雪の国の生贄花嫁
第13話
「ここから先は、我らも滅多に近づかぬ」
長老が示した先では、木々の隙間を埋めるように黒い蔓が絡み合っている。
奥に進むほど雪の白さは失われ、地表には黒い筋が網目のように広がっていた。
「さっきより、嫌な匂いが強くなった気がするよ。土の下からもする」
「この黒いものが、御神木まで続いているのですか?」
「ああ。楔が打たれてから、森の根に成り代わるように広がった」
「先へ進むぞ」
ハクの首筋に浮かぶ黒い呪紋は、神衣の襟元に向かって枝分かれしており、袖口からのぞく手首の呪紋は、先ほどよりも指先に近い場所まで広がっている。
呪紋の広がりを認めた瞬間、桜来の胸の奥に冷たいものが落ちた。
「ハク様、呪紋が先ほどより――」
「構うな」
「ですが、この先はさらに穢れが濃くなるはずです」
「だから急ぐ」
桜来は一度口を閉ざし、足元に広がる黒い根へ視線を落とした。
「……分かりました」
飲み込んだ言葉が、喉の奥に硬く残った。
「桜来、本当に大丈夫?」
「ええ、心配なのは私よりもハク様です。呪紋がこれ以上影響を与える前に神殿に戻るべきなのかもしれません」
「でも確かめたいことがあるんでしょ?」
「はい、その通りです」
「確かめたいこと? それはなんだ?」
「雪の下で動いている根です。森の薬草にどのような影響が出ているのか、見ておきたいのです」
桜来は道の脇へ膝を折り、雪を薄く払って黒い根の周囲を確かめる。雪の下から現れた葉は黒ずみ、葉脈に沿って濁った色が広がっていた。
「今、調べる必要があるのか?」
問いかけた長老は、先を急ぐように御神木の方角を見たまま足を止めた。ハクも数歩先で立ち止まり、振り返らずに桜来の返答を待っている。
「御神木へ近づく前に、穢れがどのように広がっているのか知っておいた方がよいと思います」
「……手短にしろ」
「承知しました」
「こっちの薬草も黒くなってるよ」
「見せてください。ムク、根元には触れないでくださいね」
「今度はなにを調べるつもりだ?」
「先ほどのものとは、蔓の伸びる方向が異なっております」
「そうか」
「もう少しだけお待ちください」
「……好きにしろ」
ハクは追及せず、木の幹のそばで足を止めた。
桜来の意図を見抜いているはずだった。それでも、ハクはなにも言わない。礼も拒絶もない沈黙が、桜来の作った短い休息を素直に受け入れていた。
「ハク様は、桜来が止まるたびに休んでるね」
「黙れ」
「ムク、足元をしっかり見てください。黒い根を踏んではいけません」
「はーい」
***
「……着いた」
木々が途切れた先に、周囲の森を見下ろすほど巨大な白い樹木が立っていた。
白い幹には深い亀裂のような黒い筋が走り、枝先には一輪の花も残っていない。
風は止んでいるにもかかわらず、枝の奥から低い軋みが聞こえた。
「あれが、御神木?」
「雪よりも白い木だと聞いていました」
「以前はな。春を待たずとも白い花を咲かせ、森全体にへ力を巡らせていた」
「でも、花がひとつもないよ」
「すべて、あれに奪われた」
「楔が打ち込まれて以来、御神木へ触れた者は皆、穢れに飲まれた。決して不用意に近づいてはならぬ」
「幹に打ち込まれているものが……楔ですか」
御神木の幹には、人の腕ほどの長さを持つ黒い楔が深く打ち込まれていた。
楔の周囲から伸びた黒い筋は、御神木の根を侵しながら地中へ広がっている。脈打つたび、黒い筋の内側を濁った光が走り、楔へ吸い込まれていった。
「ああ、そうだ」
ハクは黒い楔を見据えたまま答えた。
「奪われた力が分からないはずはないだろう」
「紋章が刻まれています」
「人間の印か」
「雪代家の紋章です」
見慣れた紋章から目を離さないまま、桜来は小さく息を継いだ。
何度も目にしてきた形が、胸の奥へ冷たく食い込む。
「桜来の家の?」
「……ええ」
「では、やはり人間が御神木を穢したのか」
「この紋章だけで、誰がなんのために打ち込んだのかまでは分かりません。ですが、雪代家が無関係とは考えられません」
「この中に、我の神力がある」
「分かるのですか?」
「奪われた力が分からないはずはないだろう」
長老は黒い楔とハクを交互に見た。
「楔は、御神木だけでなく、白狼神の力まで吸っているというのか」
「あの根は森から力を集め、楔へ運んでいる。御神木が枯れれば、次は森そのものが死ぬ」
ハクは言い終えると、御神木の前へ足を踏み出した。
楔へ近づくにつれ、ハクの首筋にある呪紋が濃さを増していく。
「お待ちください。近づけば、なにが起きるか――」
桜来は異変を認めると同時に、ハクを呼び止めようとした。だが伸ばしかけた手は届かず、制止の声だけが先に出た。
「そなたは離れていろ」
楔の周囲に刻まれた術式が黒く光り、その中心から幾筋もの鎖が噴き出した。黒い鎖はハクの手首と胸元へ巻きつき、御神木の前へ縫い留めるように張り詰める。
鎖が触れた箇所から呪紋が黒く染まり、首筋まで一気に広り、楔と呪紋の間を、奪われた光が逆流するように走った。
「ハク様!」
「来るな!」
「その鎖は、呪紋につながっています」
「楔が白狼神を捕らえようとしているのか」
「この程度で――」
ハクの身体から白い光が立ち上がり、黒い鎖を内側から押し広げた。
ハクが神力を込めた瞬間、白い光が鎖を伝い、楔へ流れ込んだ。
神力を吸い込んだ楔は一段と大きく脈打ち、黒い根を地面の上まで膨らませた。
「力を使ってはなりません!」
「なぜ止めるのだ!」
「ハク様が力を使うほど、楔の脈動が強くなっているのでございます」
「放った神力を吸っているというのか?」
「おそらく。ハク様がもう一度力を使えば、さらに奪われます」
「ならば、力を使わず断つ」
「私が引き離します」
「近づくなと言っただろ」
「その命には従えません」
「白狼神、そなたは鎖を抑えよ。我らが影響の届かぬ場所まで引く」
「……勝手にしろ」
「はい。そうさせていただきます」
桜来は黒い根を避けてハクの横へ回り、鎖の届かない側から彼の腕を支える。長老が鎖の張る方向を見定め、桜来とは反対側からハクの身体を支えた。
「ぼくも手伝う」
「ムクは黒い根の動きを見ていてください。集まってくるものがあれば、すぐに教えて」
「分かった!」
ハクが鎖を押さえている間に、桜来と長老は御神木から離れる方向へその身体を引いた。鎖はハクを楔へ引き戻そうと張り詰めている。桜来は崩れる雪へ足を取られながらも、長老とともに一歩ずつ後退した。
御神木から一定の距離を越えた瞬間、黒い鎖が張力を失う。
桜来と長老がさらに一歩退くと、鎖はハクの身体から剥がれ、地面へ届く前に霧散した。
「ハク様、呪紋は?」
鎖が消えると同時に、桜来はハクの腕を支えたまま呪紋へ視線を走らせた。
「先ほどに比べればマシだ」
「広がったものが消えたわけではないので、安心はできません」
「動ける。それで十分だ」
「十分かどうかは、私が判断します」
「誰にものを言っている」
「治療を必要とする方に言っております」
ハクは反論せず、桜来を見下ろしたまま口を閉ざす。
淡い青の目が桜来を捉え、やがて御神木へと戻った。
「……楔を調べろ」
ハクは支えられていた腕を引き、神衣の袖で呪紋を覆った。
「承知しました。すぐに」
長老が示した先では、木々の隙間を埋めるように黒い蔓が絡み合っている。
奥に進むほど雪の白さは失われ、地表には黒い筋が網目のように広がっていた。
「さっきより、嫌な匂いが強くなった気がするよ。土の下からもする」
「この黒いものが、御神木まで続いているのですか?」
「ああ。楔が打たれてから、森の根に成り代わるように広がった」
「先へ進むぞ」
ハクの首筋に浮かぶ黒い呪紋は、神衣の襟元に向かって枝分かれしており、袖口からのぞく手首の呪紋は、先ほどよりも指先に近い場所まで広がっている。
呪紋の広がりを認めた瞬間、桜来の胸の奥に冷たいものが落ちた。
「ハク様、呪紋が先ほどより――」
「構うな」
「ですが、この先はさらに穢れが濃くなるはずです」
「だから急ぐ」
桜来は一度口を閉ざし、足元に広がる黒い根へ視線を落とした。
「……分かりました」
飲み込んだ言葉が、喉の奥に硬く残った。
「桜来、本当に大丈夫?」
「ええ、心配なのは私よりもハク様です。呪紋がこれ以上影響を与える前に神殿に戻るべきなのかもしれません」
「でも確かめたいことがあるんでしょ?」
「はい、その通りです」
「確かめたいこと? それはなんだ?」
「雪の下で動いている根です。森の薬草にどのような影響が出ているのか、見ておきたいのです」
桜来は道の脇へ膝を折り、雪を薄く払って黒い根の周囲を確かめる。雪の下から現れた葉は黒ずみ、葉脈に沿って濁った色が広がっていた。
「今、調べる必要があるのか?」
問いかけた長老は、先を急ぐように御神木の方角を見たまま足を止めた。ハクも数歩先で立ち止まり、振り返らずに桜来の返答を待っている。
「御神木へ近づく前に、穢れがどのように広がっているのか知っておいた方がよいと思います」
「……手短にしろ」
「承知しました」
「こっちの薬草も黒くなってるよ」
「見せてください。ムク、根元には触れないでくださいね」
「今度はなにを調べるつもりだ?」
「先ほどのものとは、蔓の伸びる方向が異なっております」
「そうか」
「もう少しだけお待ちください」
「……好きにしろ」
ハクは追及せず、木の幹のそばで足を止めた。
桜来の意図を見抜いているはずだった。それでも、ハクはなにも言わない。礼も拒絶もない沈黙が、桜来の作った短い休息を素直に受け入れていた。
「ハク様は、桜来が止まるたびに休んでるね」
「黙れ」
「ムク、足元をしっかり見てください。黒い根を踏んではいけません」
「はーい」
***
「……着いた」
木々が途切れた先に、周囲の森を見下ろすほど巨大な白い樹木が立っていた。
白い幹には深い亀裂のような黒い筋が走り、枝先には一輪の花も残っていない。
風は止んでいるにもかかわらず、枝の奥から低い軋みが聞こえた。
「あれが、御神木?」
「雪よりも白い木だと聞いていました」
「以前はな。春を待たずとも白い花を咲かせ、森全体にへ力を巡らせていた」
「でも、花がひとつもないよ」
「すべて、あれに奪われた」
「楔が打ち込まれて以来、御神木へ触れた者は皆、穢れに飲まれた。決して不用意に近づいてはならぬ」
「幹に打ち込まれているものが……楔ですか」
御神木の幹には、人の腕ほどの長さを持つ黒い楔が深く打ち込まれていた。
楔の周囲から伸びた黒い筋は、御神木の根を侵しながら地中へ広がっている。脈打つたび、黒い筋の内側を濁った光が走り、楔へ吸い込まれていった。
「ああ、そうだ」
ハクは黒い楔を見据えたまま答えた。
「奪われた力が分からないはずはないだろう」
「紋章が刻まれています」
「人間の印か」
「雪代家の紋章です」
見慣れた紋章から目を離さないまま、桜来は小さく息を継いだ。
何度も目にしてきた形が、胸の奥へ冷たく食い込む。
「桜来の家の?」
「……ええ」
「では、やはり人間が御神木を穢したのか」
「この紋章だけで、誰がなんのために打ち込んだのかまでは分かりません。ですが、雪代家が無関係とは考えられません」
「この中に、我の神力がある」
「分かるのですか?」
「奪われた力が分からないはずはないだろう」
長老は黒い楔とハクを交互に見た。
「楔は、御神木だけでなく、白狼神の力まで吸っているというのか」
「あの根は森から力を集め、楔へ運んでいる。御神木が枯れれば、次は森そのものが死ぬ」
ハクは言い終えると、御神木の前へ足を踏み出した。
楔へ近づくにつれ、ハクの首筋にある呪紋が濃さを増していく。
「お待ちください。近づけば、なにが起きるか――」
桜来は異変を認めると同時に、ハクを呼び止めようとした。だが伸ばしかけた手は届かず、制止の声だけが先に出た。
「そなたは離れていろ」
楔の周囲に刻まれた術式が黒く光り、その中心から幾筋もの鎖が噴き出した。黒い鎖はハクの手首と胸元へ巻きつき、御神木の前へ縫い留めるように張り詰める。
鎖が触れた箇所から呪紋が黒く染まり、首筋まで一気に広り、楔と呪紋の間を、奪われた光が逆流するように走った。
「ハク様!」
「来るな!」
「その鎖は、呪紋につながっています」
「楔が白狼神を捕らえようとしているのか」
「この程度で――」
ハクの身体から白い光が立ち上がり、黒い鎖を内側から押し広げた。
ハクが神力を込めた瞬間、白い光が鎖を伝い、楔へ流れ込んだ。
神力を吸い込んだ楔は一段と大きく脈打ち、黒い根を地面の上まで膨らませた。
「力を使ってはなりません!」
「なぜ止めるのだ!」
「ハク様が力を使うほど、楔の脈動が強くなっているのでございます」
「放った神力を吸っているというのか?」
「おそらく。ハク様がもう一度力を使えば、さらに奪われます」
「ならば、力を使わず断つ」
「私が引き離します」
「近づくなと言っただろ」
「その命には従えません」
「白狼神、そなたは鎖を抑えよ。我らが影響の届かぬ場所まで引く」
「……勝手にしろ」
「はい。そうさせていただきます」
桜来は黒い根を避けてハクの横へ回り、鎖の届かない側から彼の腕を支える。長老が鎖の張る方向を見定め、桜来とは反対側からハクの身体を支えた。
「ぼくも手伝う」
「ムクは黒い根の動きを見ていてください。集まってくるものがあれば、すぐに教えて」
「分かった!」
ハクが鎖を押さえている間に、桜来と長老は御神木から離れる方向へその身体を引いた。鎖はハクを楔へ引き戻そうと張り詰めている。桜来は崩れる雪へ足を取られながらも、長老とともに一歩ずつ後退した。
御神木から一定の距離を越えた瞬間、黒い鎖が張力を失う。
桜来と長老がさらに一歩退くと、鎖はハクの身体から剥がれ、地面へ届く前に霧散した。
「ハク様、呪紋は?」
鎖が消えると同時に、桜来はハクの腕を支えたまま呪紋へ視線を走らせた。
「先ほどに比べればマシだ」
「広がったものが消えたわけではないので、安心はできません」
「動ける。それで十分だ」
「十分かどうかは、私が判断します」
「誰にものを言っている」
「治療を必要とする方に言っております」
ハクは反論せず、桜来を見下ろしたまま口を閉ざす。
淡い青の目が桜来を捉え、やがて御神木へと戻った。
「……楔を調べろ」
ハクは支えられていた腕を引き、神衣の袖で呪紋を覆った。
「承知しました。すぐに」