モテ男とデキ女の奥手な恋
その翌日、デスクで残業していると、机上の電話が鳴った。
就業時間ではないので取らなくてもいいことになっているが、なんとなく気になり手に取る。
『もしもしーーああ、よかった。神崎さんですか』
電話は花子さんからだった。
「どうかしました?」
ただならない声音に、またヒカルに何かあったかと、俺は眉を寄せる。
『実はーーヒカルが、帰って来なくて』
「え?」
俺は壁に掛かった時計を見た。もう21時になろうとしている。
『思い当たるところは当たって、先生にもお願いして、お友達のお家にも聞いてみたとですけど、分からんで。神崎さんのところに伺っているんじゃと思ったとですけど、会社の電話番号しか分からんしーーああ、でもよかった、繋がって』
動揺を隠せないままに事情を説明され、俺はパソコンの作業を止め、シャットダウンを指示した。
「警察へは?」
『これから連絡するつもりです。今までお友達の家を当たっていたもので』
「分かりました。とりあえず帰宅して、ヒカルが見当たらなければそちらにうかがいます。人手が多い方がいいでしょうし」
『ああ、でもーーええ、そうですね、ありがとうございます。すみません』
俺は電話を切って、帰り支度をし始めた。
「どうした?」
共にデスクに残っていた阿久津が、ただならぬ様子に眼光鋭く尋ねる。
「ヒカルがいなくなったらしい。ちょっと見てくる」
阿久津は眉を寄せた。
「そうか。何かあったら言えよ。手助けできることがあればするから」
「ああ。そうする」
「何もないといいな」
阿久津に頷いてから、俺は慌ただしく会社を出た。
会社からウィークリーマンションへはゆっくり歩いて20分。いつも軽い運動のつもりで通勤しているが、走って帰ったのは初めてだった。
21時を少し過ぎる頃、肩で息をしながらマンションに着くと、街灯に照らされてもぞりと動く影を見つけて駆け寄った。
「ヒカル!?」
顔を上げたヒカルは、放心状態に見えた。右頬が赤く腫れている。首もとに引っかき傷もあった。俺を見ても、自分の身体を大事そうに抱きしめたままじっと動かない。
尋常ならざる様子に、俺はひとまず自分のジャケットを脱いでヒカルの肩にかけた。
「どうした?大丈夫か?」
両肩に手を置いて、意識的に落ち着いた口調で声をかけると、ヒカルはふー、と深々息を吐き出した。
「……大丈夫、」
俺を見る目に、少しずつ感情が戻って来る。
「じゃ、ない」
ヒカルが俺の方に上体を傾けた。その細い身体を受け止めると、額を俺の胸につけたまま震えているのが分かる。
ためらった後、その震えを抑えるように背中に手を回してゆっくりと撫でた。
「落ち着いたら、一度部屋に入るか。身体冷えてるだろ」
「うん……」
ヒカルは震えながら頷いて、
「おばあちゃんたち、心配してるよね」
気掛かりなのだろう。
「部屋、寄らずに帰るか?」
ヒカルは迷わずにふるふると首を振った。
「落ち着いてから、帰りたい」
「そうか、分かった」
俺は頷いて、幾度か深呼吸して立ち上がったヒカルに付き添い、部屋へと向かった。
「えーと」
しまった。コーヒー以外の飲み物を買っておくべきだった。
ヒカルを部屋に座らせて、温かい飲み物でもと思った俺は、またコーヒーしか選択肢がないことに気づいたのだった。
「コーヒーしか出せないけどいるか?何か買ってきてもいいけど」
「うん、コーヒーでいい」
ヒカルの言葉に頷いて、俺は湯を沸かしはじめた。
ヒカルに何があったかは、薄々察せられた。殴られたような頬の赤みと首の引っかき傷、俺が肩にかけたジャケットの下のワイシャツはボタンがいくつか引きちぎられていて、スカートはわずかに砂埃で汚れている。膝の傷は先日のものだが、脛にも転んだような傷があった。
どう声をかければよいものか迷いながら、ヒカルの了承を得、祖父母である山口夫妻に電話をかけた。ヒカルが無事であること、少し休ませてからまた連れて行くことを伝えると、ひとまずほっとしたようだ。またご迷惑をおかけして、と言っていたが、とりあえず適当にごまかして電話を切った。
「ほれ」
コーヒーを入れたマグを差し出すと、ヒカルはありがとうと受け取り、コーヒーの湯気を吹き飛ばすようにふぅふぅと息をかけていた。
俺はその間にジャージを取り出し、横に置く。
「着ろよ。……シャツも着替えるか?」
この細い身体だ。どのTシャツならいいかと考えながら問うが、ヒカルは首を振ってジャージを受け取った。
「俺、ちょっとトイレ」
「うん」
俺はバストイレで一息ついた。こういうときにどう対応してよいのか、よく分からない。それは本人も同じことだろうと思いながらネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを一つ二つ外して腕も捲ると時計を外した。時計をつけていた左腕が圧迫感とわずかな荷重から解放され、少しだけほっとする。
たっぷり時間を置いてから、俺は部屋に戻った。ヒカルはシャツの上にジャージを着て、先ほどまで肩にかけていたスーツのジャケットを俺に差し出す。
「これ。ありがとう」
「ああ」
受け取ってハンガーにかけると、ネクタイも一緒にかけ、腕時計を手近なところに置いた。
ヒカルはゆっくりとコーヒーを口に含み、
「苦い」
「悪いな。砂糖も牛乳もない」
「うん」
ヒカルはふふと笑った。その笑顔に少しほっとする。
不用意に近づくこともためらわれ、俺はその場にあぐらをかいた。
「神崎さんは飲まないの?コーヒー」
「コップが一つしかない」
俺が応じた途端、ヒカルははっとして手に持っているマグと俺の顔を交互に見た。何の模様もないいたってシンプルなコップだ。何がそんなに物珍しいのかと思っていたが、ヒカルはうろたえた後俯いて、コップの温もりを確認するように両手で抱えている。
「神崎さんは」
呼んでから、ヒカルは言葉を探すように止まった。
「……男の人が、乱暴になるのって、どういうとき?」
俺はどういう顔をしていいのか困り、膝を立てた上に頬杖をつき、目を反らす。
「どうかなぁ。俺はあんまり乱暴な気分になったことがないからよく分かんねぇけど」
繕っても意味がないと、正直に答える。
「まあでも、大体は、どうしても手に入れたいとか、自分を見てほしいとか、そういう気持ちが暴走したときじゃないの」
ヒカルはふぅんとぼんやりした返事を返して、コーヒーを舐めるように口にする。
「……苦い」
「牛乳買ってきてホットミルクでもするか?」
「いい。神崎さん、いっつもこれ飲んでるんでしょ」
ヒカルはむきになったようにまた一口コーヒーをすすった。
「少女マンガとかでさ、ヒロインが乱暴された後、ヒーローが慰めてくれるパターンあるじゃん」
「じゃん、って俺少女マンガ読まないけど」
まあありがちな展開な気はする。
ーーが、今その話はどうなんだ。
「……、抱きしめて」
よほど勇気を出したらしい、ヒカルの小さい声がかすれている。
俺はあきれた顔で後ろ頭をがしがしと掻いた。
「お前なぁ。そういう、反応に困ること言うなよ」
「いいじゃん。恋人は無理あるの分かってるもん。妹でも、娘でも、何でもいいから」
「いや、さすがに娘ってほどの歳ではーー」
言いかけて考える。えーと。中二ってことは14?18で子供作ればまあギリギリ有り得るレベルか。
その気づきに妙なショックを受けつつ黙り込んでから、はっと我に返った。そんなことは今どうでもいい。
「俺はお前のヒーローじゃないぞ」
「分かってるよ。……でも、」
強がっていたヒカルの目から、不意に涙が溢れた。
「……怖かった」
マグを置いて俯き、だぼだぼのジャージの袖で瞼を抑える少女に、胸が軋む。
腹の底から息を吐き切ってから、俺はずりずりとヒカルの隣に座り直し、その背に手を置いた。
ヒカルは手で顔を覆ったまま、上体を俺に預けてくる。
その背に両手を添えると、声を上げて泣きはじめた。