紅い月

出会い

森の中を、二つの人影が駆けていた。

 木々の間を縫うように走り抜ける。

 月明かりさえ届かないほど深い森だった。

「右だ、ノア」

「はいはい。分かってるよ」

 先を走る男が、短く告げる。

 黒髪。

 夜の闇に溶けるような短い髪。

 振り返った瞳は、月明かりの下で不気味なほど鮮やかな赤を宿していた。

 切れ長の細い目。

 その左目の下には、小さな涙ぼくろがある。

 名は――ルシアン。

 裏社会で恐れられる殺人ギルド、その若き頭領だった。

 その隣を走るのは、彼の右腕であるノア。

 ルシアンとは対照的に、どこか掴みどころのない男だった。

「しかしまあ、逃げ足の速い奴だねぇ」

 息一つ乱さず、ノアが笑う。

「これで今日何度目だ?」

「3度目」

「律儀に数えてるの怖いんだけど」

「お前が忘れるからだ」

「ひどいなぁ」

 軽口を叩きながらも、ノアの目は笑っていなかった。

 前方。

 木々の間を、一瞬だけ人影が横切る。

「いた」

 ノアが呟いた。

 次の瞬間。

 ――ズンッ!!

 地面が大きく揺れた。

 木の根元から、黒いマナの塊が弾け飛ぶ。

「っと」

 ノアが身体を捻り、紙一重で避ける。

 その横を、ルシアンが駆け抜けた。

 腰から剣を抜く。

 刃にマナが集まり、淡い光を帯びる。

「――終わりだ」

 低い声。

 ルシアンが一歩踏み込んだ。

 振り下ろされた刃が、相手のマナを切り裂く。

「ぐっ……!」

 逃亡者が膝をついた。

 その背後に、いつの間にかノアが立っている。

「残念、ここまでだ。」

 笑っている。

 けれど、その目には一切の温度がなかった。

 逃亡者が最後の抵抗を見せようとした瞬間――

 ルシアンのマナが逃亡者の喉元を切り裂いた
 地面には血溜まりが広がり、対象は生き絶えた

 森に静寂が戻った。

「……任務完了」

 ノアが息を吐く。

「この後も仕事が山積みだ、早く帰ろうか、ルシアン」

「ああ」

 二人は来た道を戻り始めた。

 ――そのときだった。

 ルシアンが足を止めた。

「……待て」

「ん?」

 ノアも立ち止まる。

「どうした?」

 ルシアンは答えない。

 ただ、森の奥を見つめていた。

 風はない。

 鳥の声もしない。

 虫の音すら聞こえない。

 なのに。

 何かがいる。

 ――いや。

 正確には、何かが「ある」。

それにノアも気づく…

「……何かいるね」

「人間か?いや魔物?」

 人や魔物にはそれぞれ特殊なマナが宿っている 
 対象者をマナで見分け、判別する
 それはマナを扱う物ならば最初に教えられるものだ

 しかし…

 ノアは目を細めた。

 奇妙だった。

 気配がある。

 確かにそこに何かが存在している。

 なのに、人間特有のマナの流れも、魔物の気配も感じられない。

 まるで――

 どちらにも属していない。

 そんな感覚だった。

「……変だな」

 ノアが小さく呟く。

 二人は顔を見合わせた。

 そして、気配のする方へ歩き始めた。

 森はさらに深くなっていく。

 進むほど、妙な静けさが増していった。

 さっきまで聞こえていた鳥の声も、風に揺れる葉の音もない。

 それなのに、不思議と息苦しくはなかった。

 むしろ――

 妙に穏やかだった。

 やがて木々の向こうに――

 巨大な樹が現れた。

 何百年も生きているのだろう。

 幹は異様なほど太く、その一部には大きな空洞が開いている。

 空洞の周囲には、見たことのない花が咲いていた。

「……なんだ、これ」

 ノアが目を細めた。

 一輪の花に手を伸ばす。

「待て」

 ルシアンが止めた。

「ん?」

「触るな」

「なんで?」

「……分からない」

 ルシアン自身にも理由は分からなかった。

 ただ、その花に触れてはいけない。

 そう感じた。

 ノアは素直に手を引っ込める。

「珍しいね。お前が理由もなく警戒するなんて」

 ルシアンは答えなかった。

 空洞の中へ入っていく。

 そして――

 足を止めた。

「……」

 ノアも、その隣から中を覗く。

「……うそだろ」

 そこには、一人の少女が眠っていた。

 銀色の長い髪。

 白い肌。

 儚げで、どこか清楚な顔立ち。

 少女は、色とりどりの花に囲まれていた。

 白い花。

 淡い青の花。

 見たことのない花。

 そのどれもが、少女の身体を守るように咲いている。

 そして奇妙なことに――

 花は少女の髪に触れることなく、ほんの少しだけ避けて咲いていた。

「……人間?」

 ノアが呟く。

 ルシアンは答えなかった。

 少女へ近づく。

 その瞬間。

 ――ふわり。

 少女の銀髪が揺れた。

 風は吹いていない。

「……今、動いた?」

「いや」

 ノアが首を傾げる。

「風なんてないよ」

 ルシアンは少女のそばに膝をついた。

 手を伸ばす。

 頬に触れる。

「……温かい」

「生きてる?」

「ああ」

 けれど、少女は目を覚まさない。

 ルシアンは少女の顔をじっと見つめた。

 閉じられた瞼の奥にあるはずの瞳。

 その色を、彼はまだ知らない。

「おい」

 ルシアンが声をかける。

 反応はない。

 肩を軽く揺らしてみる。

 それでも、少女は眠り続けている。

「……妙だな」

 ノアが少女をじっと見つめた。

「呼吸は正常。脈もある」

 ノアが少女の手首に触れる。

 そして――眉を寄せた。

「どうした」

「いや」

 もう一度確認する。

「ちゃんとある。でも……妙なんだ」

「何が」

「生きてるのに、生きてる感じが薄い」

 ルシアンがノアを見る。

「……どういう意味だ」

「俺にも分からない」

 ノアは笑った。

 けれど、その笑みはいつもの軽いものではなかった。

「ただ――この子、普通じゃないよ」

 ルシアンが少女を見る。

「分かるのか」

「勘」

「当てにならないな」

「ひどいなぁ。俺の勘、結構当たるんだけど?」

 ノアは笑った。

 けれど、その目は少女から離れない。

 しばらくして、ノアが小さく呟いた。

「……人間でもない」

 ルシアンが振り向く。

「何?」

「いや」

 ノアは首を振った。

「まだ何も分からない」

 それ以上、口にすることはなかった。

 ただ一つ。

 ノアには妙な確信があった。

 この少女を見つけたことは――

 きっと、偶然ではない。

 ルシアンは少女を見つめている。

 どうしてだろう。

 ただ森の中で眠っているだけの、正体不明の少女。

 本来なら関わるべきではない。

 放って帰ればいい。

 それなのに――

「……連れて帰る」

「は?」

 ノアが間の抜けた声を出した。

「ちょっと待って」

「何だ」

「いや、何だじゃなくて」

 ノアは少女とルシアンを交互に見る。

「なんで?敵か味方か判断できないのに」

「……」

 ルシアン自身にも分からなかった。

 ただ。

 この少女をここに置いていくことだけは、なぜかできなかった。

「何があっても俺が責任を取る 
 ギルドメンバーには内密に連れて帰る」

「まあ、そう言うなら俺は付き合うけどさ 
 ボスはあんただし」

 ルシアンは少女を抱き上げた。

 驚くほど軽い。

 少女は目を覚まさない。

 長い銀髪が、ルシアンの腕から静かに垂れた。

 そのとき――

 少女の胸元から、小さな光が一瞬だけ漏れた。

「……今の」

 ノアが呟く。

 ルシアンは足を止める。

「何だ」

「いや……」

 ノアは少女を見る。

 けれど、もう何も起こらない。

「見間違いかな」

 ノアはそう言って笑った。

 二人は森を出る。

 その瞬間――

 少女が眠っていた場所に咲いていた花が、一輪。

 また一輪。

 静かに花弁を閉じていく。

 やがて、すべての花が閉じた。

 そして。

 巨大な樹の幹に走っていた淡い光も、ゆっくりと消えていった。

 まるで――

 長い間そこにあった何かが、ようやく動き始めたように。

 誰も知らない。

 少女が何者なのか。

 なぜ、あの森で眠っていたのか。

 そして――

 彼女が目を覚ますことで、何が始まるのか。

 この時の二人には、まだ知る由もなかった。
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