雪の国の生贄花嫁

第15話

「思い出すのだ。お前は、この森を傷つける者ではないはずだ」

 守護獣の耳が長老の声を拾うように動き、振り上げられていた前脚が止まった。

 荒い唸り声が途切れ、白濁していた瞳が長老の姿を捉えた。

「なあ、聞こえるか? お前の身体を動かしているのは、お前の意思ではないのだ」

 守護獣は牙を剥いたまま、苦しげに首を振った。攻撃を拒もうとしているようにも見えた。

 次の瞬間、守護獣の胴に食い込んだ黒い根が脈打ち、その身体を強く引いた。

 御神木から伸びた根が収縮すると、止まっていた前脚が再び持ち上がった。黒い筋が守護獣の白い毛の下を走り、その瞳が再び濁った。

「よく見てよ。僕たちは、敵じゃないよ」

「皆さんの声は届いています。守護獣が自らの意思を取り戻す度に、あの黒い根がそれを抑え込んでいるようです」

「じゃあ、どうすればいいの?」

 ムクが答えを求めるように桜来の手を握った。

 握られた手にわずかに力を返し、桜来は根と守護獣の動きを見比べた。

 桜来はムクを安心させる言葉を探す代わりに、目の前の異変を見極めようとしていた。

「おそらく守護獣を攻撃しても解決策にはなりません。守護獣の身体に繋がっている根を引き離す必要があります」

 ハクの淡い青の瞳が、守護獣から黒い根へ移る。

 ハクの沈黙は拒絶ではなく、状況を見定めるためのものに感じられた。

「根を引き離す? それはどうやるのだ?」

「私が根の動きを鈍らせます」

「そなたはどうやって根の動きを鈍らせるのだ?」

「試せる薬がございます。根の再生を止めることは難しいかもしれませんが、少なくとも動きを遅らせることは可能だと思います。その間に、守護獣から引き離してください」

「その方法に頼るしかないようだな。わしが根を引き離せばよいのだな?」

「はい、そのとおりでございます」

「承知した。それでは、ハク様。守護獣の方は頼みましたよ」

「……仕方がない」

「合図は私が」

 ハクと長老がそれぞれ頷いた。

 桜来は薬入れを開き、残っていた薬と、樹液を固める性質を持つ薬草を取り出した。薬草を崩した途端、冷気の中へ青臭く渋い香りが広がる。指先に残る樹脂質の感触を確かめ、桜来は薬を握り直した。

 長老は守護獣の側面へ回り、黒い根へ手が届く位置を陣取る。

 ハクは桜来と守護獣の間に立つ。

 ムクを後方に下がらせると、桜来は薬を構えた。

「ハク様、守護獣の気を引いてください」

 ハクの手から放たれた白い光が守護獣の足元を打ち、巨体を御神木から遠ざける。

 守護獣が咆哮し、ハクを追って雪を蹴った。

「長老様、薬を使います」

 桜来は狙いを定め、黒い根へ薬を投げつけた。桜来の手を離れた薬が、守護獣の胴へ食い込む根の上で弾ける。

 薬が根へ付着すると、桜来は効果を見極めるため動きを注視した。

 薬に触れた部分から灰色に変わり、根の収縮が止まった。

「根の動きが止まりました。今です! 引き離してください」

 守護獣が暴れるのをハクが正面から受け止め、その隙に長老が根を引いた。

 黒い根が守護獣の身体から剥がれ、地面へ落ちた。

 最後の一本が引き離されると、守護獣の身体から力が抜けた。

 根が外れた箇所から黒い筋が薄れ、白い毛並みがわずかに戻った。

 しかし、切り離された根の断面が蠢き、新たな先端を伸ばし始めた。

 御神木に残る楔が脈打つと、新たな根が守護獣へ向かって伸びた。

「いかん。また根が伸び始めた」

「楔が残る限り、何度引き離しても同じことだ」

 頭上から、木の裂ける鋭い音が響いた。黒い筋に覆われた太い枝が大きくしなり、幹との境目に亀裂が走る。

 御神木が軋み、雪を積もらせた枝が根元から傾いた。

 折れた枝が雪を巻き上げながら、ムクと長老のいる場所へと落ちてくる。

 ムクが頭上を見上げ、動きを止めた。

 長老はムクを庇うように身を寄せたが、枝の下から逃れるだけの時間はない。

 ムクの兎耳が恐怖に伏せられた。

 桜来は考えるより先に、二人に向かって駆け出した。

 ハクは守護獣の巨体を片腕で押さえたまま、ムクたちの頭上に向かって手を伸ばした。

 ハクの指先から白い神力が迸り、ムクと長老の前で一気に凝結した。

 透き通った氷がムクと長老を覆うように広がり、それに枝が激しくぶつかった。

 手首と胸元を覆っていた黒い紋様が、白い首筋に這い上がっていく。

 再生する根、ひび割れた氷の壁、白狼神の首筋まで広がる呪紋。

 守護獣を押さえ続ければハクの力が奪われる。手を放せば、守護獣は再び御神木と森のあやかしたちを襲う。

 薬で根の動きを鈍らせても、楔が新しい根を生み出す。このまま同じ方法を繰り返すことはできない。

 守護獣だけを倒しても、御神木を侵す楔は残る。次の犠牲が生まれるだけだった。

 焦りに指先が冷えていく。それでも桜来は呼吸を整え、目の前の状況をひとつずつ見直していた。

 桜来の視線が、ハクの呪紋から御神木の楔へと移る。

 黒い根を辿った先で、楔は変わらず御神木の力を吸い続けている。

 すべての異変は、あの楔へと繋がっていた。

「これ以上長引けば、守護獣の肉体が持たなくなってしまう」

 長老はわずかな絶望をにじませ、神妙な面持ちで呟いた。

「苦しそうにしてるよ」

 ムクは悲しそうに瞳を揺らした。

「ハク様、これ以上神力を使ってはなりません。呪紋が……」

 守護獣を押さえ込むハクの手首から、黒い紋様が這い上がっていた。氷の壁を維持するたびに脈打ち、今や白い神衣の襟元を越えて首筋にまで達している。

「我のことは良い。それよりもこのままでは守護獣よりも御神木が保たないぞ」

 ハクの視線の先で、御神木の幹に新たな亀裂が走った。黒い根が脈打つたびに枝葉が激しく揺れ、幹の内側から乾いた軋みが響く。

「やはり根を引き離すだけでは足りないようですね。楔そのものを壊さなければ……」

 先ほど引き離したはずの根は、すでに守護獣の身体へ絡みつき始めていた。薬で動きを鈍らせることはできても、楔が残る限り新たな根が生み出される。

「あとは我に任せて、そなたは下がれ」

 ハクは守護獣を押さえる腕へ力を込めた。黒い呪紋がさらに濃く浮かび上がる。

「ですが、ハク様……」

「そなたは、今、自身にできることをすればよい」

 思いがけない言葉に、桜来はハクを見つめた。

「私にできること……でございますか?」

「そなたは長老やムクを連れて、この場から離れろ」

 桜来は返事をせず、黒い根を目で辿り、その先にある楔を見据えた。

 ここから退いても、守護獣も御神木も救われない。

 別の方法が必要だった。

「私の血をあの楔に使います」

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