さよならを繰り返す100回目の放課後
第四章:さよならの向こう側にある明日
浮遊感。
まるで重力そのものがどこかへ消えてしまったかのように、身体がふわふわと宙に浮かんでいた。

耳元で、風の鳴る音が聞こえる。
いや、風ではない。それは無数の針が刻む時計の秒針の音——チクタク、チクタクと重なり合う、数千、数万の「時の音」だった。

(……ここは……どこ……?)

ゆっくりと目を開けると、そこには空も、地面も、学校もなかった。
真っ白な光と、漆黒の闇が混ざり合う、果てしない時空の狭間。
そこには、わたしと律がこれまで繰り返してきた「102回の10月15日」の記憶の破片が、ガラスのパズルのように無数に漂っていた。

夕日に染まる教室。
雨の駅前交差点。
血に染まったハンカチ。
崩れ落ちた風車公園の資材。
炎に包まれた図書室。

(全部……わたし達が過ごしてきた『今日』……)

息を呑むわたしのアタマ上で、繋いだ手にキュッと強い力が込められた。

「紬……! 大丈夫か!?」

となりにいたのは、律だった。
乱れた黒髪、真剣な茶色い瞳。真っ白な光の中で、彼はしっかりとわたしのアームを抱きかかえてくれていた。どんなに世界が崩壊しても、わたし達の手は一度たりとも離れていなかったのだ。

「律……! うん、大丈夫……! ここ、一体どうなってるの……?」

「『10月15日』のループが消滅して、過去の時間の狭間に放り出されたんだと思う。俺たちが閉じ込められていた箱庭の世界が……崩れていくんだ」

律が見上げる先で、102回分の記憶の欠片が、キラキラと眩しい光の粒子となって砕け散っていく。
暴走トラックも、倒れる鉄塔も、わたし達を苦しめてきた「最悪の運命」が、ゆっくりと消え去っていくのが分かった。

「勝ったんだな……俺たち……」

律が力なく笑った。その目には安堵の涙が浮かんでいた。

「うん……! もう、事故は起きない。10月15日は終わったんだよ、律!」

わたしは溢れ出る感動に胸を震わせ、律の手を両手でギュッと包み込んだ。
午後五時の壁を越えた。事故の運命を打ち破った。これでわたし達は、誰も死なずに済む「明日」へ行けるのだと、そう信疑していなかった。

その時だった。

『……本当に、それで終われると思っているのか?』

どこからともなく、低く重い「声」が響き渡った。

「っ!?」

わたしと律は同時に身を固くした。
真っ白な空間の奥から、ゆらりと黒い影が立ち上る。それは人の形をしているようでもあり、巨大な時計の文字盤のようでもあった。
ふたつの真鍮の懐中時計が発していた「時間の歪み(因果の修正力)」が形を成したような、異様な存在だった。

『二人で運命を捻じ曲げ、死を回避した。……だが、時を巻き戻す力には、必ず報い(代償)が必要だ』

黒い影が、わたし達を取り囲むように大きな歪みとなって広がっていく。

『102回もの時間を歪め、世界の理を壊した者たちよ。命を救われた代わりに、二人はその【代償】を支払わねばならない』

「代償……!?」

律がわたしを庇うように前へ踏み出した。

「ふざけるな! 俺たちは誰も傷つけてない! ただ、二人で一緒に生きたかっただけだ!! 代償なんて払うものか!!」

『断ることは許されない』

影の声は残酷に響いた。

『どちらか片方の命を奪うことで完結していた歪みが、解き放たれたのだ。二人揃って「10月16日」へ進むというなら——二人の命ではなく、【二人を結びつけていた一番大切な記憶】を消去する』

「……な……に……?」

わたしは耳を疑った。

一番大切な記憶?

『時間の巻き戻しによって生まれた全ての因果をリセットする。つまり、二人が出会ってから今日までの記憶……【互いの存在そのものの記憶】を消し去るのだ。明日へ進めば、お前たちは互いを完璧に忘れた赤の他人となる』

「そんなの……!!」

あまりの残酷さに、頭の中が真っ白になった。

記憶を……忘れる?
律のことを? 律と過ごした大切な時間を?
モノクロだったわたしの世界に色をつけてくれた、一番大好きな人のことを、全部忘れてしまうというの……!?

「冗談じゃねえ……!!」

律が叫んだ。その顔は怒りと絶望で激しく歪んでいた。

「紬を忘れるくらいなら……俺のことを忘れられるくらいなら! 記憶を失って生きるなんて、そんなの生きてるって言えねえだろ!!」

『ならば、このまま時間の狭間に留まり、永遠に消滅するか? 記憶を捨てて明日へ行くか、記憶を抱えてここで終わるか……選ぶがいい』

黒い影は冷酷に宣告した。

世界が、静まり返る。
チクタク、チクタクという時計の針の音だけが、虚しく響いていた。

「紬……」

律がわたしを振り返った。その茶色い瞳はグラグラと揺れ、ポタポタと大きな涙がこぼれ落ちていた。

「嫌だ……嫌だよ、紬……。お前を忘れたくない……。お前が話しかけてくれたあの日のことも、二人で笑った放課後のことも、お前が俺のために泣いてくれたことも……全部全部、俺の宝物なんだ……! これを失ったら、俺は……俺じゃなくなっちまう……っ!」

律はわたしの肩を掴み、子どもみたいに泣きじゃくった。

102回の死の恐怖にも耐え抜いてきた彼が、記憶を失うことの恐怖に打ちのめされている。
わたしにとっても、それは死ぬこと以上に恐ろしいことだった。

律の笑顔。
「バカ言え」と呆れる声。
照れたときに耳を赤くする癖。
わたしのために必死になってくれた、温かい手。

それを全部失って、名前すら思い出せない他人になって生きていくなんて——そんなの、あんまりだ。

(でも……)

わたしは胸に手を当てた。
奥底で、二つの真鍮の懐中時計が静かに冷たくなっていくのを感じる。

(記憶を失うことと、律が死んでしまうこと……どっちが本当に悲しい……?)

答えは、最初から決まっていた。

102回もの間、わたしが一番恐れていたのは、律の瞳から光が消えることだった。
彼が二度と息を吸えなくなることだった。
彼の未来が、10月15日で終わってしまうことだった。

生きていてくれさえすれば。
この世界のどこかで、彼が元気に息をして、ご飯を食べて、笑っていてくれさえすれば——それ以上に望むことなんて、最初からなかったはずだ。

わたしは、涙をポロポロと零しながら、優しく笑った。

そして、律の濡れた頬にそっと両手を添えた。

「律……」

「紬……ダメだ……『忘れてもいい』なんて言うなよ……頼むから……っ!」

「ううん。言わないよ。……忘れたくないよ。当たり前じゃない。わたしだって、律のこと絶対に忘れたくない……!」

わたしは律の額に、自分の額をこつんと重ね合わせた。

「でもね、律。思い出して? わたし達が一番叶えたかったことって、何だった……?」

「……っ」

「『二人で一緒に生きて、明日に行くこと』だったでしょ? 律が生きててくれるなら……わたし、なんだって耐えられるよ」

「でも……! 俺がお前を忘れるんだぞ!? お前と過ごした記憶が、全部消えちゃうんだぞ!?」

「消えないよ」

わたしはまっすぐに律の瞳を見つめた。

「頭の記憶が消えても……心の中に残るよ。102回も二人で命をかけて想い合ったんだよ? そんな強い想い、たかが時間のルールなんかに消せるわけないじゃない!」

わたしの言葉に、律が息を呑む。

「もし……もし、明日になって律がわたしのことを忘れてても……わたし、絶対にまた律に話しかけるから」

「紬……」

「転校初日みたいに、またしつこく話しかけて、友達になって……また好きになってもらうから! だから……諦めないで。二人で『明日』に行こう、律!!」

涙でぐしゃぐしゃになりながら、わたしは晴れやかな笑顔を作った。

律は目を見開き、溢れる涙を止めることもできずわたしを見つめ——やがて、覚悟を決めたように、強く歯を食いしばった。

「……お前は……本当にかわいくて、強くて……最高にバカな奴だよ……」

律は泣き笑いしながら、わたしを押し潰すほどの力で強く抱きしめてくれた。

「約束しろよ……! 絶対に、また俺に話しかけてくれ……! 忘れてたら……思い切りぶっ叩いてでも、思い出させろよ……っ!」

「うん! 約束する! 何回だって話しかけてあげるからね!」

わたし達は、二人の手を重ね合わせ、真鍮の時計を影に向かって掲げた。

「俺たちの記憶と引き換えに……『10月16日』を渡せ!!」

律が叫ぶ。

パリーン……ッ!!

ふたつの真鍮の懐中時計が、ついに木っ端みじんに砕け散った。
眩い光が時空の狭間を覆い尽くし、黒い影を呑み込んでいく。

「紬……! 大好きだ……っ!!」

「わたしも……! 律のことが、大好きだよーーーーっ!!」

最後に名前を叫び合い、わたし達の身体は、光の濁流の中へと呑み込まれていった。
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