さよならを繰り返す100回目の放課後
「行きたいところ……? 今からか?」

律は意外そうに眉をひそめた。少し首をかしげると、サラリと揺れた黒髪が夕日を浴びて金色に透ける。

「うん! どうしても今すぐ、律と一緒に行きたいの。ダメ……かな?」

わたしは必死で明るい声を張り上げた。声が震えてしまわないように、奥歯をギュッと噛みしめながら。
断られたらどうしようという恐怖で、心臓が口から飛び出しそうだった。けれど、律は呆れたように小さく息を吐くと、肩にかけたスクールバッグを背負い直した。

「別にダメとは言ってねえだろ。……で、どこ行くんだよ。駅前のカフェとか言ったら却下だぞ。俺、あんま甘いもん食えねえし」
「違うよ! 駅前じゃなくて……学校の裏の高台にある『風車公園』!」

わたしは即座に答えた。
駅前交差点——そこは、律が事故に遭う死のグラウンドゼロだ。だから絶対に駅の方向へは近づかせない。学校の北側に位置する風車公園なら、駅とはまったく反対方向になる。そこまで律を引っ張っていき、午後五時を過ぎるまで一緒に過ごせば、事故そのものを回避できるはずだ。

「風車公園? ああ、あの長い坂の上のか。なんでまた急にそんなマニアックな場所なんだよ」
「いいから! ほら、早く行こう! 日が暮れちゃう!」

わたしは律の答える間も与えず、彼の制服の袖を掴んで教室を飛び出した。

「うわっ、引っ張るなって! 転ぶだろ!」

文句を言いながらも、律はわたしの歩幅に合わせて足を早めてくれた。
ガラガラと静まり返った廊下を駆け抜け、昇降口で靴を履き替える。下駄箱の金属の冷たさが、汗ばんだ手に伝わってきた。

学校を出て、わたし達は駅とは逆方向の北側へと向かう。
時計の針は、午後四時四十四分。
事故が起きる午後五時まで、あと十六分。

(大丈夫。今回は駅前に行かない。交差点にも近づかない。これなら絶対に助かる……!)

胸の中で何度も自分に言い聞かせた。
学校の敷地を外れると、風車公園へと続く長い急斜面の坂道が視界に飛び込んでくる。オレンジ色の夕暮れが、二人の影をアスファルトの上に長く伸ばしていた。

ハァハァと白い息を吐きながら坂道を上っていく。隣を歩く律は、長身の足を活かして余裕の表情で歩いていた。

「なあ、紬」
「ふぇ? な、なに……?」
「お前さ、やっぱりなんかヘンだぞ」

律がふいに足を止め、じっとわたしを見つめてきた。夕日に染まる茶色い瞳が、わたしのアタマから足先までを見透かすように揺れている。

「……何が?」
「何がって……お前、さっきからずっと俺の手首とか袖口、チラチラ見てるだろ。まるで俺がどっかに消えちまうみたいにさ。それに、声もずっと緊張してる」

ドクン、と心臓が大きく脈打った。
鋭い。相変わらず、律はこういう観察力だけはやたらと鋭いのだ。

「そんなこと……ないよ。ただ、律と一緒に放課後過ごせるのが、ちょっと嬉しいだけ」

誤魔化すように笑ってみせると、律は一瞬ポカンと目を見開き、それからバツの悪そうに顔を背けた。耳の先端がほんのり赤くなっているのが分かる。

「……バカ言え。いつも一緒に帰ってんだろ」
「いつもはいつも! 今日は今日!」

わたしは強がりながら、密かに胸を撫で下ろした。
律が二ヶ月前にこの街に転校してきた日のことを、わたしは鮮明に覚えている。
転校初日、クラスの誰とも目を合わさず、窓の外ばかり眺めていた不機嫌そうな男の子。誰もが「近寄りがたい奴」だと遠巻きにしていたけれど、放課後、校舎の裏で捨て猫にそっと自分のパンを分けてあげている姿を、わたしは偶然見てしまったのだ。

「あいつ、見た目怖そうだけど、めちゃくちゃ優しいんだよ」

そう知ってから、わたしは猛アタックして彼に話しかけるようになった。最初は嫌そうにしていた律も、次第に呆れ顔で笑ってくれるようになり、気づけば一番近くで放課後を過ごす存在になっていた。
モノクロで退屈だったわたしの毎日が、律と出会ったことで色鮮やかな世界に変わったのだ。

そんな律を失うなんて、絶対に耐えられない。

坂道を登りきると、大きな3基の白い風車が夕空に映える「風車公園」に到着した。高台からは、オレンジ色に染まる街並みが一望できる。はるか遠くに、本来なら律が歩いていたはずの駅前のビル群が見えた。

「うわ……すげえな。ここ、こんな景色良かったんだ」

律が感嘆の声を漏らし、公園の柵に両手をついて街を見下ろした。吹き抜ける秋風が、彼の黒髪を優しく揺らす。

「でしょ? ここから見る夕暮れ、大好きなんだ」

わたしは律のとなりに並び、チラリと腕時計を確認した。

四時五十二分。
あと、八分。

(勝った……! ここならトラックなんか入ってこられない。事故なんか起きようがない!)

あまりの安堵感に、全身の力が抜けそうになった。目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死で耐える。
何度やり直しても届かなかった「絶望の未来」を、ついに書き換えることができたんだ。

「紬、連れてきてくれてサンキュ。なんか……最近引越しとかでバタバタしてて疲れてたから、スッキリしたわ」
「ううん、律が喜んでくれてよかった」

二人は静かに夕日を見つめた。風車がカサカサと音を立てて回っている。
四時五十四分。
あと、六分。時間よ、このまま何事もなく過ぎ去ってくれ——そう祈った、まさにその瞬間だった。

「……あ」

律が突然、制服のポケットをごそごさと探り始めた。顔からすっと色が引いていく。

「どうしたの、律?」
「やばい……落としたかも」
「落としたって、何を?」
「妹にもらった、手作りのキーホルダー。ほら、いつもバッグにつけてるウサギのやつ」

律の言葉に、わたしはハッとして彼のスクールバッグを見た。いつも金具の部分に揺れていた、少し不格好なフェルトのウサギがなくなっている。

「ど、どこで落としたかわかるの!?」
「……多分、学校だ。放課後、教室でプリント整理してるときに引っ掛けた気がする。あいつが病気入院するときに『お守り』って言って作ってくれたやつなんだよ。失くしたら絶対怒られる……!」

律は青ざめた顔で振り返り、坂道を下りようと一歩踏み出した。

「俺、ちょっと学校戻ってくる! 紬は先に帰ってていいぞ!」

——ドサッ、と世界が反転するような衝撃がわたしを襲った。

(嘘……でしょ……?)

学校へ戻る?
学校へ戻るには、あの坂を下りて、駅前の大通りを通らなければならない。
運命が、まるで磁石のように律を「あの場所」へ引き戻そうとしているのだ。

「ダメーーーーっ!!!!」

わたしはなりふり構わず走り寄り、律の腰に後ろから抱きついた。

「うわっ!? つ、紬!? お前なにして——」
「ダメ! 行っちゃダメ! お願いだから、今すぐ学校に戻ったりしないで!!」
「な、なに言ってんだよ! 大切なやつなんだって! すぐ探して戻ってくるから——」
「ダメなの! 絶対にダメなの!!」

わたしは声が枯れるほど叫びながら、全身の力で彼にしがみついた。涙が溢れ出し、律の制服の背中を濡らしていく。

「頼むから……お願いだからここにいて! 5時過ぎるまで……あと5分だけでいいから、ここから動かないでよぉ……っ!」
「紬……お前、なんで泣いて……」

律が困惑した声を出した。背中越しに、彼の動悸が伝わってくる。

「意味分かんねえよ……なんでそこまで止めるんだよ? ただキーホルダー探しに行くだけだろ!?」
「言えない……言えないよぉ……!」

本当のことなんて言えるはずがない。『あなたがこれから事故で死んじゃうから』なんて言ったら、頭がおかしくなったと思われるだけだ。
でも、離したら死んでしまう。この手を緩めたら、律は永遠に失われてしまうんだ!

「お願い、律……私を信じて……5時になるまで、ここにいて……っ」

わたしは必死で顔を押し付け、泣きじゃくった。
律は逃げ出そうとするのをやめ、深いため息をついた。

「……分かったよ。分かったから、泣くなよ」

律の手が、そっとわたしの頭の上に置かれた。ぽんぽんと優しく撫でてくれる。

「5時までな。5時になったら、一緒に探すのに付き合えよ? それならいいだろ」
「……うん……ううん……っ」

わたしは何度も頷いた。
四時五十七分。
あと三分。

(あと三分耐えれば、5時になる。5時を過ぎれば、事故の時間枠から外れる……!)

わたしは律の服を握りしめたまま、必死に呼吸を整えた。風車公園の平和な時間が、ゆっくりと流れていく。
大丈夫、ここは安全だ。トラックも来ない、交差点もない。運命なんかに負けない。

四時五十八分。
あと二分。

その時だった。

ガラガラガラガラガラ……ッ!

公園の入口、坂道の上にある資材置き場から、凄まじい金属音が響き渡った。

「え……?」

わたしが顔を上げると、工事用に積まれていた大量の鉄パイプと重いコンクリートブロックが、留め具が外れたのか、崩落して坂道を転がり落ちていくのが見えた。

そして——その坂道の下には、下校途中と思われる小学生の小さな女の子が、一人で歩いていた。

「キャーッ!?」

女の子の悲鳴が上がる。巨大な鉄パイプの群れが、猛スピードで女の子に向かって落ちていく。

「嘘だろ……!? 危ないっ!」

律の顔色が変わり、わたしが引き止める間もなく、彼はわたしのアームを振り払った。

「律!! やめてーーーーーっ!!」

私の叫び声は、鉄パイプが崩れ落ちる轟音にかき消された。
律は風のように駆け出し、女の子のもとへと飛び込んでいく。

四時五十九分。
黒い影が、夕日を遮るように二人を飲み込んでいった。
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