さよならを繰り返す100回目の放課後
第二章:閉じられた図書室の奇跡
ハンカチの布地越しに伝わる、かすかな石鹸の香り。
手のひらの中で握りしめたそれは、つい数分前に律の冷たい指先からこぼれ落ちた感触とは、あまりにも違っていた。
生きている。
いま、わたしの目の前で、瀬名律は確かに息をしている。
(泣いている暇なんてない。落ち込んでいる暇も……絶対にない)
わたしはギュッと目をつぶり、溢れ出そうになる涙を力任せに押し戻した。
101回目の10月15日。午後四時三十分。
残された時間は、あと三十分しかない。
「おいおい、本当に大丈夫かよ? お前、さっきから鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してぞ」
律が心配そうに眉を下げ、わたしの顔を覗き込んでくる。夕日に照らされた彼の茶色い瞳には、何の陰りもない。まるで、あの惨劇が最初から存在しなかったかのように。
(外に出しちゃダメだ……)
脳内で、過去の記憶が目まぐるしく駆け巡る。
一回目は駅前の交差点での暴走トラック。
二回目は歩道橋からの落下物。
三回目は路地裏での倒壊事故。
そして百回目の今日は、風車公園での工事資材の崩落。
街へ出ても、高台へ逃げてもダメだった。運命は、律を殺すためにあらゆる偶然を悪意に変えて襲いかかってくる。どんなに場所を変えても、「事故の時間」である午後五時を迎える前に、世界は律の命を奪うシチュエーションを強制的に作り出してしまうのだ。
(だったら……外に出さなければいい)
閃いた思考に、わたしはしがみついた。
校外へ出れば、車や工事、急なトラブルなど「不可抗力」の危険が多すぎる。けれど、この頑丈な鉄筋コンクリートの校舎の中ならどうだ?
放課後の校内。鍵をかけられる場所。怪しい工事もなければ、暴走する車も入ってこられない絶対の空間。
「……ねえ、律」
「ん? なんだよ」
「今日、図書室の開館日だよね?」
わたしは顔を上げ、努めて自然な笑顔を作った。
「図書室? ああ……確か、毎週水曜は五時半まで開いてるはずだけど」
「わたし、今日どうしても借りたい本があるの。一緒に来てくれない? 読み終わるまで、静かに付き合ってほしいの!」
律は「は?」と怪訝そうな声を上げた。
「本? お前が図書室なんて珍しいじゃん。……っていうか、なんで俺も一緒なんだよ。俺、活字読むと三分で眠くなるんだけど」
「いいから! 一人は退屈なの。お願い、律。放課後、わたしと一緒にいて」
まっすぐ彼を見つめて頼み込むと、律はバツが悪そうに視線を泳がせ、ポリポリと頬をかいた。
「……ったく。お前、今日はなんかやたら強引だな。分かったよ、付き合えばいいんだろ」
よし、と心の中で小さくガッツポーズを作った。
まずは第一段階クリアだ。時計の針は午後四時三十五分を指している。
わたし達はスクールバッグを持ち、静まり返った廊下を歩いて特別校舎の三階にある図書室へと向かった。
窓の外には、茜色に染まる運動場が見える。部活動の掛け声や、吹奏楽部が奏でるトランペットの音が遠くからかすかに響いていた。
(大丈夫。ここなら絶対に安全だ……)
言い聞かせるたびに、胸の奥で真鍮の懐中時計が重たく主張している気がした。
100回繰り返して分かったことがある。運命は巧妙だ。だが、物理的に手出しができない閉鎖空間を作れば、流石の運命も手詰まりになるはずだ。
「失礼しまーす……」
ガラガラと木製の重い引き戸を開けると、紙とインクの独特な匂いが鼻をくすぐった。
西日が差し込む図書室には、人の気配がなかった。カウンターにも図書委員の姿はなく、「席を外しています」という小さなプレートが立てかけられている。
「誰もいねえな。ラッキーなのか何なのか……」
律が呟きながら、一番奥の閲覧席へと歩いていく。壁一面が大きな本棚で囲まれた、小さな個室のようなスペースだ。大きな窓からはオレンジ色の斜光が差し込み、宙を舞う小さなホコリをキラキラと光らせていた。
わたしは律の向かい側の席に座り、スクールバッグを置いた。
時計の針は、午後四時四十分。
「で? 何の本探すんだよ。手伝ってやろーか?」
「ううん、大丈夫! わたし、ちょっとあっちの棚見てくるから、律はここで待ってて!」
わたしは律を席に残し、図書室の出入口へと向かった。
そして——静かに、引き戸を閉めた。
ガラガラ……カチャリ。
内側から鍵をかける。この図書室のドアは、内側から小さな鍵を回せばロックがかかる仕組みになっている。
さらに、万全を期すためにドアの近くにあった重い木製の返却ブックワゴンを引き寄せ、ドアの前にあてがった。
(これでよし……! 誰も入ってこられないし、律も突然外に飛び出せない)
ふう、と深く息を吐き出す。
これで完璧だ。鍵をかけ、出入口を塞いだ。窓は三階の高所だから飛び降りる心配もない。午後五時を過ぎるまでのあと二十分間、この部屋でじっと過ごせば、運命は律の手を引く術を失う。
「おい、紬? なんか物音がしたけど、何してんだ?」
奥の棚の陰から、律が首をかしげて戻ってきた。わたしは慌てて何でもない風を装い、彼の元へと駆け寄る。
「なんでもないよ! ちょっとドアの建てつけが悪かったみたいで」
「ふーん……? 変な奴」
律は怪しみながらも、それ以上は追及せず、木製の椅子に深々と腰掛けた。
わたしも彼の向かいに座る。机挟んで見つめ合う形になり、なんだか急に静寂が重く感じられた。
四時四十五分。
あと、十五分。
「なあ、紬」
「な、なに!?」
過剰に反応してしまったわたしに、律はクスッと小さく笑った。
「そんなビビんなって。……お前さ、転校してきたばかりの俺に、一番最初に話しかけてくれたよな」
「え……? うん、そうだけど」
突然の思い出話に、わたしは目を丸くした。
「あの時、なんで俺なんかに話しかけたんだ? 俺、自分でも分かるくらいトゲトゲしてただろ。前の学校でいろいろあってさ、誰も寄せ付けないオーラ出しまくってたのに」
律は窓の外の夕空を見つめながら、ぽつりと呟いた。彼の側顔が、夕日に照らされてどこか切なく陰っている。
「……だって、律、寂しそうな顔してたから」
「俺が?」
「うん。それに……校舎の裏で、捨て猫に自分の焼きそばパン分けてあげてるの見ちゃったし」
「っ!? お前、あれ見てたのかよ!?」
律の顔が一瞬で真っ赤になった。照れ隠しに手で顔を覆う姿が可愛くて、わたしは思わずクスッと笑ってしまう。
「見てたよ。だから『あ、この人見た目はちょっと怖そうだけど、本当はすごく優しい人なんだな』って分かったの。だから、友達になりたいなって思って」
「……お前さ、ホントお人好しっていうか、警戒心なさすぎるっていうか……」
律は困ったように眉をひそめたけれど、その手隙から覗く瞳はとても温かかった。
「でも……サンキュな」
「え?」
「お前が話しかけてくれたおかげで、俺、この街に来て良かったって思えたんだ。モノクロだった毎日が、急に明るくなったみたいでさ」
ドクン、と胸が大きく鳴った。
それは、わたしがずっと心の中で彼に対して抱いていた感情と、まったく同じ言葉だったから。
わたし達は同じだったんだ。お互いが出会ったことで、世界に色がついたんだ。
四時五十分。
あと、十分。
「……律」
「ん?」
「わたしね、律のこと——」
言いかけた、その時だった。
カチャ……ガタガタガタッ!
図書室の出入口の方から、不穏な金属音が響いた。
誰かが外から鍵を開けようとしている音ではない。ドアの枠そのものが、まるで外からの強い圧力に押し潰されるように、ギシギシと悲鳴を上げている音だ。
「……なんだ? 今の音」
律が立ち上がろうとした。
「ダメ! 動かないで!」
わたしは思わず律の手を強く握りしめた。冷や汗が背中を伝う。
(なちなの……? ドアは鍵をかけたし、ワゴンも置いたのに……!)
ミシッ……メリメリッ!
音が大きくなる。図書室の奥にある巨大な本棚群が、まるで地震でも起きたかのようにカタカタと揺れ始めた。
壁に打ち付けられた古い柱が、夕日の光の中で歪んでいく。
(まさか……『校舎の老朽化』……!?)
血の気が引いた。
図書室は特別校舎の三階。数年前から耐震補強の工事が噂されていた、学校で一番古い木造混成のフロアだ。
運命は、外から事故を持ち込めないなら——この部屋そのものを崩壊させようとしている。
「紬、危ない! 本棚が落ちてくるぞ!」
律が叫び、わたしを庇うように抱き寄せた瞬間、頭上の巨大なスチール製本棚が、大量の図書を撒き散らしながらわたし達に向かって倒れ込んできた。
四時五十二分。
安全だと思っていた密室が、一瞬で死の檻へと変貌する。
手のひらの中で握りしめたそれは、つい数分前に律の冷たい指先からこぼれ落ちた感触とは、あまりにも違っていた。
生きている。
いま、わたしの目の前で、瀬名律は確かに息をしている。
(泣いている暇なんてない。落ち込んでいる暇も……絶対にない)
わたしはギュッと目をつぶり、溢れ出そうになる涙を力任せに押し戻した。
101回目の10月15日。午後四時三十分。
残された時間は、あと三十分しかない。
「おいおい、本当に大丈夫かよ? お前、さっきから鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してぞ」
律が心配そうに眉を下げ、わたしの顔を覗き込んでくる。夕日に照らされた彼の茶色い瞳には、何の陰りもない。まるで、あの惨劇が最初から存在しなかったかのように。
(外に出しちゃダメだ……)
脳内で、過去の記憶が目まぐるしく駆け巡る。
一回目は駅前の交差点での暴走トラック。
二回目は歩道橋からの落下物。
三回目は路地裏での倒壊事故。
そして百回目の今日は、風車公園での工事資材の崩落。
街へ出ても、高台へ逃げてもダメだった。運命は、律を殺すためにあらゆる偶然を悪意に変えて襲いかかってくる。どんなに場所を変えても、「事故の時間」である午後五時を迎える前に、世界は律の命を奪うシチュエーションを強制的に作り出してしまうのだ。
(だったら……外に出さなければいい)
閃いた思考に、わたしはしがみついた。
校外へ出れば、車や工事、急なトラブルなど「不可抗力」の危険が多すぎる。けれど、この頑丈な鉄筋コンクリートの校舎の中ならどうだ?
放課後の校内。鍵をかけられる場所。怪しい工事もなければ、暴走する車も入ってこられない絶対の空間。
「……ねえ、律」
「ん? なんだよ」
「今日、図書室の開館日だよね?」
わたしは顔を上げ、努めて自然な笑顔を作った。
「図書室? ああ……確か、毎週水曜は五時半まで開いてるはずだけど」
「わたし、今日どうしても借りたい本があるの。一緒に来てくれない? 読み終わるまで、静かに付き合ってほしいの!」
律は「は?」と怪訝そうな声を上げた。
「本? お前が図書室なんて珍しいじゃん。……っていうか、なんで俺も一緒なんだよ。俺、活字読むと三分で眠くなるんだけど」
「いいから! 一人は退屈なの。お願い、律。放課後、わたしと一緒にいて」
まっすぐ彼を見つめて頼み込むと、律はバツが悪そうに視線を泳がせ、ポリポリと頬をかいた。
「……ったく。お前、今日はなんかやたら強引だな。分かったよ、付き合えばいいんだろ」
よし、と心の中で小さくガッツポーズを作った。
まずは第一段階クリアだ。時計の針は午後四時三十五分を指している。
わたし達はスクールバッグを持ち、静まり返った廊下を歩いて特別校舎の三階にある図書室へと向かった。
窓の外には、茜色に染まる運動場が見える。部活動の掛け声や、吹奏楽部が奏でるトランペットの音が遠くからかすかに響いていた。
(大丈夫。ここなら絶対に安全だ……)
言い聞かせるたびに、胸の奥で真鍮の懐中時計が重たく主張している気がした。
100回繰り返して分かったことがある。運命は巧妙だ。だが、物理的に手出しができない閉鎖空間を作れば、流石の運命も手詰まりになるはずだ。
「失礼しまーす……」
ガラガラと木製の重い引き戸を開けると、紙とインクの独特な匂いが鼻をくすぐった。
西日が差し込む図書室には、人の気配がなかった。カウンターにも図書委員の姿はなく、「席を外しています」という小さなプレートが立てかけられている。
「誰もいねえな。ラッキーなのか何なのか……」
律が呟きながら、一番奥の閲覧席へと歩いていく。壁一面が大きな本棚で囲まれた、小さな個室のようなスペースだ。大きな窓からはオレンジ色の斜光が差し込み、宙を舞う小さなホコリをキラキラと光らせていた。
わたしは律の向かい側の席に座り、スクールバッグを置いた。
時計の針は、午後四時四十分。
「で? 何の本探すんだよ。手伝ってやろーか?」
「ううん、大丈夫! わたし、ちょっとあっちの棚見てくるから、律はここで待ってて!」
わたしは律を席に残し、図書室の出入口へと向かった。
そして——静かに、引き戸を閉めた。
ガラガラ……カチャリ。
内側から鍵をかける。この図書室のドアは、内側から小さな鍵を回せばロックがかかる仕組みになっている。
さらに、万全を期すためにドアの近くにあった重い木製の返却ブックワゴンを引き寄せ、ドアの前にあてがった。
(これでよし……! 誰も入ってこられないし、律も突然外に飛び出せない)
ふう、と深く息を吐き出す。
これで完璧だ。鍵をかけ、出入口を塞いだ。窓は三階の高所だから飛び降りる心配もない。午後五時を過ぎるまでのあと二十分間、この部屋でじっと過ごせば、運命は律の手を引く術を失う。
「おい、紬? なんか物音がしたけど、何してんだ?」
奥の棚の陰から、律が首をかしげて戻ってきた。わたしは慌てて何でもない風を装い、彼の元へと駆け寄る。
「なんでもないよ! ちょっとドアの建てつけが悪かったみたいで」
「ふーん……? 変な奴」
律は怪しみながらも、それ以上は追及せず、木製の椅子に深々と腰掛けた。
わたしも彼の向かいに座る。机挟んで見つめ合う形になり、なんだか急に静寂が重く感じられた。
四時四十五分。
あと、十五分。
「なあ、紬」
「な、なに!?」
過剰に反応してしまったわたしに、律はクスッと小さく笑った。
「そんなビビんなって。……お前さ、転校してきたばかりの俺に、一番最初に話しかけてくれたよな」
「え……? うん、そうだけど」
突然の思い出話に、わたしは目を丸くした。
「あの時、なんで俺なんかに話しかけたんだ? 俺、自分でも分かるくらいトゲトゲしてただろ。前の学校でいろいろあってさ、誰も寄せ付けないオーラ出しまくってたのに」
律は窓の外の夕空を見つめながら、ぽつりと呟いた。彼の側顔が、夕日に照らされてどこか切なく陰っている。
「……だって、律、寂しそうな顔してたから」
「俺が?」
「うん。それに……校舎の裏で、捨て猫に自分の焼きそばパン分けてあげてるの見ちゃったし」
「っ!? お前、あれ見てたのかよ!?」
律の顔が一瞬で真っ赤になった。照れ隠しに手で顔を覆う姿が可愛くて、わたしは思わずクスッと笑ってしまう。
「見てたよ。だから『あ、この人見た目はちょっと怖そうだけど、本当はすごく優しい人なんだな』って分かったの。だから、友達になりたいなって思って」
「……お前さ、ホントお人好しっていうか、警戒心なさすぎるっていうか……」
律は困ったように眉をひそめたけれど、その手隙から覗く瞳はとても温かかった。
「でも……サンキュな」
「え?」
「お前が話しかけてくれたおかげで、俺、この街に来て良かったって思えたんだ。モノクロだった毎日が、急に明るくなったみたいでさ」
ドクン、と胸が大きく鳴った。
それは、わたしがずっと心の中で彼に対して抱いていた感情と、まったく同じ言葉だったから。
わたし達は同じだったんだ。お互いが出会ったことで、世界に色がついたんだ。
四時五十分。
あと、十分。
「……律」
「ん?」
「わたしね、律のこと——」
言いかけた、その時だった。
カチャ……ガタガタガタッ!
図書室の出入口の方から、不穏な金属音が響いた。
誰かが外から鍵を開けようとしている音ではない。ドアの枠そのものが、まるで外からの強い圧力に押し潰されるように、ギシギシと悲鳴を上げている音だ。
「……なんだ? 今の音」
律が立ち上がろうとした。
「ダメ! 動かないで!」
わたしは思わず律の手を強く握りしめた。冷や汗が背中を伝う。
(なちなの……? ドアは鍵をかけたし、ワゴンも置いたのに……!)
ミシッ……メリメリッ!
音が大きくなる。図書室の奥にある巨大な本棚群が、まるで地震でも起きたかのようにカタカタと揺れ始めた。
壁に打ち付けられた古い柱が、夕日の光の中で歪んでいく。
(まさか……『校舎の老朽化』……!?)
血の気が引いた。
図書室は特別校舎の三階。数年前から耐震補強の工事が噂されていた、学校で一番古い木造混成のフロアだ。
運命は、外から事故を持ち込めないなら——この部屋そのものを崩壊させようとしている。
「紬、危ない! 本棚が落ちてくるぞ!」
律が叫び、わたしを庇うように抱き寄せた瞬間、頭上の巨大なスチール製本棚が、大量の図書を撒き散らしながらわたし達に向かって倒れ込んできた。
四時五十二分。
安全だと思っていた密室が、一瞬で死の檻へと変貌する。