雪の国の生贄花嫁
第10話
そのとき、森の奥で雪を踏み締める音がした。
ムクの耳が鋭く立ち、森の奥へと向けられる。
桜来の前へ出るように、ハクが無言で位置を変えた。
「待って」
「どうしました?」
「今、向こうから音がした」
「ああ、確かに。我にも聞こえたぞ」
「仲間の匂いもする。薄いけど、今度は分かる」
「先ほど見失った匂いと同じですか?」
「うん。でも……変な匂いも一緒にする」
「変な匂い?」
「その匂いは穢れだ」
「けがれ……怖い。でも仲間がいるかもしれない。行きたい」
「我より前に出るなよ、ムク」
「分かった」
「私も行きます」
「聞くまでもない。お前も我の後ろにいろ」
ハクを先頭に、三人は音のした方角へ進む。
雪の上には複数の足跡が乱れ、同じ場所をさまようように重なっていた。
木々の間に、いくつもの黒い影が現れた。現れたあやかしたちの身体には、毛並みを覆うように黒い穢れがこびりついている。
「……みんな?」
痩せた身体には黒い筋が走り、吐く息にも煤のようなものが混じっていた。
「近づくな。今、あいつらは正気を失っている」
「身体に黒いものが――」
「ぼくについていたのと同じだ」
「どうか落ち着いてください。こちらから傷つけるつもりはございません」
濁っていたあやかしの目が、桜来の胸元にある雪代家の紋を捉えた。
「あれは……雪代……雪代の人間だ!」
桜来は相手の視線をたどり、自分の白装束へ目を落とした。
「雪代の家紋? この紋をご存知なのですか?」
「奪った……森を……返せ!」
唸り声が一斉に低くなり、森の空気が張り詰めた。
雪代家の紋を見た途端、あやかしたちの警戒が明確な敵意へと変わった。
「今は話が通じる状態ではない。下がれ」
「ですが、私の白装束を見て反応しています」
「だからこそ、お前は下がれ」
「来るよ!」
獣型のあやかしが雪を蹴り、桜来へ飛びかかった。
桜来が身構えるより早く、ハクがその前へ踏み込む。ハクは片腕を上げ、桜来とあやかしの間へ身体を滑り込ませた。ハクの神衣が桜来の視界を覆い、次の瞬間には大きな背中が彼女の前にあった。
ハクが掌を向けると、淡い光があやかしの四肢へと絡みつく。神力の光が鎖のように伸び、飛びかかったあやかしを雪の上へ押し留めた。
「動くな」
あやかしが地面へ押し戻され、雪が大きく舞い上がった。
桜来の呼吸が止まり、遅れて心臓が強く脈打った。飛び散った雪の冷たさが頬に触れた。
ハクの首筋に浮かぶ呪紋が、脈打つように黒さを増している。手首を覆っていた呪紋が、神力を放つ腕を這うように広がった。
「ハク様、呪紋が――」
再び獣たちのうなり声が強まり始めた。
「今はそれを気にしている場合ではない。そなたはムクを連れて逃げろ」
「いいえ。このような状態のあなたを残してはいけません」
「そなたが残れば足手まといになる」
「ハク様、あいつらは悪いあやかしじゃないよ。森にいた仲間なんだ」
「ああ、そうだ。だが今は正気を失っている。このまま放てば、お前たちだけでなく、ほかのあやかしをも襲うだろう」
あやかしの脚に広がる黒い筋を目で辿り、桜来はムクへと視線を移した。
「彼らを鎮める方法はないのですか?」
「ない」
「そんな……」
あやかしは牙をむきながらも、身体の痛みに耐えるよう何度も震えている。
黒い筋が脈打つたび、あやかしの四肢が不自然に痙攣した。
桜来には、敵意の奥に、穢れに抗おうとする苦痛が残っているように見えた。
「せめてもの情だ。苦しませる前に終わらせる」
ハクは拘束されたあやかしに向け、再び掌を掲げた。ハクの指先に、先ほどより鋭い神力の光が集まり始めている。
ハクの横顔から、感情は読み取れない。淡い青の瞳は、あやかしへと向けられていたが、そこに憎悪はなかった。
神力を集める腕を、黒い呪紋がさらに強く締めつけている。
「お待ちください」
桜来はあやかしを背に庇い、ハクと正面から向き合った。背後から獣の荒い息遣いが届き、首筋に緊張が走る。
桜来が間へ入った瞬間、ハクは神力を放つ手をわずかに引いた。
「退け」
「この者たちは、ムクと同じものに侵されています」
「だからなんだ」
「ムクの穢れは、薬草で抑えることができました。この者たちにも、同じ処置が効く可能性があります」
「ムクとは穢れの深さが違う」
「それでも、なにも試さずに命を絶つことはできません」
桜来の背後で、拘束されたあやかしが再び牙を鳴らした。あやかしの身体は穢れに震えながらも、なお桜来へ向かおうとしていた。
危険が背後に迫っていることは、振り返らなくても分かった。
恐怖がないわけではない。それでも、桜来は薬入れから手を離さなかった。
「次に襲われれば、お前が死ぬ」
「危険があることは分かっています」
「そなたは分かっていない。そいつらは、そなたの命を狙っておるのだぞ」
「今はそのようなことはどうでもいいのです。治せる可能性があるのですから試させてください」
ハクはすぐには答えなかった。獣のうなり声だけが、二人の間の沈黙を埋めた。
短い沈黙の間にも、拘束の光は弱まり続けていた。
「……退くつもりはないのか」
「ございません」
「失敗すれば、お前も同じものに侵される」
「承知しています。でも、それがなにもしない理由にはなりません」
そのとき、ムクがあやかしの足元へと視線を落とす。ムクは雪の上に残る黒い筋をたどり、森の奥を指さした。
「桜来、見て。黒いものが、あっちまで続いてる」
「……この穢れには、流れてきた場所があります」
黒い跡は、木々の奥へと一本の道を描くように続いている。黒く染まった雪の先には、枯れた木々と深い影だけが続いていた。
ムクの耳が鋭く立ち、森の奥へと向けられる。
桜来の前へ出るように、ハクが無言で位置を変えた。
「待って」
「どうしました?」
「今、向こうから音がした」
「ああ、確かに。我にも聞こえたぞ」
「仲間の匂いもする。薄いけど、今度は分かる」
「先ほど見失った匂いと同じですか?」
「うん。でも……変な匂いも一緒にする」
「変な匂い?」
「その匂いは穢れだ」
「けがれ……怖い。でも仲間がいるかもしれない。行きたい」
「我より前に出るなよ、ムク」
「分かった」
「私も行きます」
「聞くまでもない。お前も我の後ろにいろ」
ハクを先頭に、三人は音のした方角へ進む。
雪の上には複数の足跡が乱れ、同じ場所をさまようように重なっていた。
木々の間に、いくつもの黒い影が現れた。現れたあやかしたちの身体には、毛並みを覆うように黒い穢れがこびりついている。
「……みんな?」
痩せた身体には黒い筋が走り、吐く息にも煤のようなものが混じっていた。
「近づくな。今、あいつらは正気を失っている」
「身体に黒いものが――」
「ぼくについていたのと同じだ」
「どうか落ち着いてください。こちらから傷つけるつもりはございません」
濁っていたあやかしの目が、桜来の胸元にある雪代家の紋を捉えた。
「あれは……雪代……雪代の人間だ!」
桜来は相手の視線をたどり、自分の白装束へ目を落とした。
「雪代の家紋? この紋をご存知なのですか?」
「奪った……森を……返せ!」
唸り声が一斉に低くなり、森の空気が張り詰めた。
雪代家の紋を見た途端、あやかしたちの警戒が明確な敵意へと変わった。
「今は話が通じる状態ではない。下がれ」
「ですが、私の白装束を見て反応しています」
「だからこそ、お前は下がれ」
「来るよ!」
獣型のあやかしが雪を蹴り、桜来へ飛びかかった。
桜来が身構えるより早く、ハクがその前へ踏み込む。ハクは片腕を上げ、桜来とあやかしの間へ身体を滑り込ませた。ハクの神衣が桜来の視界を覆い、次の瞬間には大きな背中が彼女の前にあった。
ハクが掌を向けると、淡い光があやかしの四肢へと絡みつく。神力の光が鎖のように伸び、飛びかかったあやかしを雪の上へ押し留めた。
「動くな」
あやかしが地面へ押し戻され、雪が大きく舞い上がった。
桜来の呼吸が止まり、遅れて心臓が強く脈打った。飛び散った雪の冷たさが頬に触れた。
ハクの首筋に浮かぶ呪紋が、脈打つように黒さを増している。手首を覆っていた呪紋が、神力を放つ腕を這うように広がった。
「ハク様、呪紋が――」
再び獣たちのうなり声が強まり始めた。
「今はそれを気にしている場合ではない。そなたはムクを連れて逃げろ」
「いいえ。このような状態のあなたを残してはいけません」
「そなたが残れば足手まといになる」
「ハク様、あいつらは悪いあやかしじゃないよ。森にいた仲間なんだ」
「ああ、そうだ。だが今は正気を失っている。このまま放てば、お前たちだけでなく、ほかのあやかしをも襲うだろう」
あやかしの脚に広がる黒い筋を目で辿り、桜来はムクへと視線を移した。
「彼らを鎮める方法はないのですか?」
「ない」
「そんな……」
あやかしは牙をむきながらも、身体の痛みに耐えるよう何度も震えている。
黒い筋が脈打つたび、あやかしの四肢が不自然に痙攣した。
桜来には、敵意の奥に、穢れに抗おうとする苦痛が残っているように見えた。
「せめてもの情だ。苦しませる前に終わらせる」
ハクは拘束されたあやかしに向け、再び掌を掲げた。ハクの指先に、先ほどより鋭い神力の光が集まり始めている。
ハクの横顔から、感情は読み取れない。淡い青の瞳は、あやかしへと向けられていたが、そこに憎悪はなかった。
神力を集める腕を、黒い呪紋がさらに強く締めつけている。
「お待ちください」
桜来はあやかしを背に庇い、ハクと正面から向き合った。背後から獣の荒い息遣いが届き、首筋に緊張が走る。
桜来が間へ入った瞬間、ハクは神力を放つ手をわずかに引いた。
「退け」
「この者たちは、ムクと同じものに侵されています」
「だからなんだ」
「ムクの穢れは、薬草で抑えることができました。この者たちにも、同じ処置が効く可能性があります」
「ムクとは穢れの深さが違う」
「それでも、なにも試さずに命を絶つことはできません」
桜来の背後で、拘束されたあやかしが再び牙を鳴らした。あやかしの身体は穢れに震えながらも、なお桜来へ向かおうとしていた。
危険が背後に迫っていることは、振り返らなくても分かった。
恐怖がないわけではない。それでも、桜来は薬入れから手を離さなかった。
「次に襲われれば、お前が死ぬ」
「危険があることは分かっています」
「そなたは分かっていない。そいつらは、そなたの命を狙っておるのだぞ」
「今はそのようなことはどうでもいいのです。治せる可能性があるのですから試させてください」
ハクはすぐには答えなかった。獣のうなり声だけが、二人の間の沈黙を埋めた。
短い沈黙の間にも、拘束の光は弱まり続けていた。
「……退くつもりはないのか」
「ございません」
「失敗すれば、お前も同じものに侵される」
「承知しています。でも、それがなにもしない理由にはなりません」
そのとき、ムクがあやかしの足元へと視線を落とす。ムクは雪の上に残る黒い筋をたどり、森の奥を指さした。
「桜来、見て。黒いものが、あっちまで続いてる」
「……この穢れには、流れてきた場所があります」
黒い跡は、木々の奥へと一本の道を描くように続いている。黒く染まった雪の先には、枯れた木々と深い影だけが続いていた。