琥珀色の独占欲
## 第1話 瑠璃色の放課後
四月の終わりだった。
体育館の床が
スニーカーの底できゅっと鳴る。
スピーカーから流れるビート。
鏡張りの壁に
二十人分の影が揃って揺れていた。
琥珀(こはく)はその真ん中にいた。
ターン。
着地。
腕を振り上げる。
音が止まる。
一拍遅れて
体育館の入口のほうから
小さな歓声が上がった。
見学の女の子たちだった。
新学期が始まってから
毎日のように増えている。
琥珀は汗を拭いながら
いつものように笑って手を振った。
歓声が少しだけ大きくなった。
「琥珀」
部長の声がした。
三年の先輩が
丸めた紙を肩に担いで歩いてくる。
「悪い。美術部行ってきてくんない」
「美術部?」
「新歓ステージの背景。描いてもらえないか頼んできて。部長の名前、ここ書いてあるから」
紙を押しつけられる。
「なんで俺」
「お前が行ったら断られないだろ」
部長はにやりと笑った。
琥珀は小さくため息をついて
タオルを首にかけた。
美術室は
北校舎の三階の一番端にあった。
渡り廊下を抜けると
体育館の喧騒が
嘘のように遠のいていく。
放課後の北校舎は静かだった。
誰かの上履きの音が
どこかで一度だけ響いて消えた。
階段を上る。
廊下の突き当たり。
美術室の扉が
半分だけ開いていた。
中から
知らない匂いがした。
油のような。
木のような。
少しだけ鼻の奥につんとくる匂い。
琥珀は扉に手をかけて
止まった。
窓際に
女の子が一人座っていた。
イーゼルの前。
背中を少しだけ丸めて。
細い筆を持った右手が
キャンバスの上で
ゆっくりと動いていた。
西日が
窓から斜めに差しこんでいた。
光が
教室の床を
机を
彼女の髪を
琥珀色に染めていた。
キャンバスの上は
青だった。
一色ではなかった。
深い青。
淡い青。
灰色がかった青。
夜明け前の空のような
何層にも重なった青。
彼女は
その青の中に
また一筆
新しい青を置いた。
琥珀は動けなかった。
扉に手をかけたまま。
息をするのも忘れて。
彼女は気づかなかった。
琥珀がそこにいることに。
体育館の歓声も
見学の女の子たちも
誰も知らない場所で
彼女は一人で
青と向き合っていた。
それが
たまらなく
きれいだと思った。
絵が。
光が。
筆を持つ指先が。
少しだけ唇を噛んで
キャンバスを睨む横顔が。
全部。
どれくらいそうしていたのかわからない。
廊下の窓の外で
カラスが一羽鳴いた。
彼女の筆が止まった。
ゆっくりと振り返る。
目が合った。
「……何か用ですか」
静かな声だった。
驚いた様子もなかった。
ただ
少しだけ迷惑そうだった。
琥珀は
言葉を探した。
いつもなら
何も考えなくても出てくる言葉が
一つも出てこなかった。
「あ」
間抜けな声が出た。
「えっと。ダンス部の」
手の中の紙を思い出す。
慌てて広げる。
「美術部の部長さんに、お願いがあって」
「部長は今日、休みです」
彼女は筆を持ったまま言った。
「明日なら、いると思います」
「そっか」
「はい」
それで終わりだった。
彼女はまたキャンバスに向き直った。
琥珀のことなど
もう忘れたように。
琥珀は
その背中を見ていた。
帰らなければと思った。
用事は済んだ。
いや。
済んでいない。
でも今日はもう済まない。
帰るべきだった。
足が動かなかった。
「……それ」
口が勝手に動いていた。
彼女の筆が止まる。
「何描いてるの」
彼女は少しだけ振り返った。
眉がわずかに寄っていた。
「……空です」
「空」
「朝の。夜が明ける前の」
琥珀はキャンバスを見た。
言われてみれば
確かに空だった。
まだ太陽の出ていない
一番暗くて
一番静かな時間の空。
「きれいだね」
本心だった。
彼女は何も言わなかった。
ただ
ほんの一瞬だけ
琥珀の顔を見た。
じっと。
何かを確かめるように。
それからまた
キャンバスに目を戻した。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
琥珀の心臓が
一度だけ大きく跳ねた。
イーゼルの脚に
小さな紙が貼ってあった。
美術部の
作品管理のためのものらしい。
鉛筆で書かれた名前。
二年五組。
冴木瑠璃(さえき るり)
るり。
琥珀はその名前を
口の中で転がした。
瑠璃。
青い石の名前。
キャンバスの青と
同じ色の名前だった。
「冴木さん」
呼ぶと
彼女の肩がぴくりと揺れた。
振り返る。
今度ははっきりと
警戒の色が浮かんでいた。
「……なんで名前」
「そこ。書いてあった」
琥珀がイーゼルの脚を指さす。
彼女はそれを見て
小さく息を吐いた。
「俺、鏡琥珀。二年二組」
名乗った。
たいていの人は
ここで表情が変わる。
ああ、あの。
ダンス部の。
そういう顔をする。
彼女は変わらなかった。
知らないのかもしれなかった。
知っていて
興味がないのかもしれなかった。
どちらでも
構わなかった。
「……こはく」
彼女が言った。
ゆっくりと。
それから
ふと窓の外を見た。
西日が
さっきより少しだけ低くなっていた。
教室の中が
とろりとした光で満ちていた。
「琥珀色ですね」
独り言のような声だった。
「今の、光」
琥珀は窓の外を見た。
それから
教室の床を見た。
机を。
彼女の髪を。
全部が
琥珀色だった。
自分の名前と
同じ色だった。
今まで
何百回と呼ばれてきた名前だった。
体育館で。
教室で。
廊下で。
歓声の中で。
でも
その名前を
色として呼ばれたのは
初めてだった。
「……うん」
琥珀は笑った。
いつもの
誰にでも向ける笑顔ではなかった。
自分でも
どんな顔をしているのか
わからなかった。
「冴木さんのも、色の名前だね」
彼女が瞬いた。
「瑠璃色」
琥珀はキャンバスを指さした。
「その絵の色」
彼女は何も言わなかった。
ただ
キャンバスの青を
少しだけ長く見つめた。
「……部長には、明日伝えておきます」
背中を向けたまま
彼女が言った。
帰れ、という意味だとわかった。
琥珀は
素直に頷いた。
「ありがとう」
扉に手をかける。
振り返る。
彼女はもう
筆を動かしていた。
琥珀のことなど
見ていなかった。
それでもよかった。
「また来るね」
返事はなかった。
琥珀は扉を閉めた。
体育館に戻ると
部長が待っていた。
「どうだった」
「部長さん、今日休みだって。明日また行く」
「悪いな」
「いいよ」
即答だった。
部長が少しだけ首を傾げた。
「……明日も、俺が行く」
「え、いいの?」
「いい。俺が行く」
練習が再開した。
スピーカーからビートが流れる。
琥珀は踊った。
いつものように。
体は覚えていた。
でも
頭の中には
ずっと
青があった。
深い青。
淡い青。
灰色がかった青。
その前で
少しだけ唇を噛んでいた横顔。
「琥珀、ずれてる!」
部長の声が飛んだ。
我に返る。
鏡の中の自分だけが
半拍遅れていた。
見学の女の子たちが
くすくすと笑っていた。
琥珀は頭を掻いた。
いつものように笑って
手を振った。
でも
その笑顔の奥で
心臓が
まだ
うるさかった。
その夜。
琥珀はベッドに仰向けになって
天井を見上げていた。
眠れなかった。
スマートフォンで
「瑠璃」を検索した。
青い石。
ラピスラズリ。
古くから
絵具の原料にされてきた石。
夜明け前の空の色。
画面を消す。
目を閉じる。
瞼の裏に
琥珀色の光の中で
瑠璃色を塗る
彼女の指先が浮かんだ。
「琥珀色ですね」
あの声。
静かで
少しだけ迷惑そうで
でも
窓の外を見るときだけ
ほんの少し柔らかかった声。
琥珀は枕に顔を埋めた。
好きだと思った。
たった一度。
十五分にも満たない時間で。
名前しか知らないのに。
笑った顔も
見たことがないのに。
好きだと思った。
こんなのは
初めてだった。
琥珀は枕から顔を上げた。
天井を見る。
明日も
あの美術室に行こう。
部長の用事がなくても。
明後日も。
その次も。
彼女が
振り返ってくれるまで。
名前を
呼んでくれるまで。
窓の外で
四月の夜風が
カーテンを揺らしていた。
四月の終わりだった。
体育館の床が
スニーカーの底できゅっと鳴る。
スピーカーから流れるビート。
鏡張りの壁に
二十人分の影が揃って揺れていた。
琥珀(こはく)はその真ん中にいた。
ターン。
着地。
腕を振り上げる。
音が止まる。
一拍遅れて
体育館の入口のほうから
小さな歓声が上がった。
見学の女の子たちだった。
新学期が始まってから
毎日のように増えている。
琥珀は汗を拭いながら
いつものように笑って手を振った。
歓声が少しだけ大きくなった。
「琥珀」
部長の声がした。
三年の先輩が
丸めた紙を肩に担いで歩いてくる。
「悪い。美術部行ってきてくんない」
「美術部?」
「新歓ステージの背景。描いてもらえないか頼んできて。部長の名前、ここ書いてあるから」
紙を押しつけられる。
「なんで俺」
「お前が行ったら断られないだろ」
部長はにやりと笑った。
琥珀は小さくため息をついて
タオルを首にかけた。
美術室は
北校舎の三階の一番端にあった。
渡り廊下を抜けると
体育館の喧騒が
嘘のように遠のいていく。
放課後の北校舎は静かだった。
誰かの上履きの音が
どこかで一度だけ響いて消えた。
階段を上る。
廊下の突き当たり。
美術室の扉が
半分だけ開いていた。
中から
知らない匂いがした。
油のような。
木のような。
少しだけ鼻の奥につんとくる匂い。
琥珀は扉に手をかけて
止まった。
窓際に
女の子が一人座っていた。
イーゼルの前。
背中を少しだけ丸めて。
細い筆を持った右手が
キャンバスの上で
ゆっくりと動いていた。
西日が
窓から斜めに差しこんでいた。
光が
教室の床を
机を
彼女の髪を
琥珀色に染めていた。
キャンバスの上は
青だった。
一色ではなかった。
深い青。
淡い青。
灰色がかった青。
夜明け前の空のような
何層にも重なった青。
彼女は
その青の中に
また一筆
新しい青を置いた。
琥珀は動けなかった。
扉に手をかけたまま。
息をするのも忘れて。
彼女は気づかなかった。
琥珀がそこにいることに。
体育館の歓声も
見学の女の子たちも
誰も知らない場所で
彼女は一人で
青と向き合っていた。
それが
たまらなく
きれいだと思った。
絵が。
光が。
筆を持つ指先が。
少しだけ唇を噛んで
キャンバスを睨む横顔が。
全部。
どれくらいそうしていたのかわからない。
廊下の窓の外で
カラスが一羽鳴いた。
彼女の筆が止まった。
ゆっくりと振り返る。
目が合った。
「……何か用ですか」
静かな声だった。
驚いた様子もなかった。
ただ
少しだけ迷惑そうだった。
琥珀は
言葉を探した。
いつもなら
何も考えなくても出てくる言葉が
一つも出てこなかった。
「あ」
間抜けな声が出た。
「えっと。ダンス部の」
手の中の紙を思い出す。
慌てて広げる。
「美術部の部長さんに、お願いがあって」
「部長は今日、休みです」
彼女は筆を持ったまま言った。
「明日なら、いると思います」
「そっか」
「はい」
それで終わりだった。
彼女はまたキャンバスに向き直った。
琥珀のことなど
もう忘れたように。
琥珀は
その背中を見ていた。
帰らなければと思った。
用事は済んだ。
いや。
済んでいない。
でも今日はもう済まない。
帰るべきだった。
足が動かなかった。
「……それ」
口が勝手に動いていた。
彼女の筆が止まる。
「何描いてるの」
彼女は少しだけ振り返った。
眉がわずかに寄っていた。
「……空です」
「空」
「朝の。夜が明ける前の」
琥珀はキャンバスを見た。
言われてみれば
確かに空だった。
まだ太陽の出ていない
一番暗くて
一番静かな時間の空。
「きれいだね」
本心だった。
彼女は何も言わなかった。
ただ
ほんの一瞬だけ
琥珀の顔を見た。
じっと。
何かを確かめるように。
それからまた
キャンバスに目を戻した。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
琥珀の心臓が
一度だけ大きく跳ねた。
イーゼルの脚に
小さな紙が貼ってあった。
美術部の
作品管理のためのものらしい。
鉛筆で書かれた名前。
二年五組。
冴木瑠璃(さえき るり)
るり。
琥珀はその名前を
口の中で転がした。
瑠璃。
青い石の名前。
キャンバスの青と
同じ色の名前だった。
「冴木さん」
呼ぶと
彼女の肩がぴくりと揺れた。
振り返る。
今度ははっきりと
警戒の色が浮かんでいた。
「……なんで名前」
「そこ。書いてあった」
琥珀がイーゼルの脚を指さす。
彼女はそれを見て
小さく息を吐いた。
「俺、鏡琥珀。二年二組」
名乗った。
たいていの人は
ここで表情が変わる。
ああ、あの。
ダンス部の。
そういう顔をする。
彼女は変わらなかった。
知らないのかもしれなかった。
知っていて
興味がないのかもしれなかった。
どちらでも
構わなかった。
「……こはく」
彼女が言った。
ゆっくりと。
それから
ふと窓の外を見た。
西日が
さっきより少しだけ低くなっていた。
教室の中が
とろりとした光で満ちていた。
「琥珀色ですね」
独り言のような声だった。
「今の、光」
琥珀は窓の外を見た。
それから
教室の床を見た。
机を。
彼女の髪を。
全部が
琥珀色だった。
自分の名前と
同じ色だった。
今まで
何百回と呼ばれてきた名前だった。
体育館で。
教室で。
廊下で。
歓声の中で。
でも
その名前を
色として呼ばれたのは
初めてだった。
「……うん」
琥珀は笑った。
いつもの
誰にでも向ける笑顔ではなかった。
自分でも
どんな顔をしているのか
わからなかった。
「冴木さんのも、色の名前だね」
彼女が瞬いた。
「瑠璃色」
琥珀はキャンバスを指さした。
「その絵の色」
彼女は何も言わなかった。
ただ
キャンバスの青を
少しだけ長く見つめた。
「……部長には、明日伝えておきます」
背中を向けたまま
彼女が言った。
帰れ、という意味だとわかった。
琥珀は
素直に頷いた。
「ありがとう」
扉に手をかける。
振り返る。
彼女はもう
筆を動かしていた。
琥珀のことなど
見ていなかった。
それでもよかった。
「また来るね」
返事はなかった。
琥珀は扉を閉めた。
体育館に戻ると
部長が待っていた。
「どうだった」
「部長さん、今日休みだって。明日また行く」
「悪いな」
「いいよ」
即答だった。
部長が少しだけ首を傾げた。
「……明日も、俺が行く」
「え、いいの?」
「いい。俺が行く」
練習が再開した。
スピーカーからビートが流れる。
琥珀は踊った。
いつものように。
体は覚えていた。
でも
頭の中には
ずっと
青があった。
深い青。
淡い青。
灰色がかった青。
その前で
少しだけ唇を噛んでいた横顔。
「琥珀、ずれてる!」
部長の声が飛んだ。
我に返る。
鏡の中の自分だけが
半拍遅れていた。
見学の女の子たちが
くすくすと笑っていた。
琥珀は頭を掻いた。
いつものように笑って
手を振った。
でも
その笑顔の奥で
心臓が
まだ
うるさかった。
その夜。
琥珀はベッドに仰向けになって
天井を見上げていた。
眠れなかった。
スマートフォンで
「瑠璃」を検索した。
青い石。
ラピスラズリ。
古くから
絵具の原料にされてきた石。
夜明け前の空の色。
画面を消す。
目を閉じる。
瞼の裏に
琥珀色の光の中で
瑠璃色を塗る
彼女の指先が浮かんだ。
「琥珀色ですね」
あの声。
静かで
少しだけ迷惑そうで
でも
窓の外を見るときだけ
ほんの少し柔らかかった声。
琥珀は枕に顔を埋めた。
好きだと思った。
たった一度。
十五分にも満たない時間で。
名前しか知らないのに。
笑った顔も
見たことがないのに。
好きだと思った。
こんなのは
初めてだった。
琥珀は枕から顔を上げた。
天井を見る。
明日も
あの美術室に行こう。
部長の用事がなくても。
明後日も。
その次も。
彼女が
振り返ってくれるまで。
名前を
呼んでくれるまで。
窓の外で
四月の夜風が
カーテンを揺らしていた。
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