『勿応草は僕を忘れない』

第4話 君に会うために

そして翌朝。
寝不足の目をこすりながら学校へ向かう通学路で、僕は昨日画面の向こうで見た彼女の笑顔を、まだ無意識のうちに探していた。
もし、あのとき。
僕が『久しぶり』と一言送っていたとしたら。
僕たちの物語は、一体どんな音を立てて動き出していたのだろう。

翌日からの学校生活も、僕の頭の中は花音の存在に占領されたままだった。
けれど、ただぼんやりと思い出しているわけではなかった。昨日Instagramで「今の花音」を見たことで、胸の底に眠っていた記憶の鍵が外れたみたいに、昔の出来事がひとつ、またひとつと鮮明によみがえってきたのだ。
退屈な数学の授業中、黒板を滑るチョークの音を聞きながら、ふと思い出す。
――そういえば花音、昔「大きくなったら、すっごく高いところに住むんだ」って言ってたな。
幼稚園の砂場で、山を高く高く積み上げながら、無邪気に笑っていた顔。
あの頃の僕たちは、大人になったら何にでもなれると信じていた。どこへでも行けると思っていた。
休み時間、誰もいない自分の席で机を見つめていると、また別の記憶が顔を出す。
――「悠は、優しいから好きだよ」
ブランコの順番を譲ったとき、花音は当然みたいにそう言って、隣で大きく風を切っていた。
あの言葉に、幼い僕はどれだけ救われていただろう。
けれど、ふと我に返って自分の手元を見る。
ノートの隅に走らせた無機質な文字。周りの賑やかな歓声から一歩引いて、誰とも深く関わらないように過ごしている今の自分。
あんなにも無邪気に花音の隣にいた僕は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
高校に入ってからの僕は、どこかで「自分なんてこの程度だ」と諦めていた。傷つくのが怖くて、クラスの輪にも入らず、当たり障りのない毎日をやり過ごすことばかり考えていた。
でも、画面越しに出会った「今の花音」は違った。僕の知らない場所で、新しい仲間を作り、部活に打ち込み、ちゃんと自分の足で新しい時間を歩んでいた。
――花音に会いたい。
その想いは確かにある。けれど、ただ昔を懐かしむだけじゃダメなのだと、心のどこかで分かっていた。
幼稚園の頃の僕は、花音の後ろをただついていくだけの男の子だった。でも、もし今、奇跡的に再会できたとして、こんな風に殻に閉じこもった情けない姿のまま会いたくはない。
「今の自分」は、あの頃の僕とは違う。
そして、これからどう変わっていくかも、自分次第なんだ。
そんな風に少しだけ前を向き始めた矢先、またしても胸を強く締め付ける出来事があった。
その夜、どうしても諦めきれずに、僕はもう一度Instagramで花音のアカウントを開いた。
そして、過去の投稿を何年も前まで遡っていった。
そこに残されていたのは、楽しそうな写真ばかりではなかった。
『今日も怒られた。もう無理かも』
『何のためにやってるんだろう』
何年も前の投稿にあった、一言だけの短い文章。
あるいは、部活動の集合写真の中で、彼女だけがどこか遠くを見つめ、ひっそりと硬い表情を浮かべている一枚。
親が言っていた「部活でいじめられていた」という言葉が、重い真実として胸に突き刺さった。
SNSに流れてくるキラキラした日常は、彼女が見せていたほんの表面の一部に過ぎなかったのだ。その裏で、彼女がどれだけの孤独や痛みを抱えていたのか、画面のこちら側にいる僕には推し量ることすらできない。
――あのとき、僕がもっと早く気づいていたら。
――連絡を取っていたら、何か変わっていたのだろうか。
激しい後悔が押し寄せる。
僕が教室で一人、無為な時間を過ごしていたあの頃、花音はどこかで人知れず傷つき、泣いていたのかもしれない。
けれど、画面をスクロールしていくうちに、最近の投稿へと追いつく。
そこには、辛い時期を乗り越えたのか、仲間と穏やかに笑い合う彼女の姿があった。
過去を変える魔法なんて、どこにも存在しない。
僕がどれだけ悔やんだところで、彼女が背負った痛みを代わりに引き受けてあげることはできないのだ。
だから。
せめて今、彼女が笑顔でいられる場所にいるのなら、それでいい。
遠くからでもいい、ただ彼女の幸せを願おう。
そう自分に言い聞かせ、今度こそ静かに画面を伏せた。
運命が動き出したのは、それから数日後のことだった。
夕食の席で、母親が味噌汁の椀を置きながら、思い出したように口を開いた。
「そういえばね、今日おばさんと話したんだけど……花音ちゃん、今度この近くに来るらしいわよ」
箸を動かしていた僕の手が、ピタリと止まった。
「……え?」
「バレーの遠征か何かで、こっちの体育館で試合があるんだって。懐かしいわね、見に行ってみたら?」
母は気楽な調子で言ったが、僕の胸の中では、一度は鎮めたはずの波が一気に高く立ち打った。
この近くに、花音が来る。
もう何年も遠く離れてしまっていた二人の距離が、突然、目と鼻の先まで縮まろうとしていた。
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