4時半のラップと21時の報告
# 七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
## 番外編1 琥珀色
十月一日の朝。
目玉焼きを二つ焼いて、トーストを二枚焼いて、コーヒーを二人分淹れる。
テーブルに皿を並べていると、ソファの上の毛布の塊がもぞりと動いた。
「……おはよ」
「おはよう」
海音が、寝癖だらけの頭で起き上がる。
この一週間で、ようやくここまで戻った。
九月の半ばまでは、目も合わせなかった。
夕飯は寝室で一人で食べて、扉はぴったりと閉めて、朝は自分の分のトーストだけを焼いて、立ったまま食べて家を出ていた。
それが先週、疲れて、何をしているんだろうと思って、皿を持ってリビングに出た。
海音がおそるおそる「……世界一」と言って、亜美は吹き出してしまった。
それから、また二人で食卓を囲んでいる。
でも、それだけだった。
あの夜のことは、どちらも口にしていない。
ピンク色のヘアゴムも、口紅のついたグラスも、玄関の外に放り投げた服も、溶けたアイスも。
何もなかったみたいに、目玉焼きを食べて、世界一と言われて、はいはいと返している。
「今日、バイト?」
亜美が訊くと、海音は少しだけ間を置いてうなずいた。
「……うん。朝から」
最近、海音は平日の朝に起きるようになった。
何のバイトなのかは、言わない。
亜美も、訊かない。
「いってきます」
亜美は鞄を持って、玄関で靴を履いた。
振り返らなかった。
会社のフロアは、朝の八時半でもう半分ほど埋まっていた。
窓の外に、秋晴れの空が広がっている。
亜美がデスクにつくと、課長が書類を片手にやってきた。
「早瀬さん、ちょっといい?」
「はい」
「今日から、秋のインターン生が来るって言ってたでしょ。うちの部に一人」
課長は、書類を亜美の机に置いた。
「指導係、お願いできないかな。二か月」
亜美は、瞬きをした。
「わたしですか」
「面倒見いいし。去年の新人、早瀬さんに育ててもらったって、みんな言ってるよ」
課長は、にこにこと笑った。
断る理由は、なかった。
亜美は、書類を手に取った。
インターン受け入れ名簿。
大学名。学部。学年。
大学三年、二十一歳。
ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
二十一歳。
「……男の子ですか」
「そう。社会学部。ダンスやってるらしいよ。なんか、大会で賞取ってるって」
課長は、どこか楽しそうに言った。
「朝礼で紹介するから、よろしくね」
亜美は、名簿の名前の欄に目を落とした。
鏡、琥珀。
かがみ、こはく。
変わった名前だな、と思った。
それ以上は、考えなかった。
考えないようにした。
二十一歳の男の子なんて、家に一人いるだけで十分だった。
九時。
朝礼で、フロアの全員が立ち上がった。
課長の隣に、背の高い青年が立っていた。
亜美は、思わず息を呑んだ。
黒いスーツ。
量販店のものではない、体にぴったり合った仕立て。
背筋がまっすぐに伸びていて、肩から指先まで、無駄な力がどこにも入っていない。
ダンスをやっている人の立ち方だ、と思った。
それから、顔。
整っていた。
ひどく、整っていた。
少しだけ垂れた目尻。
すっと通った鼻筋。
柔らかそうな黒髪は、寝癖一つなく、きちんと撫でつけられている。
フロアのあちこちで、女子社員たちが小さくざわついた。
隣の席の後輩が、亜美の袖を引っ張った。
「早瀬さん、やばくないですか」
「……何が」
「顔。顔がやばい」
亜美は、答えなかった。
見た目だけなら。
うちのソファで寝ている子と、同じ種類の人間だ。
黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。
来るものを拒まない、あの子と同じ。
亜美は、胸の奥で小さく身構えた。
どうせ、この子も。
「今日から二か月、インターンに来てくれる鏡くんです」
課長が紹介すると、青年が一歩前に出た。
深く、きっちりと頭を下げる。
「明桜大学社会学部三年、鏡琥珀です」
よく通る声だった。
少しも気取っていない。
「わからないことばかりだと思いますが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします」
顔を上げる。
目が、フロアを一周した。
きらきらしていた。
緊張と、期待と、少しの不安と。
全部が、そのまま顔に出ている目。
大型犬みたいだ、と亜美は思った。
散歩に連れていってもらえると知った瞬間の、あの目。
「指導係は、早瀬さんにお願いしています」
課長が、亜美のほうを手で示した。
青年の目が、まっすぐに亜美を捉えた。
それから、ぱっと顔が明るくなった。
「よろしくお願いします、早瀬さん!」
フロアの中で、その声だけが少し大きかった。
亜美は、少しだけ気圧されて。
それから、小さく会釈を返した。
最初の一週間で、亜美の身構えはあっけなく崩れた。
鏡琥珀は、とにかく真っ直ぐだった。
朝は誰よりも早く来て、フロアのコピー機の紙を補充している。
頼まれたことはメモを取って、必ず復唱する。
わからないことは、わからないとすぐに言う。
亜美が赤を入れた資料を返すと、一枚ずつ真剣な顔で読んで、全部直して、翌朝にはデスクの上に置いてある。
一番上に、付箋が一枚。
ありがとうございました! 直しました!
少し右上がりの、大きな字。
亜美は、その付箋を見つめた。
丸くて、少しだけ右上がり。
自分が冷蔵庫に貼る付箋の字と、少しだけ似ている気がした。
「早瀬さんの赤、めちゃくちゃわかりやすいです」
琥珀は、目をきらきらさせて言った。
「どこがだめなのか、ちゃんと理由が書いてあるから」
「……普通でしょ」
「普通じゃないです。大学の教授より全然わかりやすい」
大げさな子だな、と亜美は思った。
口に出したら、たぶん「大げさじゃないです」と返ってくる。
そういう顔をしていた。
昼休み。
社員食堂の長いテーブルで、亜美は琥珀と向かい合って座っていた。
指導係だから、最初の一週間は一緒に昼を取ることにしている。
琥珀の周りに、女子社員が三人、四人と集まってきた。
「鏡くん、ダンスやってるんでしょ? 動画ないの?」
「彼女いるの?」
「インターン終わったら、みんなでご飯行こうよ。連絡先教えて」
亜美は、からあげ定食に七味を振りながら、それを横目で見ていた。
ほら、と思った。
こうなる。
この顔なら、こうなる。
あとは、この子がどう返すか。
海音なら、面倒くさそうに「無理」と言って、それでも誰も諦めない。
そして、そのうちの誰かと、夜中に。
琥珀は、箸を置いた。
それから、にこっと笑った。
屈託なく。
「彼女いるんで、全部断ります」
女子社員たちが、きょとんとした。
「え、連絡先も?」
「はい。彼女に報告するんで」
「……報告?」
「今日こういうことがあったって、毎晩報告してるんです。連絡先訊かれて断りましたって、今日も報告します」
琥珀は、何でもないことのように言った。
悪気の欠片もない、晴れやかな顔で。
女子社員たちは、顔を見合わせて。
それから、なぜか少しだけ嬉しそうに笑って散っていった。
「えー、いいなあ、彼女」
「一途じゃん」
亜美は、七味の瓶を持ったまま止まっていた。
報告。
連絡先を訊かれて、断ったことを。
毎晩。
「……毎晩、報告してるの?」
思わず訊いていた。
琥珀は、からあげを頬張りながらうなずいた。
「はい。高二の六月から、ずっと」
「高二」
「告白されたときとか、されなかったときとか。隠し事、したくないから」
琥珀は、少しだけ照れたように笑った。
「彼女、自分からはあんまり言わない人なんで。俺が全部言わないと、一人で抱え込んじゃうから」
亜美は、何も言えなかった。
七味の瓶を、そっとテーブルに置いた。
隠し事、したくないから。
家に帰れば、何も言わない子がいる。
何のバイトなのかも。
あの夜のことも。
どこで誰と何をしているのかも。
亜美も、何も訊かない。
訊く立場じゃない、と思っているから。
目の前の二十一歳は、訊かれてもいないことを、毎晩全部話している。
同じ、二十一歳なのに。
十月の二週目。
夜九時。
フロアに残っているのは、亜美と琥珀だけだった。
月末の企画書の締め切りが近い。
琥珀の担当分を見てやるために、亜美も残っていた。
窓の外に、夜の街の灯りが広がっている。
ビルの谷間を流れていく車のライトが、ガラスに映っては消えていく。
琥珀が、キーボードから手を離した。
スマートフォンを取り出して、何かを打ち始める。
真剣な顔で。
少しだけ、口元を緩めて。
亜美は、画面を覗くつもりはなかった。
ただ、時計を見て、気づいてしまった。
九時。
「……報告?」
琥珀が、顔を上げた。
「あ、はい。すみません、仕事中に」
「いいよ。もう終わりにしよう」
亜美は、椅子の背にもたれた。
「毎晩、九時なの?」
「だいたい九時です。彼女、九時ごろにいつも一回、筆を置くんで」
「筆?」
「絵、描いてるんです。油絵。美術専攻で」
琥珀の声が、少しだけ誇らしげになった。
隠そうともしていなかった。
「今日は、告白されなかったです、って報告します」
「されなかったことも報告するの」
「されなかったことも、報告です」
琥珀は、至極真面目な顔で言った。
亜美は、思わず吹き出した。
久しぶりに、声を出して笑った気がした。
琥珀が、少しだけ驚いたように目を丸くした。
「早瀬さん、笑うんですね」
「……笑うよ。人間だから」
「いや、なんか、最近ずっと、エレベーターとかでぼーっとしてるから」
亜美の笑いが、止まった。
琥珀は、しまった、という顔をした。
でも、それ以上は何も訊かなかった。
画面に目を戻して、報告の続きを打ち始めた。
亜美は、窓の外を見た。
ぼーっとしてる。
気づかれていた。
インターンの子に。
来て、まだ二週間の子に。
数日後。
亜美は、琥珀が提出した資料の最終確認をしていた。
表紙の担当者欄に、手書きのサインがある。
鏡琥珀。
大きな、少し右上がりの字。
亜美は、ふとペンを止めた。
「……ねえ」
「はい」
隣のデスクで、琥珀が顔を上げた。
「琥珀って、いい名前だね」
琥珀の目が、少しだけ見開かれた。
「最初、名簿見たとき変わった名前だなって思ったんだけど。琥珀って、樹液が何千万年もかけて固まった石でしょ。すごく綺麗な色の」
「……はい」
「琥珀色。夕方の光みたいな、温かい色」
亜美は、資料の表紙のサインを指先でなぞった。
「いい名前をつけてもらったね」
琥珀は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
その笑い方が、今まで見たどの笑い方とも違った。
大型犬のきらきらした目じゃなかった。
もっと、ずっと柔らかい。
何か、大事なものを思い出しているみたいな顔。
「ちなみに」
亜美は、何気なく訊いた。
「彼女さん、なんて名前なの?」
琥珀は、ほんの少しだけ迷うような顔をして。
それから、大事そうに口にした。
「瑠璃です」
るり。
亜美は、その響きを頭の中で繰り返した。
るり。
瑠璃。
ラピスラズリ。
深い、深い青。
夜明け前の空の色。
それから。
こはく。
琥珀。
夕方の光みたいな、温かい色。
亜美は、ペンを持ったまま固まった。
頭の中で、二つの色が並んだ。
深い青の空。
その一番下に、地平線に沿って、細く滲む琥珀色の光。
夜が明ける、直前の。
「……え」
亜美は、琥珀を見た。
「瑠璃と、琥珀?」
「はい」
「瑠璃色と、琥珀色?」
「……はい」
琥珀が、少しだけ目を丸くしていた。
亜美は、身を乗り出していた。
止まらなかった。
「それ、夜明け前の色じゃない。空が瑠璃色で、地平線のところだけ琥珀色になる、あの一瞬」
「……」
「夜明け前に、一緒に見られる色だよ。それって」
亜美の声が、少しだけ上擦った。
胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。
なぜだか、わからなかった。
他人の恋人同士の、名前の話なのに。
「二人が重なったら、きっとすごく素敵な色になる」
言ってから。
フロアに、まだ何人か残っていることに気づいた。
向かいの島の先輩が、ちらりとこちらを見た。
重なったら。
亜美の顔が、一気に熱くなった。
「いや、あの、違う」
慌てて両手を振った。
「そういう意味じゃなくて。イヤらしい意味じゃなくて。色が。色の話で。重なるっていうのは、空の、グラデーションの」
言えば言うほど、顔が熱くなっていく。
耳まで、真っ赤になっているのがわかった。
二十八にもなって。
インターンの子の前で。
琥珀は、目を丸くしたまま亜美を見ていた。
それから。
ふっと、吹き出した。
声を上げて、笑った。
お腹を抱えて。
子どもみたいに。
「笑わないで」
「すみません、……っ、でも」
琥珀は、目尻の涙を指で拭った。
それから、笑いの残る顔のまま、亜美を見た。
大型犬の目じゃなかった。
さっきの、柔らかい顔だった。
「名前を、色で呼んでくれた人。二人目です」
亜美は、瞬きをした。
「……二人目?」
「一人目は、瑠璃です」
琥珀は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「高二のとき、初めて会った日に。西日を見て、琥珀色ですねって。それが最初でした」
亜美は、何も言えなかった。
「自分で気づいた人、瑠璃以外で初めてです」
琥珀は、椅子の上で少しだけ姿勢を正した。
それから、真っ直ぐに亜美を見た。
「早瀬さん。琥珀って、呼んでください」
「……え」
「鏡くん、じゃなくて。琥珀で」
亜美は、目を瞬かせた。
「でも、インターンの子を下の名前でなんて」
「呼んでほしいんです」
琥珀は、少しも譲らなかった。
きらきらした目で。
褒められ待ちの、大型犬の顔で。
「俺の名前、ちゃんと色で見てくれた人だから」
亜美は、しばらく黙っていた。
それから、観念したように小さく息を吐いた。
「……琥珀、くん」
琥珀の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
「くん、はつけるからね」
「はい。今日、報告します」
「……報告するの、それも」
「します。早瀬さんが、名前を色で見てくれたって。理由も、全部」
亜美は、また顔が熱くなるのを感じた。
イヤらしい意味じゃなくて、のところも報告されるのだろうか。
されるのだろう。
この子なら、全部。
その夜。
亜美がマンションに帰ったのは、十時を過ぎていた。
「……ただいま」
リビングの灯りは、ついたままだった。
テレビもつけっぱなしで、深夜のバラエティ番組が小さな音で流れている。
ソファの上で、海音が眠っていた。
毛布も被らずに。
パーカーのまま。
片腕を目の上に乗せて。
テーブルの上に、ラップをかけた皿が一つ置いてあった。
チャーハン。
端のほうが、少しだけ焦げている。
亜美は、鞄を床に置いた。
テレビを消す。
部屋が、静かになった。
ソファの前にしゃがんで、海音の寝顔を見た。
同い年。
同じ、二十一歳。
同じくらい、綺麗な顔。
長い睫毛。
少しだけ開いた唇。
額にかかった、柔らかい黒髪。
見た目だけなら、今日一日隣にいた子と、同じ種類の人間。
でも。
あの子は、訊かれてもいないことを毎晩全部話している。
高二の六月から。
告白されなかったことまで。
隠し事、したくないから。
この子は。
何も言わない。
どこへ行っているのかも。
誰と会っているのかも。
あの夜のことも。
亜美は、ソファの端に丸まっている毛布を手に取った。
海音の体に、そっとかける。
指先が、肩に触れないように。
いつも、海音がそうするみたいに。
同じ二十一歳なのに。
どうして、こんなに違うんだろう。
亜美は、立ち上がった。
キッチンに行って、テーブルの上の皿のラップを外す。
少しだけ焦げたチャーハン。
電子レンジで温めて、一人で食べた。
少しだけ、しょっぱかった。
「……世界一」
小さく呟いてみた。
誰も、聞いていなかった。
ソファの上で、海音が寝返りを打った。
窓の外で、十月の夜風がカーテンを小さく揺らしていた。
## 番外編1 琥珀色
十月一日の朝。
目玉焼きを二つ焼いて、トーストを二枚焼いて、コーヒーを二人分淹れる。
テーブルに皿を並べていると、ソファの上の毛布の塊がもぞりと動いた。
「……おはよ」
「おはよう」
海音が、寝癖だらけの頭で起き上がる。
この一週間で、ようやくここまで戻った。
九月の半ばまでは、目も合わせなかった。
夕飯は寝室で一人で食べて、扉はぴったりと閉めて、朝は自分の分のトーストだけを焼いて、立ったまま食べて家を出ていた。
それが先週、疲れて、何をしているんだろうと思って、皿を持ってリビングに出た。
海音がおそるおそる「……世界一」と言って、亜美は吹き出してしまった。
それから、また二人で食卓を囲んでいる。
でも、それだけだった。
あの夜のことは、どちらも口にしていない。
ピンク色のヘアゴムも、口紅のついたグラスも、玄関の外に放り投げた服も、溶けたアイスも。
何もなかったみたいに、目玉焼きを食べて、世界一と言われて、はいはいと返している。
「今日、バイト?」
亜美が訊くと、海音は少しだけ間を置いてうなずいた。
「……うん。朝から」
最近、海音は平日の朝に起きるようになった。
何のバイトなのかは、言わない。
亜美も、訊かない。
「いってきます」
亜美は鞄を持って、玄関で靴を履いた。
振り返らなかった。
会社のフロアは、朝の八時半でもう半分ほど埋まっていた。
窓の外に、秋晴れの空が広がっている。
亜美がデスクにつくと、課長が書類を片手にやってきた。
「早瀬さん、ちょっといい?」
「はい」
「今日から、秋のインターン生が来るって言ってたでしょ。うちの部に一人」
課長は、書類を亜美の机に置いた。
「指導係、お願いできないかな。二か月」
亜美は、瞬きをした。
「わたしですか」
「面倒見いいし。去年の新人、早瀬さんに育ててもらったって、みんな言ってるよ」
課長は、にこにこと笑った。
断る理由は、なかった。
亜美は、書類を手に取った。
インターン受け入れ名簿。
大学名。学部。学年。
大学三年、二十一歳。
ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
二十一歳。
「……男の子ですか」
「そう。社会学部。ダンスやってるらしいよ。なんか、大会で賞取ってるって」
課長は、どこか楽しそうに言った。
「朝礼で紹介するから、よろしくね」
亜美は、名簿の名前の欄に目を落とした。
鏡、琥珀。
かがみ、こはく。
変わった名前だな、と思った。
それ以上は、考えなかった。
考えないようにした。
二十一歳の男の子なんて、家に一人いるだけで十分だった。
九時。
朝礼で、フロアの全員が立ち上がった。
課長の隣に、背の高い青年が立っていた。
亜美は、思わず息を呑んだ。
黒いスーツ。
量販店のものではない、体にぴったり合った仕立て。
背筋がまっすぐに伸びていて、肩から指先まで、無駄な力がどこにも入っていない。
ダンスをやっている人の立ち方だ、と思った。
それから、顔。
整っていた。
ひどく、整っていた。
少しだけ垂れた目尻。
すっと通った鼻筋。
柔らかそうな黒髪は、寝癖一つなく、きちんと撫でつけられている。
フロアのあちこちで、女子社員たちが小さくざわついた。
隣の席の後輩が、亜美の袖を引っ張った。
「早瀬さん、やばくないですか」
「……何が」
「顔。顔がやばい」
亜美は、答えなかった。
見た目だけなら。
うちのソファで寝ている子と、同じ種類の人間だ。
黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。
来るものを拒まない、あの子と同じ。
亜美は、胸の奥で小さく身構えた。
どうせ、この子も。
「今日から二か月、インターンに来てくれる鏡くんです」
課長が紹介すると、青年が一歩前に出た。
深く、きっちりと頭を下げる。
「明桜大学社会学部三年、鏡琥珀です」
よく通る声だった。
少しも気取っていない。
「わからないことばかりだと思いますが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします」
顔を上げる。
目が、フロアを一周した。
きらきらしていた。
緊張と、期待と、少しの不安と。
全部が、そのまま顔に出ている目。
大型犬みたいだ、と亜美は思った。
散歩に連れていってもらえると知った瞬間の、あの目。
「指導係は、早瀬さんにお願いしています」
課長が、亜美のほうを手で示した。
青年の目が、まっすぐに亜美を捉えた。
それから、ぱっと顔が明るくなった。
「よろしくお願いします、早瀬さん!」
フロアの中で、その声だけが少し大きかった。
亜美は、少しだけ気圧されて。
それから、小さく会釈を返した。
最初の一週間で、亜美の身構えはあっけなく崩れた。
鏡琥珀は、とにかく真っ直ぐだった。
朝は誰よりも早く来て、フロアのコピー機の紙を補充している。
頼まれたことはメモを取って、必ず復唱する。
わからないことは、わからないとすぐに言う。
亜美が赤を入れた資料を返すと、一枚ずつ真剣な顔で読んで、全部直して、翌朝にはデスクの上に置いてある。
一番上に、付箋が一枚。
ありがとうございました! 直しました!
少し右上がりの、大きな字。
亜美は、その付箋を見つめた。
丸くて、少しだけ右上がり。
自分が冷蔵庫に貼る付箋の字と、少しだけ似ている気がした。
「早瀬さんの赤、めちゃくちゃわかりやすいです」
琥珀は、目をきらきらさせて言った。
「どこがだめなのか、ちゃんと理由が書いてあるから」
「……普通でしょ」
「普通じゃないです。大学の教授より全然わかりやすい」
大げさな子だな、と亜美は思った。
口に出したら、たぶん「大げさじゃないです」と返ってくる。
そういう顔をしていた。
昼休み。
社員食堂の長いテーブルで、亜美は琥珀と向かい合って座っていた。
指導係だから、最初の一週間は一緒に昼を取ることにしている。
琥珀の周りに、女子社員が三人、四人と集まってきた。
「鏡くん、ダンスやってるんでしょ? 動画ないの?」
「彼女いるの?」
「インターン終わったら、みんなでご飯行こうよ。連絡先教えて」
亜美は、からあげ定食に七味を振りながら、それを横目で見ていた。
ほら、と思った。
こうなる。
この顔なら、こうなる。
あとは、この子がどう返すか。
海音なら、面倒くさそうに「無理」と言って、それでも誰も諦めない。
そして、そのうちの誰かと、夜中に。
琥珀は、箸を置いた。
それから、にこっと笑った。
屈託なく。
「彼女いるんで、全部断ります」
女子社員たちが、きょとんとした。
「え、連絡先も?」
「はい。彼女に報告するんで」
「……報告?」
「今日こういうことがあったって、毎晩報告してるんです。連絡先訊かれて断りましたって、今日も報告します」
琥珀は、何でもないことのように言った。
悪気の欠片もない、晴れやかな顔で。
女子社員たちは、顔を見合わせて。
それから、なぜか少しだけ嬉しそうに笑って散っていった。
「えー、いいなあ、彼女」
「一途じゃん」
亜美は、七味の瓶を持ったまま止まっていた。
報告。
連絡先を訊かれて、断ったことを。
毎晩。
「……毎晩、報告してるの?」
思わず訊いていた。
琥珀は、からあげを頬張りながらうなずいた。
「はい。高二の六月から、ずっと」
「高二」
「告白されたときとか、されなかったときとか。隠し事、したくないから」
琥珀は、少しだけ照れたように笑った。
「彼女、自分からはあんまり言わない人なんで。俺が全部言わないと、一人で抱え込んじゃうから」
亜美は、何も言えなかった。
七味の瓶を、そっとテーブルに置いた。
隠し事、したくないから。
家に帰れば、何も言わない子がいる。
何のバイトなのかも。
あの夜のことも。
どこで誰と何をしているのかも。
亜美も、何も訊かない。
訊く立場じゃない、と思っているから。
目の前の二十一歳は、訊かれてもいないことを、毎晩全部話している。
同じ、二十一歳なのに。
十月の二週目。
夜九時。
フロアに残っているのは、亜美と琥珀だけだった。
月末の企画書の締め切りが近い。
琥珀の担当分を見てやるために、亜美も残っていた。
窓の外に、夜の街の灯りが広がっている。
ビルの谷間を流れていく車のライトが、ガラスに映っては消えていく。
琥珀が、キーボードから手を離した。
スマートフォンを取り出して、何かを打ち始める。
真剣な顔で。
少しだけ、口元を緩めて。
亜美は、画面を覗くつもりはなかった。
ただ、時計を見て、気づいてしまった。
九時。
「……報告?」
琥珀が、顔を上げた。
「あ、はい。すみません、仕事中に」
「いいよ。もう終わりにしよう」
亜美は、椅子の背にもたれた。
「毎晩、九時なの?」
「だいたい九時です。彼女、九時ごろにいつも一回、筆を置くんで」
「筆?」
「絵、描いてるんです。油絵。美術専攻で」
琥珀の声が、少しだけ誇らしげになった。
隠そうともしていなかった。
「今日は、告白されなかったです、って報告します」
「されなかったことも報告するの」
「されなかったことも、報告です」
琥珀は、至極真面目な顔で言った。
亜美は、思わず吹き出した。
久しぶりに、声を出して笑った気がした。
琥珀が、少しだけ驚いたように目を丸くした。
「早瀬さん、笑うんですね」
「……笑うよ。人間だから」
「いや、なんか、最近ずっと、エレベーターとかでぼーっとしてるから」
亜美の笑いが、止まった。
琥珀は、しまった、という顔をした。
でも、それ以上は何も訊かなかった。
画面に目を戻して、報告の続きを打ち始めた。
亜美は、窓の外を見た。
ぼーっとしてる。
気づかれていた。
インターンの子に。
来て、まだ二週間の子に。
数日後。
亜美は、琥珀が提出した資料の最終確認をしていた。
表紙の担当者欄に、手書きのサインがある。
鏡琥珀。
大きな、少し右上がりの字。
亜美は、ふとペンを止めた。
「……ねえ」
「はい」
隣のデスクで、琥珀が顔を上げた。
「琥珀って、いい名前だね」
琥珀の目が、少しだけ見開かれた。
「最初、名簿見たとき変わった名前だなって思ったんだけど。琥珀って、樹液が何千万年もかけて固まった石でしょ。すごく綺麗な色の」
「……はい」
「琥珀色。夕方の光みたいな、温かい色」
亜美は、資料の表紙のサインを指先でなぞった。
「いい名前をつけてもらったね」
琥珀は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
その笑い方が、今まで見たどの笑い方とも違った。
大型犬のきらきらした目じゃなかった。
もっと、ずっと柔らかい。
何か、大事なものを思い出しているみたいな顔。
「ちなみに」
亜美は、何気なく訊いた。
「彼女さん、なんて名前なの?」
琥珀は、ほんの少しだけ迷うような顔をして。
それから、大事そうに口にした。
「瑠璃です」
るり。
亜美は、その響きを頭の中で繰り返した。
るり。
瑠璃。
ラピスラズリ。
深い、深い青。
夜明け前の空の色。
それから。
こはく。
琥珀。
夕方の光みたいな、温かい色。
亜美は、ペンを持ったまま固まった。
頭の中で、二つの色が並んだ。
深い青の空。
その一番下に、地平線に沿って、細く滲む琥珀色の光。
夜が明ける、直前の。
「……え」
亜美は、琥珀を見た。
「瑠璃と、琥珀?」
「はい」
「瑠璃色と、琥珀色?」
「……はい」
琥珀が、少しだけ目を丸くしていた。
亜美は、身を乗り出していた。
止まらなかった。
「それ、夜明け前の色じゃない。空が瑠璃色で、地平線のところだけ琥珀色になる、あの一瞬」
「……」
「夜明け前に、一緒に見られる色だよ。それって」
亜美の声が、少しだけ上擦った。
胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。
なぜだか、わからなかった。
他人の恋人同士の、名前の話なのに。
「二人が重なったら、きっとすごく素敵な色になる」
言ってから。
フロアに、まだ何人か残っていることに気づいた。
向かいの島の先輩が、ちらりとこちらを見た。
重なったら。
亜美の顔が、一気に熱くなった。
「いや、あの、違う」
慌てて両手を振った。
「そういう意味じゃなくて。イヤらしい意味じゃなくて。色が。色の話で。重なるっていうのは、空の、グラデーションの」
言えば言うほど、顔が熱くなっていく。
耳まで、真っ赤になっているのがわかった。
二十八にもなって。
インターンの子の前で。
琥珀は、目を丸くしたまま亜美を見ていた。
それから。
ふっと、吹き出した。
声を上げて、笑った。
お腹を抱えて。
子どもみたいに。
「笑わないで」
「すみません、……っ、でも」
琥珀は、目尻の涙を指で拭った。
それから、笑いの残る顔のまま、亜美を見た。
大型犬の目じゃなかった。
さっきの、柔らかい顔だった。
「名前を、色で呼んでくれた人。二人目です」
亜美は、瞬きをした。
「……二人目?」
「一人目は、瑠璃です」
琥珀は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「高二のとき、初めて会った日に。西日を見て、琥珀色ですねって。それが最初でした」
亜美は、何も言えなかった。
「自分で気づいた人、瑠璃以外で初めてです」
琥珀は、椅子の上で少しだけ姿勢を正した。
それから、真っ直ぐに亜美を見た。
「早瀬さん。琥珀って、呼んでください」
「……え」
「鏡くん、じゃなくて。琥珀で」
亜美は、目を瞬かせた。
「でも、インターンの子を下の名前でなんて」
「呼んでほしいんです」
琥珀は、少しも譲らなかった。
きらきらした目で。
褒められ待ちの、大型犬の顔で。
「俺の名前、ちゃんと色で見てくれた人だから」
亜美は、しばらく黙っていた。
それから、観念したように小さく息を吐いた。
「……琥珀、くん」
琥珀の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
「くん、はつけるからね」
「はい。今日、報告します」
「……報告するの、それも」
「します。早瀬さんが、名前を色で見てくれたって。理由も、全部」
亜美は、また顔が熱くなるのを感じた。
イヤらしい意味じゃなくて、のところも報告されるのだろうか。
されるのだろう。
この子なら、全部。
その夜。
亜美がマンションに帰ったのは、十時を過ぎていた。
「……ただいま」
リビングの灯りは、ついたままだった。
テレビもつけっぱなしで、深夜のバラエティ番組が小さな音で流れている。
ソファの上で、海音が眠っていた。
毛布も被らずに。
パーカーのまま。
片腕を目の上に乗せて。
テーブルの上に、ラップをかけた皿が一つ置いてあった。
チャーハン。
端のほうが、少しだけ焦げている。
亜美は、鞄を床に置いた。
テレビを消す。
部屋が、静かになった。
ソファの前にしゃがんで、海音の寝顔を見た。
同い年。
同じ、二十一歳。
同じくらい、綺麗な顔。
長い睫毛。
少しだけ開いた唇。
額にかかった、柔らかい黒髪。
見た目だけなら、今日一日隣にいた子と、同じ種類の人間。
でも。
あの子は、訊かれてもいないことを毎晩全部話している。
高二の六月から。
告白されなかったことまで。
隠し事、したくないから。
この子は。
何も言わない。
どこへ行っているのかも。
誰と会っているのかも。
あの夜のことも。
亜美は、ソファの端に丸まっている毛布を手に取った。
海音の体に、そっとかける。
指先が、肩に触れないように。
いつも、海音がそうするみたいに。
同じ二十一歳なのに。
どうして、こんなに違うんだろう。
亜美は、立ち上がった。
キッチンに行って、テーブルの上の皿のラップを外す。
少しだけ焦げたチャーハン。
電子レンジで温めて、一人で食べた。
少しだけ、しょっぱかった。
「……世界一」
小さく呟いてみた。
誰も、聞いていなかった。
ソファの上で、海音が寝返りを打った。
窓の外で、十月の夜風がカーテンを小さく揺らしていた。
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