冷たい華道家は、私だけに花を乱す

第20話(最終話) 冷たい華道家は、私だけに花を乱す


京都華道展から三か月が過ぎた。
東京には、秋の気配が訪れていた。
朝の空気は少し冷たく、花乃井の店先には、色とりどりの秋の花が並んでいる。
深紅のダリア。
白いリンドウ。
薄紫のクジャクソウ。
そして、黄金色の小菊。
私はいつものように、店の前で花を並べていた。
「……よし」
最後の花器を置く。
少し離れて眺める。
うん。
悪くない。
私は小さく頷いた。
そのとき。
背後から声がした。
「……その枝、少し右に」
私は振り返らずに答えた。
「動かしません」
「……」
「この角度がいいんです」
短い沈黙。
そして。
「……そうですか」
私は笑った。
「そうです」
振り返る。
そこには、久遠朔が立っていた。
濃紺の着物。
白い襟。
整った黒髪。
相変わらず、どこか近寄りがたいほど美しい。
けれど、その目は優しかった。
「おはようございます、小春」
私は微笑んだ。
「おはよう、朔」
彼は店先の花を見つめた。
そして、静かに言った。
「……綺麗ですね」
私は少し笑った。
「ありがとう」
彼は頷いた。
「あなたらしいです」
私は首を傾げた。
「……どこが?」
朔は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「少し、自由なところが」
私は吹き出した。
「それ、褒めてる?」
「もちろんです」
彼は真剣だった。
私は笑った。
「……もう」
三か月前。
私たちは京都華道展で、特別賞を受賞した。
共同作品『居場所』。
曲がった枝。
苔。
石。
そして、まだ咲いていない白い蕾。
その作品は、華道界で小さな話題になった。
『名門を離れた天才華道家、新しい表現へ』
『花屋との共同制作が示した可能性』
『華道と生命管理の融合』
そんな記事が掲載された。
けれど、私たちの生活が劇的に変わったわけではない。
私は今も、花乃井で働いている。
朝から花を仕入れ、茎を切り、水を替え、配達の準備をする。
朔は独立した華道家として、小さな仕事を積み重ねている。
企業の装花。
個人宅の花。
そして、花乃井で開く月二回の教室。
大きな収入ではない。
けれど、少しずつ仕事が増えていた。
何より、朔は以前よりよく笑うようになった。
「……小春」
彼が静かに言った。
「何?」
「今日は、教室の日ですね」
私は頷いた。
「うん」
「準備は?」
「ほとんど終わってる」
朔は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私は笑った。
「朔も、ちゃんと働いてね」
彼は真剣に頷いた。
「もちろんです」
私は少し笑った。
「それから」
「はい」
「右手、無理しないこと」
朔は右手を持ち上げた。
以前のような大きな装具は、もうつけていない。
けれど、長時間の細かい作業や重い花器の扱いは、今も制限されている。
医師の指導のもと、リハビリを続けていた。
朔は頷いた。
「わかっています」
私は目を細めた。
「本当に?」
彼は少し笑った。
「本当です」
私は頷いた。
「なら、よし」
朔は静かに微笑んだ。
「……あなたには、かないませんね」
私は笑った。
「知ってる」
そのとき。
店長が奥から出てきた。
「小春ちゃん、朔さん」
私たちは振り返った。
「おはようございます」
店長は嬉しそうだった。
「ちょっと、いい知らせがあるの」
私は顔を上げた。
「何ですか?」
店長は一枚の書類を見せた。
「賃貸借契約の更新、正式にまとまったわ」
私は息を止めた。
「……本当ですか」
店長は頷いた。
「ええ」
私は書類を受け取った。
そこには、契約更新の条件が記されていた。
賃料は、従来の水準を基本に、双方が合意した小幅な改定。
契約期間も、これまでどおり確保されている。
私は胸が熱くなった。
「……よかった」
店長は笑った。
「本当にね」
私は書類を見つめた。
花乃井。
七十年続いてきた、小さな花屋。
私が働き始めてから四年。
毎朝、花を並べてきた場所。
泣いたこともある。
失敗したこともある。
嬉しいことも、たくさんあった。
その店を、これからも続けられる。
私は目を伏せた。
「……よかったです」
店長が私の肩を軽く叩いた。
「小春ちゃん、ありがとう」
私は首を横に振った。
「私だけじゃないです」
店長は頷いた。
「そうね」
商店街の人たち。
相談に乗ってくれた弁護士。
新しい注文をくれたお客様。
そして、毎日店を支えてきた人たち。
みんなの力だった。
朔も静かに頭を下げた。
「おめでとうございます」
店長は笑った。
「ありがとう、朔さん」
そして、少し意味ありげに私たちを見た。
「これで、二人とも安心して仕事ができるわね」
私は顔が熱くなった。
「……はい」
朔は真剣に頷いた。
「はい」
店長は小さく笑った。
「本当に、仲がいいこと」
私は慌てた。
「……店長」
朔は静かに言った。
「大切な人なので」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
店長は声を出して笑った。
午前中。
花乃井の教室が始まった。
今日のテーマは『秋の一輪』。
参加者は八人。
以前より少し増えていた。
私は花材の説明を担当し、朔は構成の考え方を教えた。
「花をよく見てください」
彼の声は、静かだった。
「同じ種類でも、一本ずつ違います」
参加者たちは真剣に聞いていた。
朔は一本のリンドウを持ち上げた。
「茎の曲がり方」
「……」
「花の開き方」
「……」
「葉の向き」
彼はゆっくり花を回した。
「それぞれに、個性があります」
私は隣で微笑んだ。
朔は続けた。
「今日は、その個性を生かしてください」
一人の女性が手を挙げた。
「先生」
朔が振り返る。
「はい」
「うまくできなかったら、どうすればいいですか」
朔は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「うまくできなくても、いいんです」
私は思わず顔を上げた。
以前の彼なら、絶対に言わなかった言葉だった。
朔は続けた。
「まず、自分が好きだと思う形を探してください」
女性は少し驚いた。
「……それでいいんですか」
朔は頷いた。
「はい」
そして、静かに言った。
「花は、正解を求めていませんから」
私は胸が温かくなった。
十歳のころ。
曲がった枝を捨てるように言われた少年。
その少年が今、誰かに自由を教えている。
私は静かに微笑んだ。
教室が終わると、参加者たちは嬉しそうに作品を持ち帰った。
片づけをしていると、朔が私の隣に来た。
「……小春」
「何?」
「今日も、楽しかったです」
私は笑った。
「よかった」
彼は頷いた。
「はい」
そして、少し照れたように言った。
「あなたと働くのが、好きです」
私は顔が熱くなった。
「……仕事中だよ」
朔は真剣だった。
「仕事の話です」
私は吹き出した。
「……そうですか」
彼は微笑んだ。
「はい」
その日の午後。
私たちは久遠家を訪ねた。
京都華道展が終わってから、初めてだった。
大きな門。
白い石畳。
整えられた庭。
以前は、緊張する場所だった。
けれど、今日は少し違っていた。
門をくぐると、美月が迎えてくれた。
「いらっしゃい」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
美月は微笑んだ。
「小春さん、よく来てくださいました」
私は少し照れた。
「ありがとうございます」
朔も頭を下げた。
「母さん」
美月は彼を見た。
そして、静かに微笑んだ。
「元気そうね」
朔は頷いた。
「はい」
私たちは客間へ案内された。
そこには、宗一郎が待っていた。
濃い灰色の着物。
厳しい表情。
けれど、以前より少し痩せたように見えた。
彼は立ち上がった。
「……朔」
朔は頭を下げた。
「父さん」
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
彼は静かに頷いた。
「座ってくれ」
私たちは向かい合って座った。
しばらく、静かな時間が流れた。
やがて、宗一郎が口を開いた。
「……京都の作品、改めて見事だった」
朔は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
宗一郎は続けた。
「私には、あのような花は生けられない」
私は顔を上げた。
宗一郎は静かに言った。
「久遠流の伝統とは、違う」
朔は黙った。
宗一郎は続けた。
「だが、美しかった」
長い沈黙。
そして。
「……認めよう」
朔の目が揺れた。
宗一郎は続けた。
「おまえは、自分の花を見つけた」
朔は何も言えなかった。
私は隣で、静かに見守っていた。
宗一郎は目を伏せた。
「私は、ずっと間違えていたのかもしれない」
朔は顔を上げた。
「……父さん」
宗一郎は続けた。
「久遠流を守ることばかり考えていた」
「……」
「おまえ自身が、何を望んでいるのか」
彼は少し言葉を切った。
「聞こうとしなかった」
長い沈黙。
そして。
「……すまなかった」
朔は息を止めた。
私は胸が熱くなった。
宗一郎が、息子に謝った。
初めてだったのかもしれない。
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……ありがとうございます」
宗一郎は顔を上げた。
朔は続けた。
「でも、僕は久遠流には戻りません」
宗一郎は黙った。
朔は静かに言った。
「自分の花を、生け続けたいので」
長い沈黙。
そして。
宗一郎はゆっくり頷いた。
「……そうか」
朔は頷いた。
「はい」
宗一郎は少し笑った。
「……わかった」
私は胸が温かくなった。
そのとき。
宗一郎が私を見た。
「三崎さん」
私は顔を上げた。
「……はい」
「お父様のことだが」
私は息を止めた。
宗一郎は続けた。
「旧温室の調査と改修計画について、報告したい」
私は頷いた。
「お願いします」
宗一郎は資料を差し出した。
そこには、第三者による調査結果がまとめられていた。
旧温室の安全上の問題。
改修費の不適切な振替。
そして、管理体制の不備。
私は一枚ずつ読んだ。
宗一郎は静かに説明した。
「征臣は、副家元の職を退いた」
私は顔を上げた。
「……そうですか」
「会計処理については、外部の専門家と関係機関による確認が続いている」
宗一郎は続けた。
「事故当日の設備操作についても、調査中だ」
私は頷いた。
「……わかりました」
宗一郎は静かに言った。
「確定していないことを、断定するつもりはない」
私は少し安心した。
彼は続けた。
「だが、施設管理上の責任は、久遠流にある」
私は黙った。
宗一郎は目を伏せた。
「旧温室は、当面使用を停止する」
「……」
「安全性が確認されるまで、再開しない」
私は頷いた。
「……それがいいと思います」
宗一郎は続けた。
「そして、三崎さんのお父様が残した設計資料を、正式な記録として保存する」
私は胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
宗一郎は静かに言った。
「本来、もっと早くするべきだった」
私は目を伏せた。
父のことを思い出した。
病室で、私に笑いかけた父。
好きなことを大切にしなさい。
そう言ってくれた父。
私は静かに言った。
「……父は」
宗一郎が顔を上げた。
「何だ」
私は少し考えた。
そして、続けた。
「花が好きでした」
宗一郎は黙った。
私は続けた。
「建物を設計するときも、花のことを考えていました」
「……」
「そこにいる人が、花を見て安心できるように」
宗一郎は目を伏せた。
「……そうだったな」
私は微笑んだ。
「だから、これからも」
「……」
「そういう場所を、大切にしてください」
宗一郎は静かに頷いた。
「……約束する」
私は胸の奥で、何かが少しだけほどけるのを感じた。
すべてが終わったわけではない。
責任の問題も、調査も、まだ続いている。
けれど。
父が残した言葉は、ようやく正しい場所に届いた。
私はそう思った。
久遠家を出たあと。
私たちは駅まで歩いた。
夕方の空。
涼しい風。
街路樹の葉が、少し色づいていた。
朔は静かだった。
私は隣を歩きながら、尋ねた。
「……大丈夫?」
彼は顔を上げた。
「はい」
私は少し笑った。
「本当?」
朔は頷いた。
「本当です」
そして、静かに言った。
「少し、安心しました」
私は微笑んだ。
「……よかった」
朔は私を見た。
「小春」
「何?」
「今日は、ありがとうございました」
私は首を横に振った。
「私は、何もしてないよ」
朔は微笑んだ。
「一緒にいてくれました」
私は胸が温かくなった。
「……うん」
彼は続けた。
「それだけで、十分です」
私は少し照れた。
「……もう」
その夜。
私は久しぶりに、母の家へ帰った。
父のノートを返すためだった。
母は台所で夕食の準備をしていた。
「おかえり」
私は笑った。
「ただいま」
母は私の顔を見た。
「……何かあった?」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「うん」
私は久遠家での話をした。
旧温室の調査。
父の設計資料。
宗一郎の謝罪。
母は黙って聞いていた。
話し終えると、長い沈黙があった。
そして。
「……そう」
母は静かに言った。
私は頷いた。
「うん」
母は少し目を伏せた。
「お父さん、喜ぶかしら」
私は考えた。
そして、微笑んだ。
「……喜ぶと思う」
母は小さく笑った。
「そうね」
私は父のノートを差し出した。
「これ、ありがとう」
母は受け取った。
そして、静かにページをめくった。
花と建築。
曲がった枝。
小さな花。
そして、人が安心して過ごせる空間。
母は少し目を潤ませた。
「……懐かしい」
私は黙っていた。
母は続けた。
「お父さん、よく言ってたの」
私は顔を上げた。
「……何て?」
母は微笑んだ。
「建物も、花も、人がいて初めて意味があるって」
私は胸が熱くなった。
「……そうなんだ」
母は頷いた。
「うん」
そして、私を見た。
「小春」
「何?」
「幸せ?」
私は少し驚いた。
「……え?」
母は微笑んだ。
「朔さんといて」
私は顔が熱くなった。
少し考えた。
そして、静かに頷いた。
「……うん」
母は微笑んだ。
「よかった」
私は少し笑った。
「……ありがとう」
母は続けた。
「今度、連れていらっしゃい」
私は驚いた。
「……朔を?」
「ええ」
母は頷いた。
「ちゃんと、ご飯を作ってあげたいから」
私は笑った。
「……うん」
その夜。
私は朔に電話をかけた。
「朔」
『小春』
「今、何してる?」
『花の図面を描いています』
私は笑った。
「また?」
『はい』
彼は少し照れたようだった。
『新しい仕事の依頼がありまして』
私は驚いた。
「本当?」
『はい』
「おめでとう」
『ありがとうございます』
私は少し嬉しかった。
「どんな仕事?」
『小さな図書館の装花です』
私は顔を上げた。
「……図書館?」
『はい』
彼は続けた。
『子どもたちが集まる場所に、花を置きたいそうです』
私は胸が温かくなった。
「……いいね」
『はい』
朔は微笑んだようだった。
『小春』
「何?」
『また、相談に乗ってもらえますか』
私は笑った。
「もちろん」
『ありがとうございます』
私は少し考えた。
そして、言った。
「それから」
『はい』
「母が、今度ご飯を食べに来てって」
電話の向こうが静かになった。
『……僕が?』
私は笑った。
「うん」
『……本当ですか』
「本当」
長い沈黙。
そして。
『……嬉しいです』
私は胸が温かくなった。
「よかった」
彼は少し考えた。
そして、真剣に尋ねた。
『何を持っていけばいいでしょう』
私は吹き出した。
「何もいらないよ」
『でも』
「本当に」
朔は少し黙った。
そして。
『……花を持っていってもいいですか』
私は笑った。
「もちろん」
彼は嬉しそうだった。
『では、考えておきます』
私は微笑んだ。
「うん」
そして、少し迷った。
「……朔」
『はい』
「旅行のこと、覚えてる?」
電話の向こうで、彼が息を呑んだ。
『もちろんです』
私は笑った。
「海」
『はい』
「そろそろ、行こうか」
長い沈黙。
そして。
『……本当ですか』
私は吹き出した。
「何回聞くの」
朔は少し笑った。
『すみません』
私は頷いた。
「来月、休みを取れそうだから」
『……はい』
「二人で、行こう」
彼の声が柔らかくなった。
『……ありがとう』
私は微笑んだ。
「うん」
そして、静かに言った。
「楽しみにしてる」
朔は少し沈黙した。
そして。
『……僕もです』
その声は、とても幸せそうだった。
一か月後。
私たちは海へ向かった。
東京から電車で二時間ほど。
小さな海辺の町。
観光地としては、それほど有名ではない。
けれど、静かな海が広がっていた。
私は駅を出た瞬間、深呼吸した。
「……気持ちいい」
朔は隣で海を見つめていた。
「……綺麗ですね」
私は笑った。
「うん」
彼は少し目を細めた。
「花が、ありませんね」
私は吹き出した。
「そりゃ、海だから」
朔も少し笑った。
「そうですね」
私たちは海岸を歩いた。
白い砂。
青い空。
波の音。
潮の香り。
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……不思議です」
私は顔を上げた。
「何が?」
彼は海を見つめた。
「何も、生けられていないのに」
私は黙った。
「……」
「こんなに、美しい」
私は胸が温かくなった。
「……そうだね」
彼は微笑んだ。
「僕は、ずっと」
「……」
「美しさは、作るものだと思っていました」
私は頷いた。
「うん」
朔は続けた。
「でも、違うんですね」
私は彼を見た。
彼は静かに言った。
「最初から、そこにあるものも美しい」
私は微笑んだ。
「……うん」
朔は私を見た。
「小春」
「何?」
「あなたも、そうです」
私は固まった。
「……え?」
彼は真剣だった。
「何もしなくても、美しい」
私は顔が熱くなった。
「……急に何を言うの」
朔は首を傾げた。
「本当のことです」
私は思わず笑った。
「……もう」
彼は微笑んだ。
「好きです」
私は顔を覆った。
「……海に来ても、それ?」
朔は真剣だった。
「海に来たからこそ、です」
私は吹き出した。
「意味がわからない」
彼は少し考えた。
そして、静かに言った。
「あなたといると、何でも美しく見えるので」
私は何も言えなかった。
波の音。
風。
遠くの鳥の声。
そのすべてが、急に鮮やかになった気がした。
私は彼を見た。
「……朔」
「はい」
「私も、好き」
その瞬間。
彼の表情が、ゆっくり変わった。
嬉しそうで。
少し驚いていて。
そして、幸せそうだった。
私は笑った。
「何回言っても、そんな顔するね」
朔は少し照れた。
「……慣れません」
私は微笑んだ。
「慣れなくていいよ」
彼は頷いた。
「はい」
私たちは手をつないだ。
そして、海岸を歩き続けた。
夕方。
私たちは小さな宿に着いた。
窓から海が見える部屋だった。
私は荷物を置いた。
「……いい部屋」
朔は頷いた。
「はい」
そして、少し緊張した顔をしていた。
私は首を傾げた。
「……どうしたの?」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「……同じ部屋ですね」
私は顔が熱くなった。
「……そうだね」
朔は真剣だった。
「無理をさせるつもりはありません」
私は少し笑った。
「わかってる」
彼は頷いた。
「はい」
私は窓際に立った。
海が見える。
夕日が、水面を赤く染めていた。
私は静かに言った。
「……朔」
彼が近づいた。
「はい」
私は振り返った。
そして、微笑んだ。
「一緒に来られて、よかった」
朔は静かに頷いた。
「……僕もです」
私は彼の左手を取った。
「これからも、いろんなところに行こうね」
朔は微笑んだ。
「はい」
私は続けた。
「仕事もして」
「……」
「喧嘩もして」
朔が少し驚いた。
「……喧嘩も?」
私は笑った。
「することもあるでしょう」
彼は少し考えた。
そして、頷いた。
「……そうですね」
私は続けた。
「でも、ちゃんと話して」
「……」
「一緒に、暮らしていけたらいいな」
朔は息を止めた。
長い沈黙。
そして。
「……小春」
彼の声が震えた。
私は顔を上げた。
「何?」
朔は私の手を握り直した。
「僕も、そう思っています」
私は胸が温かくなった。
「……うん」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「いつか」
私は黙った。
「……」
「一緒に暮らしませんか」
私は息を止めた。
彼は続けた。
「今すぐではなくても」
「……」
「お互いの仕事が落ち着いたら」
私は彼を見つめた。
真剣な目。
少し緊張した表情。
そして、どこか不器用な優しさ。
私は微笑んだ。
「……うん」
朔の目が揺れた。
「……本当ですか」
私は笑った。
「うん」
そして、静かに続けた。
「一緒に考えよう」
朔は目を閉じた。
深く息を吐いた。
「……ありがとう」
私は少し笑った。
「まだ、何も決まってないよ」
彼は頷いた。
「はい」
そして、微笑んだ。
「それでも、嬉しいです」
私は胸が温かくなった。
そのとき。
朔が少し顔を近づけた。
「……小春」
「何?」
「キスしてもいいですか」
私は笑った。
「また?」
彼は真剣だった。
「はい」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「……いいよ」
朔は優しく私を抱き寄せた。
唇が触れる。
柔らかく。
温かく。
静かなキス。
私は目を閉じた。
波の音が聞こえる。
遠くで、鳥が鳴いている。
彼の腕の中は、安心できる場所だった。
やがて、唇が離れた。
朔は私を見つめた。
「……小春」
「何?」
彼は少し笑った。
「僕は、あなたの前では」
私は首を傾げた。
「……?」
「いつも、冷静でいられません」
私は吹き出した。
「知ってる」
朔は少し困った顔をした。
「……そうですか」
私は笑った。
「うん」
そして、彼の頬に触れた。
「でも、私は」
朔が顔を上げた。
私は微笑んだ。
「そんな朔が、一番好き」
その瞬間。
彼の表情が崩れた。
嬉しそうで。
少し泣きそうで。
そして、どうしようもなく幸せそうだった。
私は胸が熱くなった。
「……朔」
彼は私を抱きしめた。
「……小春」
その声は、かすかに震えていた。
「ありがとう」
私は彼の背中に手を回した。
「……うん」
しばらく、そのままでいた。
やがて。
窓の外で、夕日が海に沈んだ。
空は、淡い紫色に変わっていった。
私は彼の胸に顔を寄せたまま、静かに言った。
「……ねえ、朔」
「はい」
「最初に会った日のこと、覚えてる?」
彼は微笑んだ。
「もちろん」
私は笑った。
「雨の日」
「はい」
「公園で、花を見てた」
朔は頷いた。
「あなたに、叱られました」
私は吹き出した。
「だって、花を傷つけてたから」
彼は少し笑った。
「そうですね」
私は続けた。
「そのとき、私、言ったよね」
朔は静かに頷いた。
そして、私より先に言った。
「花は、誰かに見てもらえなくても咲くんだよ」
私は息を止めた。
彼は微笑んだ。
「一言も、忘れていません」
私は胸が熱くなった。
「……そっか」
朔は続けた。
「僕は、あの日」
私は顔を上げた。
「……うん」
「初めて、自分の花を見つけた気がしました」
私は黙った。
彼は静かに言った。
「そして」
「……」
「初めて、誰かを好きになりました」
私は胸が熱くなった。
「……朔」
彼は微笑んだ。
「五年間、忘れられませんでした」
私は何も言えなかった。
雨の日。
公園。
白い花。
傷ついた手。
そして、見知らぬ少年。
あの日の出会いが、今につながっている。
私は静かに微笑んだ。
「……私も」
朔が顔を上げた。
「……?」
私は少し笑った。
「きっと、忘れてなかったんだと思う」
彼の目が揺れた。
私は続けた。
「だから、もう一度会ったとき」
「……」
「どこか、懐かしかった」
朔は静かに息を吐いた。
そして、微笑んだ。
「……嬉しいです」
私は頷いた。
「うん」
私たちは窓の外を見た。
海。
空。
夕暮れ。
どこにも、花はなかった。
けれど。
私は思った。
花は、そこにあるだけで美しい。
誰かに選ばれなくても。
誰かに認められなくても。
自分の場所で、咲いていればいい。
そして、人もきっと同じなのだ。
久遠朔。
二十二歳。
天才華道家。
冷たく、美しく、誰にも心を開かなかった青年。
その彼が今、私の隣で笑っている。
私はそっと、彼の手を握った。
「……朔」
「はい」
「これからも、よろしくね」
彼は微笑んだ。
「こちらこそ」
そして、静かに続けた。
「一生、大切にします」
私は顔が熱くなった。
「……また、そういうこと言う」
朔は真剣だった。
「本当です」
私は笑った。
「知ってる」
彼は少し照れた。
そして、私を抱き寄せた。
「……小春」
「何?」
「愛しています」
私は目を閉じた。
そして、静かに答えた。
「……私も」
波の音が、優しく響いていた。
花は、誰かに見てもらえなくても咲く。
けれど。
もし、隣でその花を見つめてくれる人がいたなら。
世界は、少しだけ美しくなる。
私は、そう信じている。
そして。
冷たい華道家は、今日も私の前でだけ、どうしようもなく心を乱す。
それが、私の一番好きな彼の姿だった。
完
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