雪の国の生贄花嫁

第16話

 淡い青の瞳が鋭さを増し、桜来を捉えた。

「……なんだと?」

「ムクを助けたとき、私の血が穢れを消しました。あれが偶然でなければ、楔にも作用するかもしれません。それに……」

「なんだ?」

「御神木に刻んであった『意志』と『解く』という文字……私が自分の意志で自らの血を使えば、楔を壊せるのかもしれません」

「そなた……」

「ハク様は私が楔に近づけるよう隙を作ってください」

「駄目だ」

「ハク様?」

「どれほどの血が要るのかも、その先になにが起こるのかも分からない。そのようなことは認められん」

「ですが……」

「たった一度穢れが消えた。それだけで命を賭けるつもりか?」

「命を差し出すつもりはありません。使うのは、必要な分だけです」

「なにが『必要な分だけ』だ。その量さえ、お前にも分からぬはずだ」

「確かにハク様のおっしゃるとおりです。ですがこのままでは、守護獣も長老も、森に生きる者たちも失われてしまいます。万が一にでも救える可能性があるなら、私は試したいと思います」

「それは許さん」

「使うのは私の血でございます。ハク様の許可は必要ありません」

 桜来はハクの返答を待たず、薬入れから小刀を取り出した。

 誰かに差し出せと命じられた血ではない。桜来自身が、救いたいと望んで使う血だった。

 この選択が正しいかは桜来にも分からない。それでも、自分の身体をどう使うかまで他者に委ねるつもりはなかった。

 ハクの目が小刀を捉えた。制止しようと一歩踏み出した瞬間、押さえられていた守護獣が激しく暴れた。

 桜来を止めるために力を緩めれば、守護獣が長老たちに襲いかかってしまう。

 ハクに桜来を引き止める暇は与えられなかった。

 その間に桜来は、掌に小刀の刃を引き、小さな傷をつけた。

 刃が皮膚を裂き、細い血の線が掌に浮かぶ。

 冷気に触れた傷が焼けるように痛み、指先が強張る。掌から伝わる熱だけが、凍える空気の中でひどく鮮明だった。

 小刀の刃に残った血が、御神木から漏れる黒い光を映す。

 桜来は傷つけた手を庇うことなく、御神木の根元へと駆ける。

「やめろ」

 ハクは桜来を制止しながらも、襲いかかる守護獣を押し返す。守護獣の爪が桜来へ向かう前に、ハクがその巨体を横から受け止めた。

 桜来は血の滲む掌を、黒い楔の表面へ押し当てた。冷え切った楔に掌が触れ、傷口から流れた血が黒い表面へと広がる。

 血の跡をなぞるように白い光が広がり、楔へ細い亀裂が生じた。

 傷の痛みが消えたかと思うと、全身を内側から引き裂くような感覚が襲った。

 桜来の身体を通して、楔に閉じ込められていた力が一気に動き始めた。

 足元の感覚が揺らぎ、楔に触れている感覚さえ遠のきかけた。

 長い間奪われ続けてきた生命の苦しみが、ひとつの濁流となって桜来を呑み込んだ。

 枯れていく木々。雪の中へ倒れるあやかしたち。行き場を失い、森から追われる小さな影。断片的な光景が桜来の脳裏に浮かぶ。それがいつ、誰によって引き起こされた光景なのかまでは分からない。

 視界が白く霞み、身体が傾く。意識が遠のくたび、掌に込めた力まで失われそうになる。

 倒れかけた身体を、背後から伸びてきた腕が支える。

 ハクは桜来の身体を支えながら、楔に向かって神力を流し続けている。

 二人の力が重なった場所から、亀裂が楔の上下へと伸びた。

 白い光が黒い表面を切り裂き、蜘蛛の巣のような亀裂が広がる。

 楔の中心から硬いものの軋む音が響いた。

 楔が抵抗するように脈打ち、御神木全体が大きく揺れた。

 守護獣につながる根が緩み、その巨体から黒い筋が少しずつ退いていく。

 地面の下でなにかが動き始め、凍った土の奥から低い響きが伝わった。

「もう十分だ。手を離せ」

 背後から支える腕が、桜来を引き離そうとするように強まった。

 指先の感覚はほとんど残っていない。それでも、亀裂が楔全体へ届くまでは離せなかった。

 掌から流れる血とともに、身体から力が抜けていく。

 ハクは楔へと向けていた視線を桜来に落とした。

 桜来はハクに支えられながら、途切れそうになる言葉を繋ぐ。

「まだ楔が残っています」

「そなたはなぜ、そこまでして他者を救おうとする? 相手は人間ではなく、人ならざる者だぞ」

「相手が人間なのか、人ならざる者か。私にとってそれは大した問題ではございません」

「それはどういう意味だ?」

「それしか……私にできることがありませんから。誰かを救えるなら、私にもここにいる意味があります」

 ハクはなにも答えなかった。背後から伝わっていた神力が、一度だけ揺らいだ。

 返答のない沈黙を、強まっていく白い光が満たした。

 その答えがハクにどう届いたのか、桜来には確かめる余裕がなかった。

 そして次の瞬間、強い光に視界が白く染まり、遅れて地面を揺らす衝撃が届いた。

 耳を塞ぎたくなる轟音のあと、不意に周囲からすべての音が消えた。

 楔から伸びていた根が、先端から灰のように崩れていく。

 根から解放された守護獣の身体から、黒い筋が一気に引いていく。

 濁っていたその瞳が本来の色を取り戻し、逆立っていた白い毛並みが落ち着いていく。

 守護獣は一度大きく息を吐き、その場に崩れるように倒れた。

 御神木を覆っていた黒い筋が根元から薄れていく。

 地中に奪われ続けていた神力と生命力が、解き放たれるように森へと戻っていく。

 光は雪の下を走り、枯れていた木々の根に次々に行き渡った。

 御神木の根元で雪が小さく盛り上がり、その下から白い蕾が顔を出した。

 桜来は霞む視界の中で、その白い花の蕾を見つめた。

 守護獣も御神木も失われてはいない。それを確かめると、桜来の中で、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。

 これ以上、楔へ手を押し当てておく必要はない。

 そのことに気づいた途端、身体から力が抜けていった。

 白い花の輪郭が滲み、桜来の意識はそこで途切れた。

 倒れた桜来を、ハクの腕が受け止める。

 楔に奪われていた神力の一部が、白い光となってハクのもとへと戻っていく。

 首筋まで広がっていた呪紋の動きが止まり、その一部が薄れていった。

 戻った神力と時を同じくして、遠く離れた場所から異質な揺らぎが伝わってきた。それは、新たな異変の始まりを告げるものだった。

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