琥珀色の独占欲
## 第2話 チャラい人
次の日も
鏡琥珀は美術室に来た。
放課後の四時過ぎ。
部長が戻っていて
背景画の話はすぐにまとまった。
新歓ステージまで二週間。
三年生の先輩たちが描くことになった。
瑠璃には関係のない話だった。
用事は
それで済んだはずだった。
その次の日も
彼は来た。
「背景、進んでるか見にきた」
背景画のパネルは
準備室の奥に立てかけてあった。
彼はそれを五秒だけ眺めて
それから
瑠璃のイーゼルの横に
丸椅子を引き寄せて座った。
「……背景、あっちですけど」
「うん。見た」
「……」
「冴木さんの絵、見てていい?」
瑠璃は答えなかった。
答えないことを
彼は許可だと受け取ったらしかった。
それから三十分。
彼は黙って座っていた。
ジャージの膝に頬杖をついて。
瑠璃の筆が動くのを
じっと見ていた。
背中がむずむずした。
誰かに見られながら描くのは
慣れていなかった。
五時を回ったところで
彼のスマートフォンが震えた。
「やば。練習」
彼は立ち上がった。
扉のところで振り返る。
「また来るね」
一昨日と
同じ言葉だった。
一週間が経った。
彼は毎日来た。
背景画が完成して
新歓ステージが終わって
口実がなくなっても
来た。
「今日は何の用ですか」
「冴木さんに会いにきた」
さらりと言う。
瑠璃の筆が
キャンバスの上で止まった。
「……そういうの、やめてください」
「なんで」
「困るので」
「困らせたいわけじゃないんだけど」
彼は少しだけ眉を下げた。
それから
鞄から何かを取り出して
瑠璃の机の端に置いた。
紙パックのミルクティー。
「これ、よかったら」
「いりません」
「じゃあ置いとくね」
置いていった。
瑠璃はそれを
最後まで開けなかった。
帰るときも
机の上に置いたままにした。
翌日
美術室に入ると
机の上のミルクティーは
なくなっていた。
代わりに
新しい紙パックが
一つ置いてあった。
今度はレモンティーだった。
付箋が貼ってあった。
「ミルクティー苦手だった?」
瑠璃は
付箋を剥がして
丸めて
ゴミ箱に捨てた。
レモンティーは
また開けなかった。
「瑠璃ちゃん」
十日目。
彼が美術室の扉を開けるなり
そう呼んだ。
瑠璃は振り返った。
自分でも
眉間に皺が寄ったのがわかった。
「……馴れ馴れしいです」
「瑠璃色の瑠璃でしょ」
彼は丸椅子を引き寄せながら言った。
「いい名前だから、呼びたくて」
「冴木でいいです」
「瑠璃ちゃんのほうがいい」
「よくないです」
「じゃあ、瑠璃ちゃんも琥珀って呼んで」
「呼びません」
「鏡くんでもいいよ」
「呼びません」
彼が笑った。
声を出して。
なぜかとても嬉しそうに。
瑠璃はキャンバスに向き直った。
背中で
彼の笑い声を聞いていた。
どうしてこの人は
冷たくされても笑うのだろう。
わからなかった。
わからないことが
少しだけ苛立たしかった。
昼休み。
二年五組の教室。
窓際の一番後ろの席で
可絵が焼きそばパンの袋を開けながら言った。
「で、今日も来たの? 鏡くん」
「……来た」
「毎日じゃん」
「毎日」
可絵が
心底面白そうに目を細めた。
一年のときに同じクラスになって
それからずっと一緒にいる。
言いたいことを
言いたいだけ言う子だった。
瑠璃はそれが楽だった。
「瑠璃ちゃん、って呼ばれた」
「うわ」
「馴れ馴れしい」
「で、なんて返したの」
「冴木でいいですって」
可絵が噴き出した。
焼きそばが一本
机の上に落ちた。
「鏡琥珀に塩対応する女、校内で瑠璃だけだよ」
「……だって」
瑠璃は窓の外を見た。
中庭を挟んだ向こうの校舎。
二階の渡り廊下。
見覚えのある背の高い影が
女の子三人に囲まれて歩いていた。
一人が
彼の腕を軽く叩いた。
彼が笑う。
別の一人が
何か言って
彼の肩に寄りかかるように身を寄せる。
彼は避けなかった。
笑ったまま
何か返していた。
「ああいう人でしょ」
瑠璃は目を逸らした。
「誰にでも優しい。誰にでも笑う。誰にでも同じこと言ってる」
「同じこと?」
「会いにきた、とか」
可絵がパンを齧る手を止めた。
渡り廊下を見る。
瑠璃を見る。
「……そうかな」
「そうでしょ」
「一年のときに、次々に三人と付き合って三人とも自分から振ったって噂は聞いたことあるけど」
「ほら」
「噂だよ?」
「噂になる時点で、そういう人なんだよ」
可絵は何も言わなかった。
少しの間
じっと瑠璃の横顔を見ていた。
それから
パンの最後の一口を放りこんで
小さく言った。
「瑠璃さ」
「なに」
「なんでそんなに、あの人のこと見てんの」
瑠璃は
パックの牛乳を飲もうとして
むせた。
五月の最後の金曜日。
雨だった。
美術室の窓を
細かい雨が叩いていた。
外が暗いせいで
蛍光灯の白い光が
いつもより冷たく感じた。
扉が開いた。
今日も
彼だった。
雨の匂いを連れて。
前髪が少し濡れていた。
「今日、体育館使えなくて。練習休み」
聞いてもいないのに言った。
丸椅子を引き寄せる。
いつもの場所に座る。
瑠璃は筆を置いた。
振り返った。
「鏡くん」
初めて
名前を呼んだ。
彼の目が
ぱっと見開かれた。
「……呼んでくれた」
子どもみたいに嬉しそうな顔だった。
瑠璃はそれを見ないようにした。
「もう、来ないでください」
彼の顔から
笑みがすっと消えた。
雨の音が
急に大きくなった気がした。
「迷惑なんです」
言葉が硬くなった。
止まらなかった。
「毎日来られて。見られて。飲み物置かれて。名前で呼ばれて」
「……うん」
「私、集中したいんです。ここ、一人になれる場所だったのに」
「……うん」
「鏡くんみたいな人は、他にいくらでも相手がいるでしょう」
彼が
ゆっくりと瞬いた。
「……俺みたいな人って」
「誰にでも優しくて。誰にでも笑って」
瑠璃は
膝の上で
絵具のついた指を握りしめた。
「私のこと、からかって遊んでるなら、やめてください」
長い沈黙があった。
雨が
窓ガラスを伝って落ちていく。
彼は
瑠璃をまっすぐに見ていた。
いつもの笑顔は
どこにもなかった。
「からかってない」
低い声だった。
「遊んでもない」
彼は丸椅子から立ち上がらなかった。
膝の上で
両手を握りしめていた。
「好きだから来てる」
瑠璃の呼吸が止まった。
「初めてここに来た日から。ずっと」
彼の耳が
赤くなっていた。
「瑠璃ちゃんが絵描いてるの見て。きれいだと思って。それから、ずっと」
瑠璃は何も言えなかった。
「迷惑なのはわかってる。ごめん」
彼が少しだけ俯いた。
それから
また顔を上げた。
「でも、嘘だとは思わないで」
雨の音。
蛍光灯の低い唸り。
自分の心臓の音。
瑠璃は
ようやく口を開いた。
「……私、鏡くんのこと、何も知りません」
「うん」
「鏡くんも、私のこと何も知らないでしょう」
「うん」
「それで好きとか、言われても」
「じゃあ、知って」
彼が言った。
まっすぐに。
「俺のこと、知って。俺も、瑠璃ちゃんのこと知りたい」
瑠璃は
言葉を失った。
「絵のことも。好きな色も。嫌いな飲み物も」
彼は小さく笑った。
「ミルクティーもレモンティーも、だめだった?」
瑠璃は
答えられなかった。
胸の奥が
変な音を立てていた。
「……帰ってください」
やっとそれだけ言った。
彼は
少しの間
瑠璃を見ていた。
それから
素直に立ち上がった。
鞄を肩にかける。
扉に手をかける。
振り返る。
「また来るね」
同じ言葉だった。
何度断っても
変わらない言葉。
瑠璃は答えなかった。
扉が閉まった。
廊下を遠ざかっていく足音。
軽くて
リズムのある足音。
それが聞こえなくなるまで
瑠璃は
扉を見つめていた。
雨は夜まで止まなかった。
家に帰って
自分の部屋の机に向かう。
スケッチブックを開いた。
何か描こうとした。
何も描けなかった。
鉛筆を持った手が
白い紙の上で止まったまま
動かなかった。
「好きだから来てる」
低い声が
耳の奥で何度も鳴った。
「嘘だとは思わないで」
瑠璃は鉛筆を置いた。
あんなのは
誰にでも言っているのだ。
渡り廊下で
女の子に囲まれて笑っていた人。
一年で次々に三人と付き合って
三人とも自分から振ったという人。
信じるほうが
どうかしている。
そう思った。
思おうとした。
でも
雨に濡れた前髪も。
赤くなった耳も。
膝の上で握りしめていた手も。
どれも
からかっている人の顔には
見えなかった。
瑠璃はスケッチブックを閉じようとして
ふと
手を止めた。
表紙の裏。
ポケットのように折り返した部分に
何かが挟まっていた。
黄色い付箋だった。
「ミルクティー苦手だった?」
丸めて捨てたはずの付箋。
あの日の帰り際
ゴミ箱の前で足が止まったことを
瑠璃は思い出した。
どうして拾ったのか
自分でもわからなかった。
瑠璃は
付箋の皺を
指先でそっと伸ばした。
少し右上がりの
大きな字。
それから
スケッチブックを閉じた。
付箋は
挟んだままにした。
窓の外で
雨が
まだ降り続いていた。
次の日も
鏡琥珀は美術室に来た。
放課後の四時過ぎ。
部長が戻っていて
背景画の話はすぐにまとまった。
新歓ステージまで二週間。
三年生の先輩たちが描くことになった。
瑠璃には関係のない話だった。
用事は
それで済んだはずだった。
その次の日も
彼は来た。
「背景、進んでるか見にきた」
背景画のパネルは
準備室の奥に立てかけてあった。
彼はそれを五秒だけ眺めて
それから
瑠璃のイーゼルの横に
丸椅子を引き寄せて座った。
「……背景、あっちですけど」
「うん。見た」
「……」
「冴木さんの絵、見てていい?」
瑠璃は答えなかった。
答えないことを
彼は許可だと受け取ったらしかった。
それから三十分。
彼は黙って座っていた。
ジャージの膝に頬杖をついて。
瑠璃の筆が動くのを
じっと見ていた。
背中がむずむずした。
誰かに見られながら描くのは
慣れていなかった。
五時を回ったところで
彼のスマートフォンが震えた。
「やば。練習」
彼は立ち上がった。
扉のところで振り返る。
「また来るね」
一昨日と
同じ言葉だった。
一週間が経った。
彼は毎日来た。
背景画が完成して
新歓ステージが終わって
口実がなくなっても
来た。
「今日は何の用ですか」
「冴木さんに会いにきた」
さらりと言う。
瑠璃の筆が
キャンバスの上で止まった。
「……そういうの、やめてください」
「なんで」
「困るので」
「困らせたいわけじゃないんだけど」
彼は少しだけ眉を下げた。
それから
鞄から何かを取り出して
瑠璃の机の端に置いた。
紙パックのミルクティー。
「これ、よかったら」
「いりません」
「じゃあ置いとくね」
置いていった。
瑠璃はそれを
最後まで開けなかった。
帰るときも
机の上に置いたままにした。
翌日
美術室に入ると
机の上のミルクティーは
なくなっていた。
代わりに
新しい紙パックが
一つ置いてあった。
今度はレモンティーだった。
付箋が貼ってあった。
「ミルクティー苦手だった?」
瑠璃は
付箋を剥がして
丸めて
ゴミ箱に捨てた。
レモンティーは
また開けなかった。
「瑠璃ちゃん」
十日目。
彼が美術室の扉を開けるなり
そう呼んだ。
瑠璃は振り返った。
自分でも
眉間に皺が寄ったのがわかった。
「……馴れ馴れしいです」
「瑠璃色の瑠璃でしょ」
彼は丸椅子を引き寄せながら言った。
「いい名前だから、呼びたくて」
「冴木でいいです」
「瑠璃ちゃんのほうがいい」
「よくないです」
「じゃあ、瑠璃ちゃんも琥珀って呼んで」
「呼びません」
「鏡くんでもいいよ」
「呼びません」
彼が笑った。
声を出して。
なぜかとても嬉しそうに。
瑠璃はキャンバスに向き直った。
背中で
彼の笑い声を聞いていた。
どうしてこの人は
冷たくされても笑うのだろう。
わからなかった。
わからないことが
少しだけ苛立たしかった。
昼休み。
二年五組の教室。
窓際の一番後ろの席で
可絵が焼きそばパンの袋を開けながら言った。
「で、今日も来たの? 鏡くん」
「……来た」
「毎日じゃん」
「毎日」
可絵が
心底面白そうに目を細めた。
一年のときに同じクラスになって
それからずっと一緒にいる。
言いたいことを
言いたいだけ言う子だった。
瑠璃はそれが楽だった。
「瑠璃ちゃん、って呼ばれた」
「うわ」
「馴れ馴れしい」
「で、なんて返したの」
「冴木でいいですって」
可絵が噴き出した。
焼きそばが一本
机の上に落ちた。
「鏡琥珀に塩対応する女、校内で瑠璃だけだよ」
「……だって」
瑠璃は窓の外を見た。
中庭を挟んだ向こうの校舎。
二階の渡り廊下。
見覚えのある背の高い影が
女の子三人に囲まれて歩いていた。
一人が
彼の腕を軽く叩いた。
彼が笑う。
別の一人が
何か言って
彼の肩に寄りかかるように身を寄せる。
彼は避けなかった。
笑ったまま
何か返していた。
「ああいう人でしょ」
瑠璃は目を逸らした。
「誰にでも優しい。誰にでも笑う。誰にでも同じこと言ってる」
「同じこと?」
「会いにきた、とか」
可絵がパンを齧る手を止めた。
渡り廊下を見る。
瑠璃を見る。
「……そうかな」
「そうでしょ」
「一年のときに、次々に三人と付き合って三人とも自分から振ったって噂は聞いたことあるけど」
「ほら」
「噂だよ?」
「噂になる時点で、そういう人なんだよ」
可絵は何も言わなかった。
少しの間
じっと瑠璃の横顔を見ていた。
それから
パンの最後の一口を放りこんで
小さく言った。
「瑠璃さ」
「なに」
「なんでそんなに、あの人のこと見てんの」
瑠璃は
パックの牛乳を飲もうとして
むせた。
五月の最後の金曜日。
雨だった。
美術室の窓を
細かい雨が叩いていた。
外が暗いせいで
蛍光灯の白い光が
いつもより冷たく感じた。
扉が開いた。
今日も
彼だった。
雨の匂いを連れて。
前髪が少し濡れていた。
「今日、体育館使えなくて。練習休み」
聞いてもいないのに言った。
丸椅子を引き寄せる。
いつもの場所に座る。
瑠璃は筆を置いた。
振り返った。
「鏡くん」
初めて
名前を呼んだ。
彼の目が
ぱっと見開かれた。
「……呼んでくれた」
子どもみたいに嬉しそうな顔だった。
瑠璃はそれを見ないようにした。
「もう、来ないでください」
彼の顔から
笑みがすっと消えた。
雨の音が
急に大きくなった気がした。
「迷惑なんです」
言葉が硬くなった。
止まらなかった。
「毎日来られて。見られて。飲み物置かれて。名前で呼ばれて」
「……うん」
「私、集中したいんです。ここ、一人になれる場所だったのに」
「……うん」
「鏡くんみたいな人は、他にいくらでも相手がいるでしょう」
彼が
ゆっくりと瞬いた。
「……俺みたいな人って」
「誰にでも優しくて。誰にでも笑って」
瑠璃は
膝の上で
絵具のついた指を握りしめた。
「私のこと、からかって遊んでるなら、やめてください」
長い沈黙があった。
雨が
窓ガラスを伝って落ちていく。
彼は
瑠璃をまっすぐに見ていた。
いつもの笑顔は
どこにもなかった。
「からかってない」
低い声だった。
「遊んでもない」
彼は丸椅子から立ち上がらなかった。
膝の上で
両手を握りしめていた。
「好きだから来てる」
瑠璃の呼吸が止まった。
「初めてここに来た日から。ずっと」
彼の耳が
赤くなっていた。
「瑠璃ちゃんが絵描いてるの見て。きれいだと思って。それから、ずっと」
瑠璃は何も言えなかった。
「迷惑なのはわかってる。ごめん」
彼が少しだけ俯いた。
それから
また顔を上げた。
「でも、嘘だとは思わないで」
雨の音。
蛍光灯の低い唸り。
自分の心臓の音。
瑠璃は
ようやく口を開いた。
「……私、鏡くんのこと、何も知りません」
「うん」
「鏡くんも、私のこと何も知らないでしょう」
「うん」
「それで好きとか、言われても」
「じゃあ、知って」
彼が言った。
まっすぐに。
「俺のこと、知って。俺も、瑠璃ちゃんのこと知りたい」
瑠璃は
言葉を失った。
「絵のことも。好きな色も。嫌いな飲み物も」
彼は小さく笑った。
「ミルクティーもレモンティーも、だめだった?」
瑠璃は
答えられなかった。
胸の奥が
変な音を立てていた。
「……帰ってください」
やっとそれだけ言った。
彼は
少しの間
瑠璃を見ていた。
それから
素直に立ち上がった。
鞄を肩にかける。
扉に手をかける。
振り返る。
「また来るね」
同じ言葉だった。
何度断っても
変わらない言葉。
瑠璃は答えなかった。
扉が閉まった。
廊下を遠ざかっていく足音。
軽くて
リズムのある足音。
それが聞こえなくなるまで
瑠璃は
扉を見つめていた。
雨は夜まで止まなかった。
家に帰って
自分の部屋の机に向かう。
スケッチブックを開いた。
何か描こうとした。
何も描けなかった。
鉛筆を持った手が
白い紙の上で止まったまま
動かなかった。
「好きだから来てる」
低い声が
耳の奥で何度も鳴った。
「嘘だとは思わないで」
瑠璃は鉛筆を置いた。
あんなのは
誰にでも言っているのだ。
渡り廊下で
女の子に囲まれて笑っていた人。
一年で次々に三人と付き合って
三人とも自分から振ったという人。
信じるほうが
どうかしている。
そう思った。
思おうとした。
でも
雨に濡れた前髪も。
赤くなった耳も。
膝の上で握りしめていた手も。
どれも
からかっている人の顔には
見えなかった。
瑠璃はスケッチブックを閉じようとして
ふと
手を止めた。
表紙の裏。
ポケットのように折り返した部分に
何かが挟まっていた。
黄色い付箋だった。
「ミルクティー苦手だった?」
丸めて捨てたはずの付箋。
あの日の帰り際
ゴミ箱の前で足が止まったことを
瑠璃は思い出した。
どうして拾ったのか
自分でもわからなかった。
瑠璃は
付箋の皺を
指先でそっと伸ばした。
少し右上がりの
大きな字。
それから
スケッチブックを閉じた。
付箋は
挟んだままにした。
窓の外で
雨が
まだ降り続いていた。