね」
「ばあちゃんも、一度、離婚したことあるんよ」
「ええ?!」
思わず声が出た。初耳だった。
「じいちゃんに出会う前にね。でも、人生、なんとかなるんよ」
僕は小さく笑った。
「……そうだね」
猫に癒やされ、家族が笑ってくれたことも、父の何気ない言葉も、祖母の突然の告白も、今の自分にはありがたかった。
誰かに励まされるわけでもなく、無理に前を向かされるわけでもない。
ただ、いつも通りに迎えてくれる人たちがいる。家族の温かさに触れ、離婚してから初めて心から肩の力が抜けたような気がした。
今後はもう、綾美と関わることもないだろう。そう思っていた。
だが、このときの僕はまだ知らなかった。
綾美との関係がまだ終わっていなかったことを。
僕は朱音の地元を訪れた。
最寄駅からは電車で30分ほどだった。
待ち合わせの駅に着くと、ロータリーに停まっている黒いコンパクトカーを見つけた。
運転席を見ると朱音と目が合い、笑顔で手を振ってくる。
僕も手を振り返すと、寒さに背中を押されるように、足早に車へ乗り込んだ。
「久しぶりー」
そう言って、助手席に腰を下ろした。
久しぶりに会えた嬉しさもあって、自然と冗談が飛び出した。
「ここで暮らしてもいい?」
「家賃10万払ってくれるならいいよ」
「高すぎ」
僕がツッコミを入れると、車内に笑い声が響いた。
その日は、朱音がおすすめの雑貨屋や地元の観光名所を案内してくれた。夜は食事を終えたあと彼女の家に招かれ、用意してくれたお菓子を食べながら他愛もない話をして過ごした。
「俺、実家で猫飼ってるんだけど、名前当ててみて」
「金太郎」
「惜しい。正解は、もちもち太郎」
「絶対、嘘!」
「本当。もちもちしてるから」
別の日には猫カフェに行き、帰りにケーキを買って彼女の家で一緒に食べたりした。
特別なことはしていないが、楽しかった。
そういえば、僕は綾美との関係の中で、いつも相手の機嫌を気にしていた。
嫌われないように無理をしていた。
給料に見合わない高級ブランド品を買ったりして、自分を犠牲にしていた。
今は、朱音といると、特別なことをしていなくても楽しかった。そこには、高級ブランドのバッグもアクセサリーも必要ない。
まるで、昔からの親友と一緒にいるような感覚だった。
そうして、朱音と何度か会ううちに、僕は彼女と交際している気になっていた。
お互いいい年齢だったし、わざわざ言葉にしなくても分かってくれていると思っていた。
ある日、部屋で何気なく過ごしていたとき、朱音がふと呟いた。
「もう遼くんと会う意味ないし、今日で会うの最後にする」
あまりに突然の出来事に、僕は一瞬、言葉を失った。
「そんな悲しいこと言わないでよ」
このまま終わってしまうのは嫌だった。
それに僕はてっきり、もう彼女と付き合っているつもりでいた。いい歳をした男が改めて口にするのは、どこか照れくさい。
「付き合おう」
そう言うと、朱音はふっと表情が緩んだ。
「……うん、よろしく」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。こうして僕たちは正式に恋人になった。
ある日、朱音の家に招かれた。
「最近ハマってる自信作だから。遼くんはリビングで待ってて」
そう言って、朱音はキッチンへ戻っていった。テレビを眺めながら待っていると、気づけば一時間ほど経っていた。
やがて朱音がリビングに戻ってくる。
テーブルには、手料理が所狭しと並べられていた。
「サーモンのパイ包みと、カボチャのポタージュ」
焼きたてのパイ生地から、香ばしい匂いが立ち上っている。誰かが自分のために、時間をかけて料理を作ってくれる。
そんなことは、いつ以来だろう。
サーモンのパイ包みを一口食べると、パイ生地とホワイトソースが絡み合った濃厚な味わいが口に広がった。
「うまー!!」
僕は思わず小さく叫んだ。
「頑張った甲斐があった!」
目の前に並んだ料理を見つめながら、静かに満たされていくのを感じた。
誰かに大切にされるというのは、こういうことなのかもしれない。
「俺、こんなに幸せでいいのかな」
自然とそんな言葉がこぼれた。
朱音は少し不思議そうに僕を見つめていた。
そうやって彼女と関係を深めていく中で、ある葛藤が生まれた。
いつ、自分の過去を打ち明けるべきか。
一度、結婚したこと。
そして、朱音と出会った頃は、まだ籍が入っていたこと。その事実を伝えないまま、時間だけが積み重なっていくことが苦しかった。
彼女が知ったらどう思うだろう。
軽蔑されるかもしれない。
失望されるかもしれない。
別れを切り出されるかもしれない。
不安が何度も頭の中を巡った。
交際から3ヶ月ほど経った、ある週末の夜のことだ。いつものように部屋でふざけ合っていた。
「俺のほうが朱音ちゃんのこと好き」
「いやいや、私のほうが遼くんのことが好き」
「いや、自分」
「いや、自分」
「いや、自分」
何度も同じやり取りを繰り返しているうちに、朱音が堪えきれず爆笑した。
僕もつられて笑った。
そうやって楽しく過ごしていると、彼女が冗談交じりに言い出した。
「そういえば、私に何か言ってないことあるでしょ?」
いつもの軽い冗談だということは分かっていた。朱音も深い意味で言ったわけではなかったと思う。
それでも、その言葉を聞いた瞬間、罪悪感が重くのしかかった。もうこれ以上、何も知らない彼女の優しさに甘え続けることはできない。
「ごめん。明日、話したいことがある」
朱音の表情が一変した。
「……え?本当にあるの?」
「ずっと、伝えないといけないと思ってた」
僕の神妙な面持ちを見て、ただ事ではないと察したのか、彼女は表情を強張らせた。
「え、何……?怖いから今言って」
「ごめん。明日話すから」
逃げ出したい気持ちと、もう隠してはいけないという罪悪感がぶつかっていた。
「そんなの気になって今日寝られないじゃん。今言って」
「……明日言う」
「無理。今聞きたい」
何度か押し問答が続いた後、覚悟を決めた。
「実は……結婚していたんだ」
少し間を置いて、僕は続けた。
「もう離婚はしている。でも……朱音ちゃんと出会ったとき、俺はまだ籍が入っていた」
朱音の顔を見ることができなかった。
部屋が急に広くなったように感じた。
彼女は何も言わなかった。