『勿応草は僕を忘れない』
第5話 もう一度君に
体育館の周りには、他校のバスやジャージ姿の高校生たちが忙しなく行き交っていた。
シューズが体育館の床を叩くキュッという高い音と、威勢の良い掛け声、そしてボールがコートに弾ける鈍い音が、入り口の外まで響いてくる。
僕は、観客席へ続く階段の手前で立ち尽くしていた。
「……本当に来ちゃったな」
手に握りしめた自動販売機のスポーツドリンクが、じんわりとぬるくなっていく。
母親から試合の話を聞いてから、居ても立ってもいられずに自転車を走らせてきたものの、いざ体育館に着くと足がすくんでしまった。
今の自分は、相変わらず自分の殻に閉じこもったままだ。
昔みたいに無邪気に「花音!」なんて呼べるはずもない。
遠くから、元気にプレイしている姿をひと目見るだけでいい。そう自分に言い聞かせて、静かに階段を上った。
観客席のギャラリーからは、コート全体が見渡せた。
複数のコートで同時に試合が行われており、熱気と歓声が充満している。
僕は手すりに寄りかかりながら、目を凝らして特定のユニフォームを探した。
Instagramで見覚えた、あの高校のユニフォーム。
――いた。
手前のコートで、背番号をつけた彼女が、コートの端で仲間と声を掛け合っていた。
小川花音だ。
髪は昔より短く結ばれていて、真剣な眼差しでコートを見つめている。
ボールが上がると、彼女はしなやかなフォームで跳び上がり、相手コートへ力強いスパイクを打ち込んだ。
決まった瞬間、仲間たちが彼女のもとに駆け寄り、ハイタッチを交わす。
その中心で、彼女は弾けるような笑顔を見せた。
あの日、画面の向こうで見見た笑顔。
そして、かつて僕の隣で笑っていた、あの頃の面影を残した笑顔。
(……よかった)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられると同時に、あたたかいものが溢れてきた。
過去の投稿にあった苦しそうな表情も、噂で聞いたいじめの話も、今の彼女は乗り越えて、ちゃんと自分の足で立って笑っている。
それを見られただけで、十分だった。
僕がここにいる意味なんてない。邪魔をしたくない。
そう思って、僕は静かに背を向け、観客席の通路を出口に向かって歩き出した。
「――あ」
そのときだった。
階段を下りようとした僕の目の前を、ドリンクのジャグ缶を持った相手校の選手たちが通り過ぎていった。
狭い通路で体を避けようとした瞬間、後ろから歩いてきた誰かと、肩が軽くぶつかった。
「あっ、ごめんなさい!」
聞き覚えのない、けれどどこか心の深い場所に届く声。
「あ、こちらこそすみま――」
頭を下げながら振り返り、言葉が途切れた。
目の前に立っていたのは、汗を拭いながらタオルを首にかけた花音だった。
距離にして、ほんの数十センチ。
画面越しでもなく、遠くのコートでもなく、すぐ目の前に彼女がいた。
花音は少し驚いたように目を見開いたあと、すれ違おうとして……ふと、足を止めた。
彼女の視線が、僕の顔に注がれる。
時が止まったような静寂が、賑やかな体育館の片隅に流れた。
彼女の瞳に、戸惑いと、探るような光が浮かぶ。
僕の心臓は、壊れたんじゃないかと思うくらい激しく打っていた。
声が出ない。
『久しぶり』の一言さえ、喉に引っかかって出てこない。
けれど、花音の口元が、ゆっくりと動いた。
「……もしかして、悠……ちゃん?」
何年も呼ばれていなかった、懐かしい呼び名。
あの日、送信できなかったメッセージの代わりに、運命はあまりにも突然に、僕たちの時間を動かし始めていた。
体育館を包む熱気と、シューズが床を擦るキィッという高い音。
それらが一瞬にして遠のき、二人だけの空間にぽっかりと静寂が落ちた。
「……もしかして、悠……ちゃん?」
汗ばんだ前髪の隙間から見つめてくる、すっかり大人びた彼女の瞳。
何年も呼ばれていなかった、胸の奥を揺さぶるような懐かしい呼び名。
目の前にいるのは、画面越しでも、セピア色の記憶でもない。
リアルな体温と息づかいを持った「今の花音」だった。
心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりに跳ねている。
あの日、暗い部屋でスマートフォンの画面を伏せた夜。
指がすくんで送信できなかった『久しぶり』という、たった五文字の言葉。
今、その言葉を取り戻す瞬間が、目の前に訪れていた。
「……うん。久しぶり、花音」
喉の奥がカラカラに乾いていたけれど、僕は精一杯の言葉を絞り出した。
ぎこちなく浮かべた笑顔は、きっとうまく作れていなかったと思う。
「やっぱり……! びっくりした、こんなところで会うなんて」
花音は首にかけたタオルで汗を拭いながら、ぱっと表情を輝かせた。
その弾けたような笑顔は、あの頃、僕の隣で無邪気に笑っていた少女の面影そのものだった。
「どうしてここに? もしかして、今日の試合……見に来てくれたの?」
真っ直ぐな瞳に見つめられて、僕は一瞬言葉に詰まった。
今の自分は、教室で自分の殻に閉じこもっている冴えない高校生だ。
対する彼女は、辛い時期を乗り越えて、コートの上で光を浴びている。
身がすくむような引け目と、ずっと会いたかったという衝動が、胸の中で激しくせめぎ合う。
けれど、ここで嘘をついたり、逃げ出したりしたくはなかった。
『今の自分は昔とは違う』としても、前に進むと決めたのだから。
「うん。……うちの親から、花音が近くで試合だって聞いて。ほんのちょっとだけ、顔が見られたらなって思って」
握りしめたスポーツドリンクのボトルが、汗ばんだ手にじわじわと体温を伝えてくる。
「そっか……来てくれたんだ。すごく嬉しい」
花音は少し照れたように笑うと、小さく息を吐いた。
そして、どこか慈しむような、けれど少しだけ寂しげな目をして僕を見つめた。
「何年ぶりだろうね。悠ちゃん、背も伸びたし……ちょっと大人っぽくなった」
「そうかな。花音こそ……かっこよかったよ。さっきのスパイク」
「あ、見ててくれたんだ? ありがとう」
会話の合間に生まれるわずかな沈黙。
けれど、かつて幼稚園の帰り道で流れていた空気と同じように、不思議と気まずさはなかった。
「あのね、悠ちゃん」
花音は一歩、僕の方へ踏み出してきた。
「私ね、ずっと……」
言葉を紡ごうとしたそのとき、体育館のコート側から大きな歓声と、彼女を呼ぶ仲間たちの声が響いた。
『花音ー! 次のセット始まるよー!』
「あ……うん! 今行く!」
花音は振り返って大声で返事をすると、もう一度僕の方へと向き直った。
その顔には、名残惜しさと、ハッキリとした意志が浮かんでいた。
「ごめん、もう行かなきゃ。……でもね、悠ちゃん」
花音は僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「今日、来てくれて本当に良かった。試合が終わったら……少しだけ話せる?」
あの日の夜、踏み出せなかったのは僕だった。
けれど今、止まっていた時間を動かそうとしてくれたのは、彼女の方だった。
僕の中で、ずっとくすんでいた感情に、確かな光が灯る。
「うん。待ってる」
シューズが体育館の床を叩くキュッという高い音と、威勢の良い掛け声、そしてボールがコートに弾ける鈍い音が、入り口の外まで響いてくる。
僕は、観客席へ続く階段の手前で立ち尽くしていた。
「……本当に来ちゃったな」
手に握りしめた自動販売機のスポーツドリンクが、じんわりとぬるくなっていく。
母親から試合の話を聞いてから、居ても立ってもいられずに自転車を走らせてきたものの、いざ体育館に着くと足がすくんでしまった。
今の自分は、相変わらず自分の殻に閉じこもったままだ。
昔みたいに無邪気に「花音!」なんて呼べるはずもない。
遠くから、元気にプレイしている姿をひと目見るだけでいい。そう自分に言い聞かせて、静かに階段を上った。
観客席のギャラリーからは、コート全体が見渡せた。
複数のコートで同時に試合が行われており、熱気と歓声が充満している。
僕は手すりに寄りかかりながら、目を凝らして特定のユニフォームを探した。
Instagramで見覚えた、あの高校のユニフォーム。
――いた。
手前のコートで、背番号をつけた彼女が、コートの端で仲間と声を掛け合っていた。
小川花音だ。
髪は昔より短く結ばれていて、真剣な眼差しでコートを見つめている。
ボールが上がると、彼女はしなやかなフォームで跳び上がり、相手コートへ力強いスパイクを打ち込んだ。
決まった瞬間、仲間たちが彼女のもとに駆け寄り、ハイタッチを交わす。
その中心で、彼女は弾けるような笑顔を見せた。
あの日、画面の向こうで見見た笑顔。
そして、かつて僕の隣で笑っていた、あの頃の面影を残した笑顔。
(……よかった)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられると同時に、あたたかいものが溢れてきた。
過去の投稿にあった苦しそうな表情も、噂で聞いたいじめの話も、今の彼女は乗り越えて、ちゃんと自分の足で立って笑っている。
それを見られただけで、十分だった。
僕がここにいる意味なんてない。邪魔をしたくない。
そう思って、僕は静かに背を向け、観客席の通路を出口に向かって歩き出した。
「――あ」
そのときだった。
階段を下りようとした僕の目の前を、ドリンクのジャグ缶を持った相手校の選手たちが通り過ぎていった。
狭い通路で体を避けようとした瞬間、後ろから歩いてきた誰かと、肩が軽くぶつかった。
「あっ、ごめんなさい!」
聞き覚えのない、けれどどこか心の深い場所に届く声。
「あ、こちらこそすみま――」
頭を下げながら振り返り、言葉が途切れた。
目の前に立っていたのは、汗を拭いながらタオルを首にかけた花音だった。
距離にして、ほんの数十センチ。
画面越しでもなく、遠くのコートでもなく、すぐ目の前に彼女がいた。
花音は少し驚いたように目を見開いたあと、すれ違おうとして……ふと、足を止めた。
彼女の視線が、僕の顔に注がれる。
時が止まったような静寂が、賑やかな体育館の片隅に流れた。
彼女の瞳に、戸惑いと、探るような光が浮かぶ。
僕の心臓は、壊れたんじゃないかと思うくらい激しく打っていた。
声が出ない。
『久しぶり』の一言さえ、喉に引っかかって出てこない。
けれど、花音の口元が、ゆっくりと動いた。
「……もしかして、悠……ちゃん?」
何年も呼ばれていなかった、懐かしい呼び名。
あの日、送信できなかったメッセージの代わりに、運命はあまりにも突然に、僕たちの時間を動かし始めていた。
体育館を包む熱気と、シューズが床を擦るキィッという高い音。
それらが一瞬にして遠のき、二人だけの空間にぽっかりと静寂が落ちた。
「……もしかして、悠……ちゃん?」
汗ばんだ前髪の隙間から見つめてくる、すっかり大人びた彼女の瞳。
何年も呼ばれていなかった、胸の奥を揺さぶるような懐かしい呼び名。
目の前にいるのは、画面越しでも、セピア色の記憶でもない。
リアルな体温と息づかいを持った「今の花音」だった。
心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりに跳ねている。
あの日、暗い部屋でスマートフォンの画面を伏せた夜。
指がすくんで送信できなかった『久しぶり』という、たった五文字の言葉。
今、その言葉を取り戻す瞬間が、目の前に訪れていた。
「……うん。久しぶり、花音」
喉の奥がカラカラに乾いていたけれど、僕は精一杯の言葉を絞り出した。
ぎこちなく浮かべた笑顔は、きっとうまく作れていなかったと思う。
「やっぱり……! びっくりした、こんなところで会うなんて」
花音は首にかけたタオルで汗を拭いながら、ぱっと表情を輝かせた。
その弾けたような笑顔は、あの頃、僕の隣で無邪気に笑っていた少女の面影そのものだった。
「どうしてここに? もしかして、今日の試合……見に来てくれたの?」
真っ直ぐな瞳に見つめられて、僕は一瞬言葉に詰まった。
今の自分は、教室で自分の殻に閉じこもっている冴えない高校生だ。
対する彼女は、辛い時期を乗り越えて、コートの上で光を浴びている。
身がすくむような引け目と、ずっと会いたかったという衝動が、胸の中で激しくせめぎ合う。
けれど、ここで嘘をついたり、逃げ出したりしたくはなかった。
『今の自分は昔とは違う』としても、前に進むと決めたのだから。
「うん。……うちの親から、花音が近くで試合だって聞いて。ほんのちょっとだけ、顔が見られたらなって思って」
握りしめたスポーツドリンクのボトルが、汗ばんだ手にじわじわと体温を伝えてくる。
「そっか……来てくれたんだ。すごく嬉しい」
花音は少し照れたように笑うと、小さく息を吐いた。
そして、どこか慈しむような、けれど少しだけ寂しげな目をして僕を見つめた。
「何年ぶりだろうね。悠ちゃん、背も伸びたし……ちょっと大人っぽくなった」
「そうかな。花音こそ……かっこよかったよ。さっきのスパイク」
「あ、見ててくれたんだ? ありがとう」
会話の合間に生まれるわずかな沈黙。
けれど、かつて幼稚園の帰り道で流れていた空気と同じように、不思議と気まずさはなかった。
「あのね、悠ちゃん」
花音は一歩、僕の方へ踏み出してきた。
「私ね、ずっと……」
言葉を紡ごうとしたそのとき、体育館のコート側から大きな歓声と、彼女を呼ぶ仲間たちの声が響いた。
『花音ー! 次のセット始まるよー!』
「あ……うん! 今行く!」
花音は振り返って大声で返事をすると、もう一度僕の方へと向き直った。
その顔には、名残惜しさと、ハッキリとした意志が浮かんでいた。
「ごめん、もう行かなきゃ。……でもね、悠ちゃん」
花音は僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「今日、来てくれて本当に良かった。試合が終わったら……少しだけ話せる?」
あの日の夜、踏み出せなかったのは僕だった。
けれど今、止まっていた時間を動かそうとしてくれたのは、彼女の方だった。
僕の中で、ずっとくすんでいた感情に、確かな光が灯る。
「うん。待ってる」