猫かぶり紳士の癒し方~子リス系OLは疲れた彼に愛でられる~
軽く食事を済ませた菜摘と光治は、連れ立って駅に向かって歩いていた。
並んで歩きながらも、二人揃って無言なのは、それぞれ似たようなことを、けれど違う都合で考えているからだろう。
光治とは、幼なじみというよりも、ほとんど姉弟のような関係だ。黙っていても怒っていても、一緒にいて苦になることはない。
いつか家族になるのなら、こういう関係の人の方が、一緒にいて楽なのかな。
ふと自問して、光治の横顔を見てみた。
若手の中では最も人気がある光治の顔立ちは、確かに端正だと思う。その上、お坊ちゃまらしく気立てもいい。
菜摘の目には、嵐志には遠く及ばないように見えるけれど。
菜摘の視線に気づいた光治が、こちらを見て首を傾げた。
――うん、やっぱり無い。
菜摘は何でもないと首を振って前を向く。
光治が自分を女だと見ていないように、自分も光治を男だとは思えない。たぶん二人でどこかに閉じ込められても、緊張もしなければ当然欲情もしないだろう。
光治とはそういう関係で、今までもこれからもそれでいい。
そう達観してうなずいた菜摘は、前方を目にして息を止めた。
目の前を歩いているのは、長身の男女――
「嵐志くん、もう一軒行こうよー。打ち上げってことでさー。おごるから! ね?」
「あのなぁ。飲みたいならひとりで行け」
「冷たーい。ひとりで行って悪い男にナンパでもされたらどうすんのー?」
「適当に食って帰ってこい」
「なにそれー」
私を何だと思ってるの、と翠はむくれて嵐志の肩をたたく。嵐志は口先では嫌そうにしながらも、ぽんぽん行き来する会話を楽しんでいるのは見て分かった。
あっ、と思うと、足がすくんだ。身長差を気にして、歩きながら話すことをためらう自分にはできないやりとり。
硬直した菜摘に気づいて、光治も立ち止まる。
視線を感じたのか、前を行くふたりも立ち止まって振り向いた。
嵐志の目が驚きに見開かれていくのを、菜摘は直視できずに目を逸らす。
微妙な空気を、翠の明るい声が割った。
「あら。二人も食事? ちょーどよかった、一緒に飲み直しにでも――」
「わ、私っ!」
翠の誘いを聴き終わる前に、菜摘はペコリと頭を下げた。
「お腹痛いので、失礼しますっ!」
言うなり、くるりと背中を向けて走り出す。
「腹が痛くて走るかよ」という光治のツッコミが聞こえた気がしたが、例によって無視した。
菜摘なりに全速力で走ったけれど、チビの速力などたかが知れている。
追ってくる革靴の音はあっという間に近づいてきて、駅に着く前に、腕を男の手に取られた。
「――待って」
振り向かずとも、嵐志だと分かる。
大きな手。節のある指。菜摘よりも高い体温。
ずっと憧れていた人の手。
大好きな人の手。
――じわりと涙が浮かんだ。
「は、離してください!」
何か言われるより先にと、菜摘は顔も上げず叫んだ。
「べ、別に、何でもないので! き、気にしないでください! 神南さんの仕事が私より忙しいのはほんとだし、それなのに私じゃなくて百合岡さんとご飯食べるんだーとかそんなこと思ってないし、むしろ私より親しげだなとか、そんなことも、思ってないし!」
言いながら、子どもじみたことを言っていると自覚する。これでは気にしてますと言っているようなものだ。
「と、とにかく、お、おやすみなさい! また会社で!」
どうにか笑顔でごまかして、嵐志の反応も見ずにまた走り出した。
食べたばかりで走ったからか、チリっと、身体の奥が痛む。
痛い。
痛い。お腹が痛い。
違う、胸が、痛い。
――痛くて痛くて痛くて、たまらない。
どうしてこんなに余裕がないんだろう。
どうしてこんなに、自分は子どもなんだろう。
情けなくてたまらず、浮かぶ涙を拭いもせずに走った。
***
縁故入社を疑われると分かっていながら、どうして菜摘がこの会社に入ったか――
実際のところ、業種に惹かれたからでも、就職に失敗したからでもなかった。
小柄だからか子どもっぽく見られがちだが、菜摘はこれで案外、自立心が強い。
母子ふたりで暮らしてきた実家も、高校卒業と同時に出たくらいだし、妙なしがらみがある会社など、もちろん選ぶつもりはなかった。
お世話になっているおじさん――社長直々に「おいで」と言われようが何だろうが、断る気満々だったのだ。
その考えを変えたのが、百合岡翠と、神南嵐志だった。
断るにしても、一度は話を聞こう。
そう思って会社にやって来た菜摘を、他の就活生と共に案内してくれたのが翠だった。
すらりとした姿は立っているだけでも絵になり、説明は明確で、他の社員と交わすやりとりはスマート。
菜摘の目には、まさに輝いて見えた。
ああいう女性になりたい――そう思う姿がそこにあったのだ。
かわいい、と言われるばかりで、一人前扱いしてもらえないことが多かった菜摘には、翠のその姿は希望にすら見えた。
ああいう人がいる会社で、働いてみたい。
説明会を聞き終えたときには、気持ちは見事に揺らいでいた。
こんなつもりじゃなかったのに――ふらつくようにエレベーターに乗り込んだ。
時間はちょうど、社員の帰宅と重なったらしい。
満員状態の箱の中、人波に押されそうになったところで、頭の横に伸びて来た男の手が、突っ張って支えてくれた。
見上げると、端正な横顔が見えた。まっすぐにエレベーターの文字盤を見つめるアーモンド型の目の横には泣きぼくろ。すっと伸びた首筋に、学生にはない色気があった。
その端正さに見とれた菜摘は、エレベーターが一階に着く音を聞いて我に返った。
わらわらと降りて行く流れに乗り遅れ、二人で箱の中に取り残された。
ぽかんとしたままの菜摘に、男は苦笑する。
ようやく目が合ったとき初めて、あえて顔を逸らしてくれていたのだと気づいた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
ありがとうございました、と下げかけた頭に、ちりっと痛みが走った。
「あ、待って」
男が菜摘の肩に触れる。節のある大きな手に、どきんと心臓が高鳴った。
「――髪が絡まった。ちょっと待って、ほどくから……」
ジャケットの袖のボタンに、菜摘の髪が絡まっていた。エレベーターホールの横に立ち止まり、男は菜摘の髪をほどこうと四苦八苦している。
「す、すみません。あの、切ってもらってもいいですから」
絡まったのはほんの数本だ。どうせ切っても目立たないし、髪などいずれ伸びるのだからと何気なく言ったつもりが、男は心底驚いたようにかぶりを振った。
「駄目だよ、こんなにきれいな髪なんだから」
「き、きれいなんて……ただの癖っ毛で」
色素が薄いふわんふわんの髪は、短くしてもくくっても、こうして何かに絡まる。わずらわしいだけだと思っていた菜摘に、男は笑った。
「そんなことないよ。ふわふわでかわいい」
そのときだった。菜摘が恋に落ちたのは。
ほとんど瞬間的に、男に心を奪われたのだ。
「取れたよ」と男に言われて、お礼を言って逃げるようにその場を去った。
かわいい、という男の声が、頭の中でずっと繰り返されていた。
駅に向かって走りながら、おじさん、と菜摘は、光治の父に呼びかけていた。
――おじさんの会社に行く。おじさんの会社で働きたい。あのひとたちと。
あのひとたちの見てる世界を私も見たい。
最初は、ただの憧れだった。
そんな社会人生活で――まさか自分の想いが実るだなんて、思いもしていなかった。
自分に振り向いてくれるだなんて、思ってもいなかったのだ。
