4時半のラップと21時の報告
# 琥珀色の独占欲 番外編

## 番外編1 瑠璃色

 

十月一日の朝、六時。

琥珀は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

カーテンの隙間から、まだ青い朝の光が漏れていた。

壁の上に、二枚の絵。

『琥珀色の美術室』。

『瑠璃色』。

クローゼットの扉に、黒いスーツが掛けてあった。

九月の終わりに、瑠璃と二人で買いに行ったスーツ。

量販店の吊るしのものを何着か試着して、どれもしっくりこなかった。

琥珀は肩で着る人だから、と瑠璃が言った。

踊る人の肩は、吊るしの型に合わないの、と。

結局、瑠璃が見つけてきた小さなテーラーで、肩と袖丈だけ直してもらった。

鏡の前に立った琥珀を見て、瑠璃は、少しだけ目を細めた。

ちゃんと、琥珀の形になった、と言った。

琥珀は、枕元のスマートフォンを手に取った。

「今日、告白されなかった。まだ朝。

今日から、インターン。

スーツ、ちゃんと俺の形。

報告おわり」

送信して、三十秒。

「報告ありがとう。

いってらっしゃい。

スーツ、写真撮って送って」

琥珀は、画面を見つめて、小さく笑った。

 

 

八時四十分。

都内のオフィスビルのエントランスで、琥珀は、壁一面のガラスに映った自分を見ていた。

慣れない革靴。

首元のネクタイが、少しだけ苦しかった。

スマートフォンを構えて、ガラスに向かってピースをした。

ぎこちなかった。

送ると、すぐに既読がついた。

「かっこいい」

もう一通。

「でも顔、ステージの前みたいになってる」

琥珀は、深呼吸をした。

ステージの前。

確かに、そうだった。

十二階。

エレベーターの扉が開くと、明るいフロアに、机がずらりと並んでいた。

人事の担当者に案内されて、課長に挨拶をした。

穏やかそうな、にこにこした人だった。

「今日から二か月、よろしくね。指導係は、うちで一番面倒見のいい人にお願いしたから」

 

九時。

朝礼で、フロアの全員が立ち上がった。

課長の隣に立つと、何十人分もの視線がこちらを向いた。

見られるのには、慣れていた。

高校の体育館でも。

大学の多目的ホールでも。

全国大会の、横浜のホールでも。

視線の種類も、だいたいわかった。

好奇心。

品定め。

それから、女の人たちの、少しだけ熱を帯びた目。

フロアのあちこちで、小さなざわめきが起きた。

琥珀は、それを、いつものように受け流そうとした。

そのとき。

フロアの中ほどに立っている、一人の女性と目が合った。

二十代の後半くらいだろうか。

少しだけ疲れたような目元。

その人だけ、目の種類が違った。

好奇心でも、品定めでもなかった。

身構えていた。

ほんの一瞬、琥珀の顔を見て、何かを警戒するように、目が細くなった。

琥珀は、その目を知っていた。

高校二年の五月。

北校舎の三階の美術室で、毎日自分を見上げていた目。

渡り廊下で女の子に囲まれて笑う自分を、「そういう人」だと決めつけていた目。

チャラい人を見る目。

琥珀は、胸の奥で、少しだけ笑った。

大丈夫。

その目なら、慣れている。

時間をかけて、ちゃんと知ってもらえばいい。

五年前も、そうだった。

「今日から二か月、インターンに来てくれる鏡くんです」

課長に促されて、琥珀は一歩前に出た。

深く、頭を下げた。

「明桜大学社会学部三年、鏡琥珀です」

声は、震えなかった。

「わからないことばかりだと思いますが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします」

顔を上げる。

フロアを見渡す。

緊張していた。

でも、それ以上に、わくわくしていた。

踊りを誰かに届ける側の、仕事。

高三のパンフレットに、赤丸をつけた問いの、答えの手がかり。

それが、ここにあるかもしれなかった。

「指導係は、早瀬さんにお願いしています」

課長が、手で示した。

さっきの、身構えた目の人だった。

琥珀は、まっすぐにその人を見た。

隠すことなんて、何もなかった。

だから、まっすぐ見ればいい。

「よろしくお願いします、早瀬さん!」

フロアの中で、自分の声だけが少し大きかった。

早瀬さんは、少しだけ気圧されたような顔をして。

それから、小さく会釈を返してくれた。

 

朝礼のあと、人事の担当者に連れられて、早瀬さんの机の前まで歩いた。

早瀬さんは、椅子をくるりと回して振り返り、立ち上がって、琥珀の顔を見上げた。

「……背、高いね」

「よく言われます」

「首、痛くなりそう」

早瀬さんは、笑った。

さっぱりとした、気持ちのいい笑い方だった。

朝礼のときの、身構えた目とは、少しだけ違った。

「二か月、よろしくね。わからないことあったら、何でも聞いて。遠慮したら怒るから」

琥珀は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

「よろしくお願いします」

 

 

最初の一週間、琥珀は、誰よりも早く会社に着いた。

意識してそうしたわけではなかった。

大学に入ってから、朝の自主練のために七時には起きていた。

身体が、勝手に早く目を覚ました。

誰もいないフロアで、何をすればいいのかわからなかった。

だから、コピー機の紙を補充した。

空になったトナーを交換した。

給湯室のポットに、水を入れた。

八時半に、早瀬さんが出社してきて、コピー機の前の琥珀を見て、少しだけ目を丸くした。

何も言わなかった。

ただ、次の日の朝、琥珀の机の上に、小さなメモが置いてあった。

ありがとう。でも、無理はしないこと。

丸くて、少しだけ右上がりの字。

琥珀は、そのメモを、しばらく見ていた。

自分の字と、少しだけ似ている気がした。

 

早瀬さんの赤ペンは、厳しかった。

琥珀が作った資料は、毎回、赤で埋まって返ってきた。

でも、赤の横には、必ず小さな字で理由が書いてあった。

ここは、結論を先に。読む人は忙しいから。

この数字、どこから? 出典を書く。

この言い方だと、誤解される。

琥珀は、一枚ずつ、真剣に読んだ。

全部直して、翌朝には、早瀬さんの机の上に置いた。

一番上に、付箋を一枚貼った。

ありがとうございました! 直しました!

高校二年のころから、ずっとそうしてきた。

言いたいことは、付箋に書く。

「早瀬さんの赤、めちゃくちゃわかりやすいです」

三日目の朝、琥珀は言った。

「どこがだめなのか、ちゃんと理由が書いてあるから」

早瀬さんは、パソコンの画面を見たまま答えた。

「……普通でしょ」

「普通じゃないです。大学の教授より全然わかりやすい」

早瀬さんが、ちらりとこちらを見た。

大げさな子だな、という顔をしていた。

琥珀は、心の中で返した。

大げさじゃないです。

 

 

昼休み。

指導係だから、最初の一週間は一緒に昼を取る、と早瀬さんが言った。

社員食堂の、長いテーブル。

琥珀は、早瀬さんの向かいに座った。

早瀬さんは、からあげ定食に、七味をたっぷりと振っていた。

からあげに、七味。

琥珀は、初めて見た。

少しだけ、真似してみたくなった。

箸を取ろうとしたとき、テーブルの横に、女子社員が三人、四人と集まってきた。

「鏡くん、ダンスやってるんでしょ? 動画ないの?」

「彼女いるの?」

「インターン終わったら、みんなでご飯行こうよ。連絡先教えて」

琥珀は、箸を置いた。

こういうのには、慣れていた。

高校でも。

大学でも。

答えは、いつも同じだった。

それから、にこっと笑った。

「彼女いるんで、全部断ります」

女子社員たちが、きょとんとした。

「え、連絡先も?」

「はい。彼女に報告するんで」

「……報告?」

「今日こういうことがあったって、毎晩報告してるんです。連絡先訊かれて断りましたって、今日も報告します」

女子社員たちは、顔を見合わせて。

それから、なぜか少しだけ嬉しそうに笑って散っていった。

いいなあ、彼女。

一途じゃん。

琥珀は、ふう、と小さく息を吐いた。

それから、向かいを見た。

早瀬さんが、七味の瓶を持ったまま、止まっていた。

からあげの上で、瓶が傾いたまま。

目が、少しだけ見開かれていた。

「……毎晩、報告してるの?」

小さな声だった。

琥珀は、からあげを一つ頬張りながら、頷いた。

「はい。高二の六月から、ずっと」

「高二」

「告白されたときとか、されなかったときとか。隠し事、したくないから」

言ってから、少しだけ照れくさくなった。

大学の友達には、もう当たり前すぎて誰も驚かなくなったことだった。

「彼女、自分からはあんまり言わない人なんで。俺が全部言わないと、一人で抱え込んじゃうから」

早瀬さんは、何も言わなかった。

七味の瓶を、そっとテーブルに置いた。

ゆっくりと。

音を立てないように。

琥珀は、その手元を見ていた。

それから、早瀬さんの顔を見た。

何かが、その目の奥で動いていた。

驚きとも、呆れとも違う。

もっと、遠くにある何かを見ているような。

琥珀は、何も訊かなかった。

代わりに、テーブルの上の七味の瓶に手を伸ばした。

自分のからあげに、振った。

早瀬さんと同じくらい、たっぷりと。

一口食べた。

辛かった。

むせた。

早瀬さんが、驚いたように顔を上げて。

それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。

 

 

十月の二週目。

夜の九時。

フロアに残っていたのは、琥珀と早瀬さんだけだった。

月末の企画書の締め切りが近かった。

琥珀の担当分を見てくれるために、早瀬さんも残ってくれていた。

窓の外に、夜の街の灯りが広がっていた。

ビルの谷間を流れていく車のライトが、ガラスに映っては消えていく。

琥珀は、キーボードから手を離した。

時計を見る。

九時。

身体が、勝手にスマートフォンに手を伸ばしていた。

高校二年の夏から、毎晩この時間に。

瑠璃が、アトリエで、一度筆を置く時間に。

打ち始める。

「今日、告白されなかった。

残業。先輩が、最後まで付き合ってくれてる」

「……報告?」

隣のデスクから、早瀬さんの声がした。

琥珀は、顔を上げた。

「あ、はい。すみません、仕事中に」

「いいよ。もう終わりにしよう」

早瀬さんは、椅子の背にもたれた。

「毎晩、九時なの?」

「だいたい九時です。彼女、九時ごろにいつも一回、筆を置くんで」

「筆?」

「絵、描いてるんです。油絵。美術専攻で」

声が、勝手に少しだけ誇らしげになった。

隠すつもりは、なかった。

瑠璃の話をするとき、琥珀の声は、いつもこうなる。

「今日は、告白されなかったです、って報告します」

「されなかったことも報告するの」

「されなかったことも、報告です」

琥珀は、至極真面目に言った。

早瀬さんが、吹き出した。

声を出して、笑った。

琥珀は、少しだけ驚いて、目を丸くした。

二週間、隣にいて、初めて聞く笑い声だった。

仕事中の早瀬さんは、よく笑う人だった。

冗談を言って、フロアの空気を軽くする人だった。

でも、それとは違う笑い方だった。

もっと、自分のための笑い方。

「早瀬さん、笑うんですね」

思わず、言っていた。

「……笑うよ。人間だから」

「いや、なんか、最近ずっと、エレベーターとかでぼーっとしてるから」

言ってから、しまった、と思った。

早瀬さんの笑いが、止まった。

琥珀は、口を閉じた。

エレベーターの中。

帰りの駅のホーム。

昼休みに、スマートフォンの画面を見つめたまま、動かないとき。

二週間、何度も見ていた。

その顔を、琥珀は知っていた。

大学二年の七月。

朝比奈に口止めされて、三行だけの報告を送ってきた夜の、瑠璃の顔。

言えないことを、一人で抱えている人の顔。

琥珀は、画面に目を戻した。

何も、訊かなかった。

訊いてはいけない気がした。

それは、この人のものだったから。

報告の続きを打つ。

「先輩が、初めて声出して笑った。

されなかったことも報告ですって言ったら。

報告おわり」

送信する。

隣で、早瀬さんが、窓の外を見ていた。

夜の街の灯りが、その横顔を淡く照らしていた。

 

 

インターンが始まって、三週目の金曜日。

夜の八時を過ぎていた。

琥珀の作った資料の最終確認を、早瀬さんがしてくれていた。

琥珀は、隣のデスクで、次の日の準備をしていた。

「……ねえ」

早瀬さんの声がした。

「はい」

顔を上げる。

早瀬さんは、資料の表紙を見ていた。

担当者の欄の、琥珀の手書きのサイン。

大きな、少し右上がりの字。

「琥珀って、いい名前だね」

琥珀は、息を止めた。

「最初、名簿見たとき変わった名前だなって思ったんだけど。琥珀って、樹液が何千万年もかけて固まった石でしょ。すごく綺麗な色の」

「……はい」

声が、少しだけ掠れた。

「琥珀色。夕方の光みたいな、温かい色」

早瀬さんは、資料の表紙のサインを、指先でなぞっていた。

「いい名前をつけてもらったね」

琥珀は、何も言えなかった。

夕方の光みたいな、温かい色。

五年前の四月。

北校舎の三階の美術室。

西日が、窓から斜めに差しこんで。

教室の床を、机を、彼女の髪を、とろりとした光で染めていた。

琥珀色ですね。

今の、光。

独り言のように言った、あの声。

琥珀の名前を、色として呼んだ、最初の声。

「……ありがとうございます」

それだけ、言った。

笑ったつもりだった。

どんな顔で笑っていたのか、自分では、わからなかった。

「ちなみに」

早瀬さんが、何気なく訊いた。

「彼女さん、なんて名前なの?」

琥珀は、ほんの少しだけ、迷った。

大学の友達は、みんな瑠璃の名前を知っている。

でも、この会社で、瑠璃の名前を口にしたことは、まだ一度もなかった。

彼女、とだけ言ってきた。

名前は、大事すぎて。

どこにでも置いていいものではない気がして。

でも、この人になら。

琥珀の名前を、夕方の光の色で呼んでくれた、この人になら。

琥珀は、ゆっくりと口を開いた。

大事に。

「瑠璃です」

 

早瀬さんが、ペンを持ったまま、固まった。

資料の表紙の上で、ペン先が止まっていた。

琥珀は、何が起きたのかわからなかった。

早瀬さんの目が、ゆっくりと動いた。

資料のサインから、宙へ。

何かを、頭の中で並べているような目。

それから、琥珀を見た。

「……え」

小さな声だった。

「瑠璃と、琥珀?」

「はい」

「瑠璃色と、琥珀色?」

「……はい」

琥珀の心臓が、どくんと鳴った。

早瀬さんが、身を乗り出していた。

目が、きらきらしていた。

朝礼のときの、身構えた目じゃなかった。

エレベーターの中の、遠い目でもなかった。

「それ、夜明け前の色じゃない。空が瑠璃色で、地平線のところだけ琥珀色になる、あの一瞬」

琥珀は、息をするのを忘れた。

「夜明け前に、一緒に見られる色だよ。それって」

早瀬さんの声が、少しだけ上擦っていた。

琥珀の頭の中で、いくつもの景色が、一度に重なった。

高校二年の九月。

瑠璃が、誰にも言わずに、『夜明け前』の地平線に一本だけ足した、琥珀色の線。

朝焼けです、と言い張った線。

去年の十二月。

犬吠埼の、崖の上。

藍色の空が、何層もの青に変わっていって、水平線の一点に、細い細い琥珀色の線が灯った朝。

瑠璃が、泣きながら、あった、と言った朝。

ほんとに、あった、と。

この人は、何も知らない。

『夜明け前』のことも。

犬吠埼のことも。

瑠璃が、どんな顔で、どんな絵を描くのかも。

名前を、二つ聞いただけで。

たったそれだけで、この人は、あの空を見つけた。

琥珀の目の奥が、熱くなった。

喉の奥が、詰まった。

「二人が重なったら、きっとすごく素敵な色になる」

早瀬さんが、言った。

それから。

ふっと、周りを見た。

向かいの島に、まだ先輩社員が一人残っていた。

その人が、ちらりとこちらを見た。

早瀬さんの顔が、見る見るうちに、赤くなっていった。

「いや、あの、違う」

早瀬さんが、慌てて両手を振った。

「そういう意味じゃなくて。イヤらしい意味じゃなくて。色が。色の話で。重なるっていうのは、空の、グラデーションの」

言えば言うほど、顔が赤くなっていった。

耳まで、真っ赤だった。

両手が、ぶんぶんと宙を掻いていた。

琥珀は、早瀬さんを見ていた。

泣きそうだった。

本当に。

あと一秒で、涙がこぼれそうだった。

インターン先のフロアで。

指導係の先輩の前で。

だから。

琥珀は、吹き出した。

声を上げて、笑った。

お腹を抱えて。

子どもみたいに。

笑っていないと、泣いてしまいそうだった。

「笑わないで」

早瀬さんが、真っ赤な顔で言った。

「すみません、……っ、でも」

琥珀は、目尻に滲んだものを、指で拭った。

笑いすぎて出た涙だと、思ってもらえればよかった。

それから、笑いの残る顔のまま、早瀬さんを見た。

「名前を、色で呼んでくれた人。二人目です」

早瀬さんが、瞬きをした。

「……二人目?」

「一人目は、瑠璃です」

琥珀は、窓の外を見た。

夜の街の灯り。

でも、琥珀の目に見えていたのは、五年前の西日だった。

「高二のとき、初めて会った日に。西日を見て、琥珀色ですねって。それが最初でした」

早瀬さんは、何も言わなかった。

「自分で気づいた人、瑠璃以外で初めてです」

琥珀は、椅子の上で、姿勢を正した。

それから、まっすぐに早瀬さんを見た。

「早瀬さん。琥珀って、呼んでください」

「……え」

「鏡くん、じゃなくて。琥珀で」

早瀬さんが、目を瞬かせた。

「でも、インターンの子を下の名前でなんて」

「呼んでほしいんです」

琥珀は、譲らなかった。

譲る理由が、どこにもなかった。

「俺の名前、ちゃんと色で見てくれた人だから」

早瀬さんは、しばらく黙っていた。

それから、観念したように、小さく息を吐いた。

「……琥珀、くん」

琥珀の胸の奥で、何かが、ぱっと灯った。

「はい!」

「くん、はつけるからね」

「はい。今日、報告します」

「……報告するの、それも」

「します。早瀬さんが、名前を色で見てくれたって。理由も、全部」

早瀬さんは、また顔を赤くした。

たぶん、イヤらしい意味じゃなくて、のところも報告されると思っているのだろう。

されます、と琥珀は心の中で答えた。

全部。

 

 

その夜。

琥珀は、自分の部屋のベッドに寝転んで、長い報告を打った。

琥珀って、いい名前だね。

夕方の光みたいな、温かい色。

瑠璃と、琥珀。

夜明け前に、一緒に見られる色。

二人が重なったら、きっとすごく素敵な色になる。

イヤらしい意味じゃなくて、色の話で、空のグラデーションの。

琥珀くん。

一つずつ。

全部。

送信して、少しだけ間があった。

それから、スマートフォンが震えた。

「報告ありがとう」

いつもの、最初の一行。

それから、何通も、続けて届いた。

泣いてる、と書いてあった。

嬉しくて、と。

高二の九月に足した線、ずっと私だけの秘密だと思ってた、と。

犬吠埼で二人の秘密になって、今日、誰かに届いてたんだって思えた、と。

その先輩に、琥珀って呼んでもらってね、と。

ちょっとも、嫌じゃない、と。

むしろ、嬉しい、と。

最後の一通。

「いつか、その先輩に会ってみたい。

報告おわり」

琥珀は、画面を胸に抱えた。

「絶対、会わせる」

送ってから、もう一通。

「先輩にも、瑠璃のこと、毎日話してる。

たぶん、もう、ちょっと呆れられてる。

報告」

 

スマートフォンを枕元に置いて、琥珀は、壁の二枚の絵を見上げた。

『琥珀色の美術室』。

『瑠璃色』。

スーツは、ハンガーに掛けてあった。

ネクタイは、古道具屋の丸椅子の背に。

琥珀は、今日の夜のフロアを思い出していた。

ペンを持ったまま、固まった横顔。

身を乗り出して、目をきらきらさせていた顔。

それから、真っ赤になって、両手をぶんぶん振っていた顔。

変な人だと思った。

いい人だと思った。

この人のことは、信じていいと思った。

朝礼のとき、あの人は、自分を身構えた目で見ていた。

高校二年の五月の、瑠璃と同じ目で。

チャラい人を見る目。

たぶん、自分と同じような顔をした誰かを、知っている人なのだと思った。

その誰かのことで、エレベーターの中で、遠い目をしているのかもしれなかった。

わからない。

訊かない。

でも。

からあげに七味を振る手が、止まったとき。

報告してるの、と訊いた声。

あれは、呆れた声じゃなかった。

羨ましい、とも違った。

もっと、痛いところに触れたときの声だった。

琥珀は、目を閉じた。

先輩にも、報告したい誰かがいるのだろうか。

それとも、報告してほしい誰かが。

明日も、先輩に、おはようございますと言おう。

いつもより、少しだけ大きな声で。

琥珀くん、と呼ばれたら、はい、と返事をしよう。

それくらいしか、今の自分にはできないけれど。

夜明け前に、一緒に見られる色だよ。

先輩の声が、耳の奥で、もう一度鳴った。

壁の上で、『瑠璃色』の中の小さな窓の影が、スタンドの灯りを受けて、静かに光っていた。
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