雪月公は菫の花に微笑む

プロローグ

 ヴィオラ・カルネットが帝国騎士団史上初の女性参謀官に任じられてから、まだそれほど日は経っていなかった。

 軍府の廊下を歩けば視線が集まり、執務室へ入れば彼女の肩章を確かめるように目を細める者がいる。好奇もあれば不信もあり、女に兵の命を預けられるものかという露骨な反感さえあったが、ヴィオラはそのどれにも足を止めなかった。

 辞令はすでに下りている。ならば、言葉で納得させるより仕事で黙らせる方が早い。

「本日の確認事項です。第三騎士隊の巡回経路、第六騎士隊の補給申請、それから北方軍需記録の定期照合が」

「北方記録を先に。直近半年分の補給申請と、財務側の支出記録、街道の通行証控えも出してください」

 書類を抱えた若い騎士が目を瞬かせた。

「半年分、すべてですか?」

「はい。数字は一枚で見るより、並べた方が嘘をつきにくいので」

 若い騎士が慌てて出ていくと、部屋の奥から小さな笑いが聞こえた。

 随分と細かい、と年嵩の騎士が呆れたように言う。
 ヴィオラは顔を上げず、届いたばかりの報告書に目を通した。

「細かいことを見落として兵を死なせるよりはましです」

 それきり、笑い声は止んだ。
 戦場とは、剣を交える場所だけを指すのではない。兵糧の数、馬の蹄鉄、雪で閉ざされる街道、補給車の車輪、誰をどこへ置き、何日分の食料を持たせ、どの道を退路として残すのか。地図の上に美しい矢印を引く前に、その矢印が通る道の泥の深さまで知らなければならない。

 東の辺境で育ったヴィオラは、机上の小さな見落としが、遠い土地では人の死に変わることを知っていた。
< 1 / 17 >

この作品をシェア

pagetop