4時半のラップと21時の報告
# 七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない

## 番外編1 琥珀色

十月一日の朝。

目玉焼きを二つ焼いて、トーストを二枚焼いて、コーヒーを二人分淹れる。

テーブルに皿を並べていると、ソファの上の毛布の塊がもぞりと動いた。

「……おはよ」

「おはよう」

海音が、寝癖だらけの頭で起き上がる。

この一週間で、ようやくここまで戻った。

九月の半ばまでは、目も合わせなかった。

夕飯は寝室で一人で食べて、扉はぴったりと閉めて、朝は自分の分のトーストだけを焼いて、立ったまま食べて家を出ていた。

それが先週、疲れて、何をしているんだろうと思って、皿を持ってリビングに出た。

海音がおそるおそる「……世界一」と言って、亜美は吹き出してしまった。

それから、また二人で食卓を囲んでいる。

でも、それだけだった。

あの夜のことは、どちらも口にしていない。

ピンク色のヘアゴムも、口紅のついたグラスも、玄関の外に放り投げた服も、溶けたアイスも。

何もなかったみたいに、目玉焼きを食べて、世界一と言われて、はいはいと返している。

「今日、バイト?」

亜美が訊くと、海音は少しだけ間を置いてうなずいた。

「……うん。朝から」

最近、海音は平日の朝に起きるようになった。

何のバイトなのかは、言わない。

亜美も、訊かない。

「いってきます」

亜美は鞄を持って、玄関で靴を履いた。

振り返らなかった。

 

会社のフロアは、朝の八時半でもう半分ほど埋まっていた。

窓の外に、秋晴れの空が広がっている。

亜美がデスクにつくと、課長が書類を片手にやってきた。

「早瀬さん、ちょっといい?」

「はい」

「今日から、秋のインターン生が来るって言ってたでしょ。うちの部に一人」

課長は、書類を亜美の机に置いた。

「指導係、お願いできないかな。二か月」

亜美は、瞬きをした。

「わたしですか」

「面倒見いいし。去年の新人、早瀬さんに育ててもらったって、みんな言ってるよ」

課長は、にこにこと笑った。

断る理由は、なかった。

亜美は、書類を手に取った。

インターン受け入れ名簿。

大学名。学部。学年。

大学三年、二十一歳。

ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。

二十一歳。

「……男の子ですか」

「そう。社会学部。ダンスやってるらしいよ。なんか、大会で賞取ってるって」

課長は、どこか楽しそうに言った。

「朝礼で紹介するから、よろしくね」

亜美は、名簿の名前の欄に目を落とした。

鏡、琥珀。

かがみ、こはく。

変わった名前だな、と思った。

それ以上は、考えなかった。

考えないようにした。

二十一歳の男の子なんて、家に一人いるだけで十分だった。

 

九時。

朝礼で、フロアの全員が立ち上がった。

課長の隣に、背の高い青年が立っていた。

亜美は、思わず息を呑んだ。

黒いスーツ。

量販店のものではない、体にぴったり合った仕立て。

背筋がまっすぐに伸びていて、肩から指先まで、無駄な力がどこにも入っていない。

ダンスをやっている人の立ち方だ、と思った。

それから、顔。

整っていた。

ひどく、整っていた。

少しだけ垂れた目尻。

すっと通った鼻筋。

柔らかそうな黒髪は、寝癖一つなく、きちんと撫でつけられている。

フロアのあちこちで、女子社員たちが小さくざわついた。

隣の席の後輩が、亜美の袖を引っ張った。

「早瀬さん、やばくないですか」

「……何が」

「顔。顔がやばい」

亜美は、答えなかった。

見た目だけなら。

うちのソファで寝ている子と、同じ種類の人間だ。

黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。

来るものを拒まない、あの子と同じ。

亜美は、胸の奥で小さく身構えた。

どうせ、この子も。

「今日から二か月、インターンに来てくれる鏡くんです」

課長が紹介すると、青年が一歩前に出た。

深く、きっちりと頭を下げる。

「明桜大学社会学部三年、鏡琥珀です」

よく通る声だった。

少しも気取っていない。

「わからないことばかりだと思いますが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします」

顔を上げる。

目が、フロアを一周した。

きらきらしていた。

緊張と、期待と、少しの不安と。

全部が、そのまま顔に出ている目。

大型犬みたいだ、と亜美は思った。

散歩に連れていってもらえると知った瞬間の、あの目。

「指導係は、早瀬さんにお願いしています」

課長が、亜美のほうを手で示した。

青年の目が、まっすぐに亜美を捉えた。

それから、ぱっと顔が明るくなった。

「よろしくお願いします、早瀬さん!」

フロアの中で、その声だけが少し大きかった。

亜美は、少しだけ気圧されて。

それから、小さく会釈を返した。

 

最初の一週間で、亜美の身構えはあっけなく崩れた。

鏡琥珀は、とにかく真っ直ぐだった。

朝は誰よりも早く来て、フロアのコピー機の紙を補充している。

頼まれたことはメモを取って、必ず復唱する。

わからないことは、わからないとすぐに言う。

亜美が赤を入れた資料を返すと、一枚ずつ真剣な顔で読んで、全部直して、翌朝にはデスクの上に置いてある。

一番上に、付箋が一枚。

ありがとうございました! 直しました!

少し右上がりの、大きな字。

亜美は、その付箋を見つめた。

丸くて、少しだけ右上がり。

自分が冷蔵庫に貼る付箋の字と、少しだけ似ている気がした。

「早瀬さんの赤、めちゃくちゃわかりやすいです」

琥珀は、目をきらきらさせて言った。

「どこがだめなのか、ちゃんと理由が書いてあるから」

「……普通でしょ」

「普通じゃないです。大学の教授より全然わかりやすい」

大げさな子だな、と亜美は思った。

口に出したら、たぶん「大げさじゃないです」と返ってくる。

そういう顔をしていた。

 

昼休み。

社員食堂の長いテーブルで、亜美は琥珀と向かい合って座っていた。

指導係だから、最初の一週間は一緒に昼を取ることにしている。

琥珀の周りに、女子社員が三人、四人と集まってきた。

「鏡くん、ダンスやってるんでしょ? 動画ないの?」

「彼女いるの?」

「インターン終わったら、みんなでご飯行こうよ。連絡先教えて」

亜美は、からあげ定食に七味を振りながら、それを横目で見ていた。

ほら、と思った。

こうなる。

この顔なら、こうなる。

あとは、この子がどう返すか。

海音なら、面倒くさそうに「無理」と言って、それでも誰も諦めない。

そして、そのうちの誰かと、夜中に。

琥珀は、箸を置いた。

それから、にこっと笑った。

屈託なく。

「彼女いるんで、全部断ります」

女子社員たちが、きょとんとした。

「え、連絡先も?」

「はい。彼女に報告するんで」

「……報告?」

「今日こういうことがあったって、毎晩報告してるんです。連絡先訊かれて断りましたって、今日も報告します」

琥珀は、何でもないことのように言った。

悪気の欠片もない、晴れやかな顔で。

女子社員たちは、顔を見合わせて。

それから、なぜか少しだけ嬉しそうに笑って散っていった。

「えー、いいなあ、彼女」

「一途じゃん」

亜美は、七味の瓶を持ったまま止まっていた。

報告。

連絡先を訊かれて、断ったことを。

毎晩。

「……毎晩、報告してるの?」

思わず訊いていた。

琥珀は、からあげを頬張りながらうなずいた。

「はい。高二の六月から、ずっと」

「高二」

「告白されたときとか、されなかったときとか。隠し事、したくないから」

琥珀は、少しだけ照れたように笑った。

「彼女、自分からはあんまり言わない人なんで。俺が全部言わないと、一人で抱え込んじゃうから」

亜美は、何も言えなかった。

七味の瓶を、そっとテーブルに置いた。

隠し事、したくないから。

家に帰れば、何も言わない子がいる。

何のバイトなのかも。

あの夜のことも。

どこで誰と何をしているのかも。

亜美も、何も訊かない。

訊く立場じゃない、と思っているから。

目の前の二十一歳は、訊かれてもいないことを、毎晩全部話している。

同じ、二十一歳なのに。

 

十月の二週目。

夜九時。

フロアに残っているのは、亜美と琥珀だけだった。

月末の企画書の締め切りが近い。

琥珀の担当分を見てやるために、亜美も残っていた。

窓の外に、夜の街の灯りが広がっている。

ビルの谷間を流れていく車のライトが、ガラスに映っては消えていく。

琥珀が、キーボードから手を離した。

スマートフォンを取り出して、何かを打ち始める。

真剣な顔で。

少しだけ、口元を緩めて。

亜美は、画面を覗くつもりはなかった。

ただ、時計を見て、気づいてしまった。

九時。

「……報告?」

琥珀が、顔を上げた。

「あ、はい。すみません、仕事中に」

「いいよ。もう終わりにしよう」

亜美は、椅子の背にもたれた。

「毎晩、九時なの?」

「だいたい九時です。彼女、九時ごろにいつも一回、筆を置くんで」

「筆?」

「絵、描いてるんです。油絵。美術専攻で」

琥珀の声が、少しだけ誇らしげになった。

隠そうともしていなかった。

「今日は、告白されなかったです、って報告します」

「されなかったことも報告するの」

「されなかったことも、報告です」

琥珀は、至極真面目な顔で言った。

亜美は、思わず吹き出した。

久しぶりに、声を出して笑った気がした。

琥珀が、少しだけ驚いたように目を丸くした。

「早瀬さん、笑うんですね」

「……笑うよ。人間だから」

「いや、なんか、最近ずっと、エレベーターとかでぼーっとしてるから」

亜美の笑いが、止まった。

琥珀は、しまった、という顔をした。

でも、それ以上は何も訊かなかった。

画面に目を戻して、報告の続きを打ち始めた。

亜美は、窓の外を見た。

ぼーっとしてる。

気づかれていた。

インターンの子に。

来て、まだ二週間の子に。

 

数日後。

亜美は、琥珀が提出した資料の最終確認をしていた。

表紙の担当者欄に、手書きのサインがある。

鏡琥珀。

大きな、少し右上がりの字。

亜美は、ふとペンを止めた。

「……ねえ」

「はい」

隣のデスクで、琥珀が顔を上げた。

「琥珀って、いい名前だね」

琥珀の目が、少しだけ見開かれた。

「最初、名簿見たとき変わった名前だなって思ったんだけど。琥珀って、樹液が何千万年もかけて固まった石でしょ。すごく綺麗な色の」

「……はい」

「琥珀色。夕方の光みたいな、温かい色」

亜美は、資料の表紙のサインを指先でなぞった。

「いい名前をつけてもらったね」

琥珀は、しばらく黙っていた。

それから、少しだけ照れたように笑った。

「……ありがとうございます」

その笑い方が、今まで見たどの笑い方とも違った。

大型犬のきらきらした目じゃなかった。

もっと、ずっと柔らかい。

何か、大事なものを思い出しているみたいな顔。

「ちなみに」

亜美は、何気なく訊いた。

「彼女さん、なんて名前なの?」

琥珀は、ほんの少しだけ迷うような顔をして。

それから、大事そうに口にした。

「瑠璃です」

るり。

亜美は、その響きを頭の中で繰り返した。

るり。

瑠璃。

ラピスラズリ。

深い、深い青。

夜明け前の空の色。

それから。

こはく。

琥珀。

夕方の光みたいな、温かい色。

亜美は、ペンを持ったまま固まった。

頭の中で、二つの色が並んだ。

深い青の空。

その一番下に、地平線に沿って、細く滲む琥珀色の光。

夜が明ける、直前の。

「……え」

亜美は、琥珀を見た。

「瑠璃と、琥珀?」

「はい」

「瑠璃色と、琥珀色?」

「……はい」

琥珀が、少しだけ目を丸くしていた。

亜美は、身を乗り出していた。

止まらなかった。

「それ、夜明け前の色じゃない。空が瑠璃色で、地平線のところだけ琥珀色になる、あの一瞬」

「……」

「夜明け前に、一緒に見られる色だよ。それって」

亜美の声が、少しだけ上擦った。

胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。

なぜだか、わからなかった。

他人の恋人同士の、名前の話なのに。

「二人が重なったら、きっとすごく素敵な色になる」

言ってから。

フロアに、まだ何人か残っていることに気づいた。

向かいの島の先輩が、ちらりとこちらを見た。

重なったら。

亜美の顔が、一気に熱くなった。

「いや、あの、違う」

慌てて両手を振った。

「そういう意味じゃなくて。イヤらしい意味じゃなくて。色が。色の話で。重なるっていうのは、空の、グラデーションの」

言えば言うほど、顔が熱くなっていく。

耳まで、真っ赤になっているのがわかった。

二十八にもなって。

インターンの子の前で。

琥珀は、目を丸くしたまま亜美を見ていた。

それから。

ふっと、吹き出した。

声を上げて、笑った。

お腹を抱えて。

子どもみたいに。

「笑わないで」

「すみません、……っ、でも」

琥珀は、目尻の涙を指で拭った。

それから、笑いの残る顔のまま、亜美を見た。

大型犬の目じゃなかった。

さっきの、柔らかい顔だった。

「名前を、色で呼んでくれた人。二人目です」

亜美は、瞬きをした。

「……二人目?」

「一人目は、瑠璃です」

琥珀は、少しだけ遠くを見るような目をした。

「高二のとき、初めて会った日に。西日を見て、琥珀色ですねって。それが最初でした」

亜美は、何も言えなかった。

「自分で気づいた人、瑠璃以外で初めてです」

琥珀は、椅子の上で少しだけ姿勢を正した。

それから、真っ直ぐに亜美を見た。

「早瀬さん。琥珀って、呼んでください」

「……え」

「鏡くん、じゃなくて。琥珀で」

亜美は、目を瞬かせた。

「でも、インターンの子を下の名前でなんて」

「呼んでほしいんです」

琥珀は、少しも譲らなかった。

きらきらした目で。

褒められ待ちの、大型犬の顔で。

「俺の名前、ちゃんと色で見てくれた人だから」

亜美は、しばらく黙っていた。

それから、観念したように小さく息を吐いた。

「……琥珀、くん」

琥珀の顔が、ぱっと明るくなった。

「はい!」

「くん、はつけるからね」

「はい。今日、報告します」

「……報告するの、それも」

「します。早瀬さんが、名前を色で見てくれたって。理由も、全部」

亜美は、また顔が熱くなるのを感じた。

イヤらしい意味じゃなくて、のところも報告されるのだろうか。

されるのだろう。

この子なら、全部。

 

その夜。

亜美がマンションに帰ったのは、十時を過ぎていた。

「……ただいま」

リビングの灯りは、ついたままだった。

テレビもつけっぱなしで、深夜のバラエティ番組が小さな音で流れている。

ソファの上で、海音が眠っていた。

毛布も被らずに。

パーカーのまま。

片腕を目の上に乗せて。

テーブルの上に、ラップをかけた皿が一つ置いてあった。

チャーハン。

端のほうが、少しだけ焦げている。

亜美は、鞄を床に置いた。

テレビを消す。

部屋が、静かになった。

ソファの前にしゃがんで、海音の寝顔を見た。

同い年。

同じ、二十一歳。

同じくらい、綺麗な顔。

長い睫毛。

少しだけ開いた唇。

額にかかった、柔らかい黒髪。

見た目だけなら、今日一日隣にいた子と、同じ種類の人間。

でも。

あの子は、訊かれてもいないことを毎晩全部話している。

高二の六月から。

告白されなかったことまで。

隠し事、したくないから。

この子は。

何も言わない。

どこへ行っているのかも。

誰と会っているのかも。

あの夜のことも。

亜美は、ソファの端に丸まっている毛布を手に取った。

海音の体に、そっとかける。

指先が、肩に触れないように。

いつも、海音がそうするみたいに。

同じ二十一歳なのに。

どうして、こんなに違うんだろう。

亜美は、立ち上がった。

キッチンに行って、テーブルの上の皿のラップを外す。

少しだけ焦げたチャーハン。

電子レンジで温めて、一人で食べた。

少しだけ、しょっぱかった。

「……世界一」

小さく呟いてみた。

誰も、聞いていなかった。

ソファの上で、海音が寝返りを打った。

窓の外で、十月の夜風がカーテンを小さく揺らしていた。
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