『サレ妻の日常謎解き録 〜浮気夫の嘘、すべて解明いたしました〜』

第一の謎:消えた1,500円の高級発酵バター

 我が家の冷蔵庫は、いつだって幾何学的な美しさを保っている。

 一番上の棚には味噌と納豆。二段目には常備菜のタッパーがミリ単位で並び、ドアポケットの調味料はラベルの向きまで揃えてある。

 インテリアメーカーで企画開発の仕事をしている私――深山杏奈(みやま あんな)にとって、生活の乱れを整えることは趣味であり、一種の快楽でもあった。

「杏奈、今日のポトフも美味いよ。やっぱり君の料理が一番落ち着くな」

 ダイニングテーブルの向かいで、夫の翔太がスプーンを動かしながら、満足そうに目を細めている。

「ありがとう。隠し味に、少しだけ発酵バターを入れているの」

「へえ、さすがだなあ」

 能天気に笑う翔太の顔を見つめながら、私は完璧な角度で微笑みを返した。

(嘘がお下手ね、翔太さん)

 心の中でそっと呟く。疑問を感じたときの癖で、右手の人差し指が小さく顎をトントンと叩いた。

 翔太は「発酵バター」という言葉を聞いても、まったく動揺しなかった。

 それもそのはずだ。

 先週、私が自分へのご褒美として買ったフランス製の高級発酵バター――百グラムで千五百円もする代物は、昨日の時点で跡形もなく消えていたのだから。

 私がポトフに使ったのは、箱の隅に残っていた特売のマーガリンだ。

 しかも、バターの容器が捨てられていたゴミ箱には、見覚えのない小さな焼き菓子の包み紙までが残されていた。

 翔太は甘いものを好まない。けれど、その包み紙からは、彼の袖口に漂っていたものと同じ、甘く香ばしい匂いがした。

「そういえば翔太、最近忙しいみたいね。水曜日はいつも残業で遅いし」

「ああ、うん……。新しいプロジェクトの営業が厳しくてさ。後輩の指導もしなきゃならないし、俺が残って面倒見てやってんだよ」

 翔太はポトフのスープを飲み込みながら、視線をわずかに右下へ落とした。

 右下へ視線をそらすのは、彼があらかじめ用意した言い訳を脳内で再生するときの、分かりやすい癖だった。

「大変ね。身体、壊さないでね」

「おう、心配すんなって。あ、明日もちょっと遅くなるかも」

「分かったわ。何か温かいものでも作って待っているわね」

 私は優しく微笑み、空になった彼の皿を下げた。

 水曜日の残業。
 右下へ逃げた視線。
 彼の袖口から漂う、かすかな焼き菓子の甘い香り。
 冷蔵庫から消えた高級バターと、ゴミ箱に残された包み紙。

 まだ断片にすぎない。けれど、同じ曜日に繰り返される不自然な出来事は、偶然では片づけられなかった。

 パズルのピースが確実にひとつずつ組み上がっていく。
< 1 / 9 >

この作品をシェア

pagetop