琥珀色の独占欲
## 第5話 夜明け

 

十二月二十三日。

二学期の終業式の日だった。

体育館の床が

冷たかった。

校長先生の長い話を聞きながら

琥珀は

五組の列のほうを見ていた。

前から七番目。

少しだけ俯いた後ろ姿。

肩までの髪。

紺色のマフラー。

瑠璃だった。

今日

言おうと決めていた。

何度目だろう。

五月の雨の日。

七月の夕立の日。

十月の文化祭の片づけの日。

十一月の

一番寒かった日。

そのたびに

瑠璃は首を振った。

「まだ、わからないです」

同じ言葉だった。

嫌いだとは

一度も言われなかった。

来ないでとも

もう言われなかった。

緑茶は

毎日

空になっていた。

 

 

放課後。

北校舎の三階。

冬の日は短かった。

四時を過ぎたばかりなのに

窓の外は

もう暮れかけていた。

扉を開ける。

油絵具の匂い。

ストーブの灯油の匂い。

瑠璃は窓際にいた。

新しいキャンバスの前。

『夜明け前』は

先月の展覧会に出して

それきり

準備室の奥にしまってあった。

今描いているのは

何の絵なのか

琥珀は知らなかった。

瑠璃が

見せてくれなかった。

覗きこもうとすると

いつも

布をかけて隠された。

「瑠璃ちゃん」

「……鏡くん」

振り返る。

キャンバスに

さっと布がかかった。

琥珀は

いつもの丸椅子に座った。

四月の日から数えて

何百回座っただろう。

緑茶を

机の端に置く。

「今日、告白された」

「……はい」

「二人。一年生と、三年生」

「……はい」

「断った。好きな人いるって言った」

瑠璃は

筆を洗う手を止めずに

小さく頷いた。

いつものように。

琥珀は

膝の上で

両手を握りしめた。

手のひらが

汗ばんでいた。

ステージの本番の前より

ずっと。

「瑠璃ちゃん」

瑠璃の手が止まった。

琥珀の声で

わかったのだと思った。

五回目だから。

「好きです」

ストーブが

小さく音を立てた。

「四月から、ずっと。今日も」

瑠璃は振り返らなかった。

筆を持ったまま

背中を向けていた。

「付き合ってください」

長い沈黙。

窓の外で

最後の夕陽が

屋根の向こうに沈んでいく。

美術室の中が

ゆっくりと

琥珀色に染まっていった。

四月の

あの日と同じ色に。

 

 

瑠璃は

筆を置いた。

振り返った。

鏡琥珀が

丸椅子の上で

背筋を伸ばして座っていた。

膝の上の手が

白くなるほど

握りしめられていた。

ステージの上では

何百人の視線を浴びても

少しも揺れなかった人が。

瑠璃は

ゆっくりと息を吸った。

「……一つだけ」

声が少しだけ震えた。

「聞いてもいいですか」

琥珀が頷いた。

「どうして、私なんですか」

琥珀の目が

わずかに見開かれた。

「鏡くんのこと、好きな人。たくさんいます」

「……うん」

「みんな、かわいくて。明るくて。優しくて」

瑠璃は

膝の上で

絵具のついた指を握った。

「私、全然優しくなかった」

「……」

「迷惑だって言いました。来ないでって。からかってるならやめてって」

飲み物を

何日も開けなかった。

付箋を

丸めて捨てた。

名前で呼ばれるたびに

眉をひそめた。

「それなのに。どうして」

琥珀は

しばらく黙っていた。

瑠璃から

目を逸らさなかった。

やがて

ゆっくりと口を開いた。

「最初は、絵だった」

静かな声だった。

「四月の。この部屋で。瑠璃ちゃんが一人で、青と向き合ってて」

琥珀は窓の外を見た。

最後の光が

屋根の縁に

細く残っていた。

「俺が扉のとこにいても、全然気づかなかったでしょ」

「……はい」

「それが、すごくきれいだった」

琥珀は小さく笑った。

「俺ね。どこにいても、見られてるの」

体育館でも。

教室でも。

廊下でも。

「見られるの、嫌いじゃない。踊るのも好き。でも」

少しだけ

声が低くなった。

「誰も見てないところで、何かと向き合ってる人を、初めて見た気がした」

瑠璃は

何も言えなかった。

「それから、名前」

琥珀が

瑠璃に目を戻した。

「琥珀色ですねって。言ったでしょ」

瑠璃は

小さく頷いた。

「みんな、俺の名前、ダンス部の鏡くんって意味で呼ぶ。でも瑠璃ちゃんは、色で呼んだ」

琥珀の目が

少しだけ潤んでいた。

「初めてだった。自分の名前、きれいだと思ったの」

ストーブの火が

小さく揺れた。

「優しくなかったのも」

琥珀は

握りしめていた手を

ゆっくりとほどいた。

「優しくなかったけど、嘘もつかなかった。迷惑なら迷惑って言ってくれた。噂信じてたことも、ちゃんと謝ってくれた」

「……」

「俺の話、ちゃんと聞いてくれた」

琥珀は

少しだけ身を乗り出した。

「瑠璃ちゃんの前だと、俺、ダンス部の鏡くんじゃなくていいの。ただの鏡琥珀でいられる」

瑠璃の目の奥が

熱くなった。

「緑茶を毎日空にしてくれるのも」

琥珀が笑った。

泣きそうな顔で。

「俺のダンス、きれいって言ってくれたのも」

「……」

「全部。だから」

琥珀は

まっすぐに瑠璃を見た。

「瑠璃ちゃんじゃなきゃ、だめなの」

 

瑠璃は

立ち上がった。

琥珀が

びくりと肩を揺らした。

瑠璃は

キャンバスにかけた布の端を掴んだ。

少しだけ

迷って。

それから

布を外した。

琥珀が

息を呑む音が聞こえた。

キャンバスの上に

一人の男の子がいた。

体育館のステージ。

逆光の中。

腕を振り上げて

最後のポーズで止まった

黒い衣装の背中。

光の真ん中。

まだ描きかけだった。

背景の闇は

何層もの青で塗られていた。

深い青。

淡い青。

灰色がかった青。

その真ん中で

背中の輪郭だけが

淡い琥珀色に

光っていた。

「……文化祭のあと、ずっと描いてました」

瑠璃の声が震えた。

「隠してたのは、恥ずかしかったからで」

琥珀は

キャンバスを見つめたまま

動かなかった。

「私も」

瑠璃は

琥珀のほうを向いた。

「まだ、わからないって。ずっと言ってたけど」

言葉を探す。

一つずつ。

「本当は、夏休みくらいから、わかってた」

琥珀が

ゆっくりとこちらを見た。

「怖かったんです。鏡くん、みんなに好かれてるから。私なんかって」

「……瑠璃ちゃん」

「でも」

瑠璃は

ぎゅっと手を握った。

「毎晩、報告くれるの、待ってました」

琥珀の目が

大きく揺れた。

「緑茶も。付箋も。全部とってあります」

「……全部?」

「全部」

瑠璃は

鞄からスケッチブックを出した。

表紙の裏を開く。

付箋が

何十枚も

びっしりと貼られていた。

黄色。

水色。

薄い緑。

少し右上がりの

大きな字。

一番上に

皺の伸ばされた

一枚目。

「ミルクティー苦手だった?」

琥珀は

それを見たまま

言葉を失っていた。

瑠璃は

大きく息を吸った。

「……はい」

小さな声だった。

でも

ちゃんと届くように。

「付き合ってください。……私からも」

 

琥珀は

しばらく動かなかった。

それから

丸椅子から立ち上がった。

一歩。

二歩。

瑠璃の前で止まる。

手が伸びてくる。

瑠璃の指先に

そっと触れた。

絵具で汚れた指を

少しも気にせずに。

握った。

琥珀の手は

震えていた。

「……ほんとに?」

「ほんとに」

「夢じゃない?」

「夢じゃないです」

琥珀は

瑠璃の手を握ったまま

俯いた。

肩が

小さく揺れていた。

「……やばい」

くぐもった声。

「今の、一生どころじゃない。来世まで覚えてる」

瑠璃は

吹き出した。

声を出して笑った。

琥珀が顔を上げる。

目が赤かった。

でも

笑っていた。

子どもみたいに。

四月から

何百回も見てきた

あの笑顔で。

 

 

窓の外は

すっかり暗くなっていた。

ストーブの火が

二人の影を

壁に揺らしていた。

「あの」

瑠璃が言った。

琥珀が

握った手に少しだけ力をこめる。

「一個、お願いがあって」

「なんでも」

「付き合ってること」

瑠璃は目を伏せた。

「……みんなには、黙っていてほしいです」

琥珀の動きが止まった。

「鏡くん、ファンの子たくさんいるから。知られたら、たぶん、大変なことになる」

瑠璃は

窓の外を見た。

「ここ。静かに描ける場所、なくなるの、嫌で」

琥珀は

長いあいだ黙っていた。

瑠璃は

おそるおそる顔を上げた。

琥珀は

口をへの字に曲げていた。

「……自慢したいのに」

「え」

「世界中に。俺の彼女ですって」

瑠璃は

また吹き出しそうになった。

琥珀は

それでも

ゆっくりと頷いた。

「……わかった。瑠璃ちゃんが嫌なら、言わない」

「ありがとうございます」

「その代わり」

琥珀が

瑠璃の手を

両手で包みこんだ。

「報告は、続ける」

「……はい」

「毎回。一個残らず」

「はい」

「それと」

琥珀は

少しだけ照れたように

目を逸らした。

「瑠璃って、呼んでいい?」

瑠璃の心臓が

とくんと鳴った。

「……ちゃん、取るんですか」

「取りたい」

「……いいですよ」

琥珀が

ぱっと顔を輝かせた。

「瑠璃」

呼ばれた。

たった二文字。

それだけで

頬が熱くなった。

「瑠璃も」

琥珀が

瑠璃の顔を覗きこむ。

「琥珀って、呼んで」

「……」

「敬語も、なし」

「……急に、無理です」

「じゃあ、一回だけ。練習」

琥珀が

期待に満ちた目で待っていた。

大型犬みたいに。

瑠璃は

観念して

小さく息を吸った。

「……琥珀」

琥珀が

目を閉じた。

胸に手を当てた。

「……琥珀色って言われたときより、やばい」

「大げさ」

「大げさじゃない」

瑠璃は

笑った。

琥珀も

笑った。

ストーブの火が

ぱちりと鳴った。

 

 

帰り道。

校門を出たところで

空から

白いものが落ちてきた。

雪だった。

その冬

初めての雪。

街灯の光の中を

ゆっくりと

舞い降りてくる。

琥珀が立ち止まって

空を見上げた。

瑠璃も見上げた。

繋いだ手が

琥珀のコートのポケットの中で

温かかった。

「……瑠璃の絵」

琥珀がぽつりと言った。

「夜明け前、ってタイトルだったでしょ」

「はい」

「うん」

琥珀は

空を見上げたまま

小さく笑った。

「明けたね」

瑠璃は

何も言えなかった。

ただ

ポケットの中で

琥珀の手を

ぎゅっと握り返した。

琥珀が

空から視線を下ろした。

瑠璃を見る。

街灯の光の中で

瑠璃の前髪に

雪のひとひらが

引っかかっていた。

琥珀の指が

それをそっと払った。

指先が

額に触れた。

冷たかった。

でも

すぐに温かくなった。

琥珀の手は

そのまま離れなかった。

瑠璃の頬に

そっと添えられた。

「……瑠璃」

いつもより

少しだけ低い声だった。

「キス、していい?」

瑠璃の心臓が

大きく跳ねた。

聞かないで、と思った。

聞かれたら

答えなきゃいけない。

琥珀は

待っていた。

四月から

ずっとそうだったように。

瑠璃が振り返るまで。

瑠璃が名前を呼ぶまで。

瑠璃が

頷くまで。

瑠璃は

ほんの少しだけ

顎を引いた。

それが

答えだった。

琥珀の顔が

ゆっくりと近づいてくる。

白い息が

混ざる。

瑠璃は

目を閉じた。

唇が

触れた。

一瞬だった。

冷たくて

少しだけ震えていて

雪の匂いがした。

それだけだった。

それだけなのに

世界の音が

全部消えた気がした。

目を開けると

琥珀が

すぐそこにいた。

耳まで

真っ赤だった。

たぶん

自分も同じだった。

「……初めて」

琥珀が

掠れた声で言った。

「……私も」

琥珀が

泣きそうな顔で笑った。

「おそろいだ」

六月の流し場の裏で聞いたのと

同じ言葉だった。

瑠璃は

琥珀のコートの胸に

額を押しつけた。

顔を

見られたくなかった。

雪が

二人の肩に

髪に

静かに降り積もっていった。

家の前で別れて

自分の部屋に入って

瑠璃はスマートフォンを見た。

一通届いていた。

「今日の告白、三件。二件断った」

瑠璃は首を傾げた。

三件。

二件。

もう一通。

「一件は、俺からした。OKもらった」

もう一通。

「あと、初めてキスした。報告おわり」

瑠璃は

ベッドに倒れこんだ。

枕に顔を埋める。

声を出さずに

笑った。

笑いながら

少しだけ泣いた。

指を動かす。

「報告、ありがとう」

送信してから

もう一行だけ打った。

敬語を

使わずに。

「おやすみ。琥珀」

窓の外で

雪が

まだ降り続いていた。
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