さよならを繰り返す100回目の放課後
「ぐっ……!!」
低い苦悶の声が、頭上から降ってきた。
ドガガガガアンッ! という耳をつんざくような轟音とともに、無数の重い図書が雨のように降ってくる。
視界が真っ暗になり、強い圧迫感と紙と鉄の匂いが全身を包み込んだ。
けれど、わたしにはどこも痛みがなかった。
律が背中を丸め、覆いかぶさるようにして、わたしをその腕の中に固く抱きしめてくれていたからだ。
「つ……紬……無事か……!?」
「律……!? 律、大丈夫なの!?」
埃が舞い散る暗闇の中で、わたしは彼の制服の胸元を握りしめながら叫んだ。
律の荒い息遣いが、すぐ耳元で聞こえる。ゆっくりと背上の重みが引いていくのを感じて見上げると、律が腕の力だけで、自分とわたしを押し潰そうとしていた巨大なスチール製の本棚を持ちこたえていた。
「はぁ……はぁ……なんとか、背中の本棚は……引っかかった……」
本棚は完全に倒れ切る前に、向かいの閲覧机に斜めに引っかかり、奇跡的にできたわずかな「三角の隙間」がわたし達を守っていた。
「よかった……! 律、早くここから抜け出そう!」
わたしは這い出ようと手を伸ばした。けれど、律はぴくりとも動かない。
それどころか、彼の顔からはみるみる血の気が引いていき、額から脂汗がポタポタと落ちていた。
「……無理だ」
「え……?」
「脚が……抜けない。倒れてきた別の本棚に……挟まれて……動かせねえ」
「嘘……っ!?」
目線を下に向けると、厚さ十センチ以上もある百科事典の山と、倒れた木製本棚の角が、律の右足を無慈悲に押し潰していた。
「待って、今退けるから! すぐ退けるから……っ!」
わたしは無我夢中で本棚の下に潜り込み、積み重なった重い百科事典を何冊も何冊も放り投げた。爪が割れ、指先から血が滲むのも構わず、必死で木製棚を引き上げようとする。
けれど、何十キロもある重みは、華奢なわたしの力ではビクともしなかった。
「はぁ、はぁ……っ! なんで……なんでなのよ!!」
悔しさと恐怖で、視界が涙でぐしゃぐしゃになる。
図書室なら安全なはずだった。
鍵をかけ、誰も入れないようにして、二人だけで閉じこもっていれば、危険な事故なんて起きようがないはずだったのに。
なのに、どうして校舎の老朽化なんていう思いもよらないトラブルが起きるの!?
「お願いだから動いてよ……! 律を連れて逃げなきゃいけないの! あと少しで5時になっちゃうのよ!!」
声を限りに叫びながら、木製棚に体ごとぶつかって持ち上げようとした。
そのとき——
メリメリメリッ……グラッ!
足元から、不気味な地鳴りのような音が響いた。
床を覆うビニールクロスに大きな亀裂が走り、メキメキと木材が裂ける音が広がる。
「な……に……?」
見下ろすと、床板がV字に歪んでいた。
崩れ落ちた数百冊の重い本と、数台の鋼鉄製本棚。その一箇所に集中した重量に、古くなった三階の床の梁が耐えきれず、限界を迎えていたのだ。
バチバチッ!
頭上の天井から火花が散った。老朽化した配線が断線し、火花が落ちた古いカーテンと散らばった用紙に一瞬で火が燃え移る。
橙色の夕暮れの世界が、一転して赤い炎と黒煙の地獄へと変わり始めた。
「ゴホッ、ゴホッ……! 紬、やめろ……もういい!」
煙が充満する中、律が弱々しくわたしの手首を掴んだ。
その手はひどく冷たかった。
「よくない! 全然よくないよ! ここから出なきゃ、ふたりとも燃えちゃ……っ!」
「紬……逃げろ。お前だけでも……ここから抜け出せ……」
「嫌だ!! 嫌、嫌、絶対に嫌! 律を置いて逃げるくらいなら、わたしもここで——」
「バカ言んじゃねえ!!」
律が、事故が起きてから一度も見せたことのないような激しい声で怒鳴った。
茶色い瞳に、炎の揺らめきと強い光が宿っている。
「お前が死んでどうすんだよ! 意味ねえだろ……そんなの、何の意味もねえだろ……っ!」
「り……つ……?」
律の言葉の異様さに、わたしは言葉を失った。
何の意味もない?
わたしが死んだら、意味がない?
(どうして……? 律を救うためにわたしが頑張ってるのに、なんでそんな言い方をするの……?)
混乱する頭を置き去りにして、床の崩落はさらに加速していく。
ミシッ……ガガガッ!
四時五十八分。
あと二分。
「紬……近寄れ」
律が荒い息を吐きながら、手招きをした。
わたしが泣きながら顔を近づけると、律はわたしの首元にそっと手を回し、額と額をこつんと押し当てた。
「律……?」
「……ごめんな。今回も……助けてやれなくて」
——ドクン!
心臓が、跳ね上がるどころか、一瞬完全に停止したような感覚がした。
今回『も』?
「律……? いま……なんて……言ったの……?」
声が震えて、上手く出ない。
律は悲しそうに、けれど今まで見たこともないほど愛おしそうな目で、わたしを見つめていた。
「ドアの前……重いブックワゴンで塞いだろ。出入り口から逃げるのは……無理だ。でも……あっちの窓際なら、まだ床が抜けてねえ……」
(え……?)
背筋に、氷を突きつけられたような戦慄が走る。
律は、ずっと奥の閲覧席にいたはずだ。
わたしがドアに鍵をかけ、廊下にあったブックワゴンを一人で動かしてドアを塞いだところなんて、絶対に見ているはずがないのだ。
なのに、どうして知っているの……?
「律……きみ……まさか……」
問いかけようとした、その瞬間だった。
ドドドドドカンッ!!!!
凄まじい破壊音とともに、律の足元の床が完全に抜け落ちた。
二階の吹き抜けに向かって、大量の本棚と瓦礫、そして炎が崩れ落ちていく。
「律ーーーっ!!」
わたしが手を伸ばすより早く、律は残された最後の力を振り絞り、わたしを安全な窓際の床へと強く押し投げた。
「きゃあっ!」
ドサリと固い床に倒れ込む。
振り向いた視線の先で、律の体が、崩れ去る床の穴の中へと引きずり込まれていくのが見えた。
黒煙と炎の中、落下していく律。
四時五十九分。
その間際、彼は泣きじゃくるわたしに向かって、口元だけでそっと言葉を紡いだ。
——『また、次の放課後で合おうな。紬』
「あ…………」
指先から、ポロリと真鍮の懐中時計がこぼれ落ちた。
律も。
律も——タイムリープしていた。
わたしが律を救おうとしていた100回と同じように。
律もまた、わたしを救うために『あの日』をやり直していたんだ——!
低い苦悶の声が、頭上から降ってきた。
ドガガガガアンッ! という耳をつんざくような轟音とともに、無数の重い図書が雨のように降ってくる。
視界が真っ暗になり、強い圧迫感と紙と鉄の匂いが全身を包み込んだ。
けれど、わたしにはどこも痛みがなかった。
律が背中を丸め、覆いかぶさるようにして、わたしをその腕の中に固く抱きしめてくれていたからだ。
「つ……紬……無事か……!?」
「律……!? 律、大丈夫なの!?」
埃が舞い散る暗闇の中で、わたしは彼の制服の胸元を握りしめながら叫んだ。
律の荒い息遣いが、すぐ耳元で聞こえる。ゆっくりと背上の重みが引いていくのを感じて見上げると、律が腕の力だけで、自分とわたしを押し潰そうとしていた巨大なスチール製の本棚を持ちこたえていた。
「はぁ……はぁ……なんとか、背中の本棚は……引っかかった……」
本棚は完全に倒れ切る前に、向かいの閲覧机に斜めに引っかかり、奇跡的にできたわずかな「三角の隙間」がわたし達を守っていた。
「よかった……! 律、早くここから抜け出そう!」
わたしは這い出ようと手を伸ばした。けれど、律はぴくりとも動かない。
それどころか、彼の顔からはみるみる血の気が引いていき、額から脂汗がポタポタと落ちていた。
「……無理だ」
「え……?」
「脚が……抜けない。倒れてきた別の本棚に……挟まれて……動かせねえ」
「嘘……っ!?」
目線を下に向けると、厚さ十センチ以上もある百科事典の山と、倒れた木製本棚の角が、律の右足を無慈悲に押し潰していた。
「待って、今退けるから! すぐ退けるから……っ!」
わたしは無我夢中で本棚の下に潜り込み、積み重なった重い百科事典を何冊も何冊も放り投げた。爪が割れ、指先から血が滲むのも構わず、必死で木製棚を引き上げようとする。
けれど、何十キロもある重みは、華奢なわたしの力ではビクともしなかった。
「はぁ、はぁ……っ! なんで……なんでなのよ!!」
悔しさと恐怖で、視界が涙でぐしゃぐしゃになる。
図書室なら安全なはずだった。
鍵をかけ、誰も入れないようにして、二人だけで閉じこもっていれば、危険な事故なんて起きようがないはずだったのに。
なのに、どうして校舎の老朽化なんていう思いもよらないトラブルが起きるの!?
「お願いだから動いてよ……! 律を連れて逃げなきゃいけないの! あと少しで5時になっちゃうのよ!!」
声を限りに叫びながら、木製棚に体ごとぶつかって持ち上げようとした。
そのとき——
メリメリメリッ……グラッ!
足元から、不気味な地鳴りのような音が響いた。
床を覆うビニールクロスに大きな亀裂が走り、メキメキと木材が裂ける音が広がる。
「な……に……?」
見下ろすと、床板がV字に歪んでいた。
崩れ落ちた数百冊の重い本と、数台の鋼鉄製本棚。その一箇所に集中した重量に、古くなった三階の床の梁が耐えきれず、限界を迎えていたのだ。
バチバチッ!
頭上の天井から火花が散った。老朽化した配線が断線し、火花が落ちた古いカーテンと散らばった用紙に一瞬で火が燃え移る。
橙色の夕暮れの世界が、一転して赤い炎と黒煙の地獄へと変わり始めた。
「ゴホッ、ゴホッ……! 紬、やめろ……もういい!」
煙が充満する中、律が弱々しくわたしの手首を掴んだ。
その手はひどく冷たかった。
「よくない! 全然よくないよ! ここから出なきゃ、ふたりとも燃えちゃ……っ!」
「紬……逃げろ。お前だけでも……ここから抜け出せ……」
「嫌だ!! 嫌、嫌、絶対に嫌! 律を置いて逃げるくらいなら、わたしもここで——」
「バカ言んじゃねえ!!」
律が、事故が起きてから一度も見せたことのないような激しい声で怒鳴った。
茶色い瞳に、炎の揺らめきと強い光が宿っている。
「お前が死んでどうすんだよ! 意味ねえだろ……そんなの、何の意味もねえだろ……っ!」
「り……つ……?」
律の言葉の異様さに、わたしは言葉を失った。
何の意味もない?
わたしが死んだら、意味がない?
(どうして……? 律を救うためにわたしが頑張ってるのに、なんでそんな言い方をするの……?)
混乱する頭を置き去りにして、床の崩落はさらに加速していく。
ミシッ……ガガガッ!
四時五十八分。
あと二分。
「紬……近寄れ」
律が荒い息を吐きながら、手招きをした。
わたしが泣きながら顔を近づけると、律はわたしの首元にそっと手を回し、額と額をこつんと押し当てた。
「律……?」
「……ごめんな。今回も……助けてやれなくて」
——ドクン!
心臓が、跳ね上がるどころか、一瞬完全に停止したような感覚がした。
今回『も』?
「律……? いま……なんて……言ったの……?」
声が震えて、上手く出ない。
律は悲しそうに、けれど今まで見たこともないほど愛おしそうな目で、わたしを見つめていた。
「ドアの前……重いブックワゴンで塞いだろ。出入り口から逃げるのは……無理だ。でも……あっちの窓際なら、まだ床が抜けてねえ……」
(え……?)
背筋に、氷を突きつけられたような戦慄が走る。
律は、ずっと奥の閲覧席にいたはずだ。
わたしがドアに鍵をかけ、廊下にあったブックワゴンを一人で動かしてドアを塞いだところなんて、絶対に見ているはずがないのだ。
なのに、どうして知っているの……?
「律……きみ……まさか……」
問いかけようとした、その瞬間だった。
ドドドドドカンッ!!!!
凄まじい破壊音とともに、律の足元の床が完全に抜け落ちた。
二階の吹き抜けに向かって、大量の本棚と瓦礫、そして炎が崩れ落ちていく。
「律ーーーっ!!」
わたしが手を伸ばすより早く、律は残された最後の力を振り絞り、わたしを安全な窓際の床へと強く押し投げた。
「きゃあっ!」
ドサリと固い床に倒れ込む。
振り向いた視線の先で、律の体が、崩れ去る床の穴の中へと引きずり込まれていくのが見えた。
黒煙と炎の中、落下していく律。
四時五十九分。
その間際、彼は泣きじゃくるわたしに向かって、口元だけでそっと言葉を紡いだ。
——『また、次の放課後で合おうな。紬』
「あ…………」
指先から、ポロリと真鍮の懐中時計がこぼれ落ちた。
律も。
律も——タイムリープしていた。
わたしが律を救おうとしていた100回と同じように。
律もまた、わたしを救うために『あの日』をやり直していたんだ——!