冷たい華道家は、私だけに花を乱す

第19話 花は、誰かに許されなくても咲く


京都華道展、二日目。
朝の展示室には、まだ観客が入っていなかった。
私は作品『居場所』の前にしゃがみ込み、白い蕾の状態を確かめていた。
昨日より、ほんの少し膨らんでいる。
薄い緑色だった萼の隙間から、白い花弁が見え始めていた。
私は思わず笑った。
「……咲きそう」
背後から声がした。
「本当ですね」
朔だった。
濃紺の着物。
右手には装具。
彼は私の隣にしゃがもうとして、少し動きを止めた。
私は慌てて言った。
「無理しないで」
朔は小さく笑った。
「わかっています」
そして、少し離れた位置から花を見つめた。
「……昨日より、美しくなりましたね」
私は頷いた。
「うん」
彼は静かに言った。
「完成した作品が、完成したときより美しくなる」
私は顔を上げた。
「……不思議?」
朔は微笑んだ。
「いえ」
そして、静かに続けた。
「これが、花なんですね」
私は胸が温かくなった。
かつての朔は、花を完璧な形に固定しようとしていた。
咲き方も。
向きも。
高さも。
すべてを自分の美意識に従わせようとしていた。
けれど今は、花が変化することを喜んでいる。
私はその姿が好きだった。
「……朔」
「はい」
「今日も、頑張ろうね」
彼は頷いた。
「はい」
そして、静かに微笑んだ。
「一緒に」
午前九時。
京都華道展の二日目が始まった。
会場には、昨日以上の観客が訪れていた。
作品『居場所』の前にも、多くの人が立ち止まった。
若い女性。
年配の夫婦。
外国人の観光客。
華道を学ぶ学生たち。
それぞれが、静かに作品を見つめていた。
私は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
すると、一人の少女が母親に尋ねた。
「ねえ、どうしてこの花、まだ咲いてないの?」
母親は少し困った顔をした。
「……どうしてかしら」
私は近づいた。
「よかったら、説明しましょうか」
少女は頷いた。
「うん」
私は作品を指さした。
「この花は、これから咲くところなんです」
少女は首を傾げた。
「まだ、咲いてないのに?」
私は頷いた。
「うん」
そして、静かに言った。
「咲く前の花も、綺麗でしょう」
少女はしばらく蕾を見つめた。
そして、笑った。
「……うん」
私は微笑んだ。
「だから、このままにしてあるんです」
少女は頷いた。
「そっか」
そして、母親の手を引いた。
「お母さん、明日も見たい」
母親は笑った。
「そうね」
私は胸が温かくなった。
花は、咲いているときだけ美しいわけではない。
これから咲く時間にも、意味がある。
私はそのことを、少しでも伝えられた気がした。
昼前。
会場の奥から、ざわめきが聞こえてきた。
私は顔を上げた。
何人かの関係者が、慌ただしく歩いている。
その中心に、久遠宗一郎の姿があった。
厳しい表情。
濃い灰色の着物。
そして、その隣には、見知らぬ男性が二人いた。
私は胸が冷たくなった。
朔も気づいたらしい。
「……父です」
私は頷いた。
「うん」
宗一郎は私たちの展示区画の前で立ち止まった。
そして、静かに頭を下げた。
「朔」
朔も頭を下げた。
「父さん」
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
宗一郎はしばらく作品を見つめた。
曲がった枝。
苔。
石。
そして、小さな白い蕾。
長い沈黙。
やがて。
「……これが、おまえの花か」
朔は静かに答えた。
「僕たちの花です」
宗一郎は顔を上げた。
朔は続けた。
「小春と、真田さんと、一緒に作りました」
宗一郎は黙った。
そして、もう一度作品を見た。
しばらくして、静かに言った。
「……そうか」
私は少し驚いた。
それ以上、否定しなかった。
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「……はい」
「お父様のことで、話があります」
私は息を止めた。
朔が私を見た。
私はゆっくり頷いた。
「……わかりました」
私たちは会場内の小さな応接室へ移った。
宗一郎と、二人の男性。
一人は外部調査を担当した公認会計士。
もう一人は弁護士だった。
宗一郎は静かに言った。
「まず、謝罪させてほしい」
私は顔を上げた。
彼は深く頭を下げた。
「三崎さんのお父様に対して、私は責任を果たさなかった」
私は何も言えなかった。
宗一郎は続けた。
「六年前、旧温室の改修について、危険性を指摘されていた」
「……」
「それにもかかわらず、私は対応を先延ばしにした」
私は黙った。
彼は顔を上げた。
「理由は、久遠流の内部問題を表に出したくなかったからだ」
私は胸が苦しくなった。
「……父は」
声が震えた。
「何度も、危険だと伝えていたんですよね」
宗一郎は頷いた。
「……ああ」
私は目を伏せた。
父のノート。
丁寧な字。
何度も書かれた注意事項。
その一つひとつが、今になって重く感じられた。
私は静かに言った。
「……父は、亡くなる前まで気にしていました」
宗一郎は黙った。
私は続けた。
「自分が設計に関わった建物で、誰かが怪我をするかもしれないって」
長い沈黙。
宗一郎は静かに答えた。
「……申し訳なかった」
私は何も言えなかった。
すぐに許すことはできなかった。
けれど、話を聞くことはできた。
私は顔を上げた。
「……調査では、何がわかったんですか」
公認会計士が資料を開いた。
「現時点で確認できた事実をご説明します」
私は頷いた。
「お願いします」
彼は続けた。
「文化財修復事業の資金の一部が、承認された目的と異なる事業に振り替えられていました」
私は息を止めた。
「……」
「その処理には、久遠征臣氏が関与していたことが確認されています」
朔が静かに尋ねた。
「父の指示だったという主張は?」
会計士は首を横に振った。
「少なくとも、確認できた資料からは、その主張を裏づける記録は見つかっていません」
宗一郎は目を伏せた。
会計士は続けた。
「ただし、当時の管理体制に問題があったことは事実です」
宗一郎は頷いた。
「……私の責任だ」
私は黙って聞いていた。
弁護士が口を開いた。
「また、旧温室の設備管理記録についても確認しました」
私は息を止めた。
「……」
「事故当日、久遠征臣氏が設備室に入った記録があります」
私は頷いた。
「聞いています」
弁護士は続けた。
「その際、排水設備の一部が停止された可能性があります」
私は胸が冷たくなった。
「……可能性?」
「はい」
弁護士は慎重に答えた。
「記録だけでは、操作の目的や事故との因果関係までは断定できません」
私は頷いた。
「……わかりました」
弁護士は続けた。
「ただ、設備管理上の問題があったことは否定できません」
朔は静かに尋ねた。
「今後は?」
宗一郎が答えた。
「第三者による追加調査を行う」
そして、静かに続けた。
「必要な資料は、関係機関にも提出する」
私は顔を上げた。
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「……はい」
「お父様の仕事を、正当に評価し直したい」
私は黙った。
彼は続けた。
「危険を指摘した記録を、正式な資料として残す」
私は胸が熱くなった。
「……」
「そして、旧温室の改修計画についても、再検討する」
私は静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
けれど、私は続けた。
「ただ」
宗一郎が顔を上げた。
「父のためだけじゃなくて」
私はまっすぐ彼を見た。
「これから、その建物を使う人のために、お願いします」
長い沈黙。
宗一郎は静かに頷いた。
「……そのとおりだ」
私は胸の奥で、何かが少しだけほどけるのを感じた。
すべてが解決したわけではない。
けれど、父の言葉が、ようやく誰かに届いた。
私はそう思った。
応接室を出たあと。
朔が私の隣に立った。
「……小春」
私は顔を上げた。
「何?」
彼は静かに尋ねた。
「大丈夫ですか」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「……うん」
朔は黙っていた。
私は続けた。
「まだ、いろいろ考えることはあるけど」
「……」
「少し、安心した」
彼は微笑んだ。
「……よかった」
私は彼の左手を握った。
「ありがとう」
朔は首を横に振った。
「僕は、何も」
私は笑った。
「一緒にいてくれたでしょう」
彼は少し驚いた。
そして、静かに微笑んだ。
「……はい」
その日の午後。
久遠征臣の作品の前には、多くの人が集まっていた。
巨大な松。
白い菊。
黒い花器。
圧倒的な存在感。
私は少し離れた場所から、その作品を見つめていた。
朔も隣にいた。
「……綺麗だね」
私は呟いた。
朔は頷いた。
「はい」
私は少し驚いた。
「本当に、そう思う?」
彼は微笑んだ。
「もちろんです」
そして、静かに続けた。
「叔父の技術は、本物です」
私は黙った。
朔は続けた。
「だからこそ、残念です」
私は顔を上げた。
「……何が?」
彼は作品を見つめた。
「花を生けることだけで、勝負してほしかった」
私は胸が苦しくなった。
そのとき。
背後から声がした。
「……朔」
振り返る。
征臣だった。
顔色が悪かった。
けれど、背筋は伸びていた。
朔は頭を下げた。
「叔父さん」
征臣は作品を見つめた。
そして、静かに言った。
「……どうだ」
朔は答えた。
「美しいです」
征臣は少し笑った。
「……そうか」
長い沈黙。
そして。
「おまえの作品も見た」
朔は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
征臣は目を細めた。
「花が少なすぎる」
私は息を止めた。
朔は静かに頷いた。
「そうですね」
征臣は続けた。
「技術も、見せ場もない」
朔は黙った。
征臣は低い声で言った。
「それで、華道家を名乗るつもりか」
私は思わず口を開きかけた。
けれど、朔が静かに答えた。
「はい」
征臣の表情が変わった。
朔は続けた。
「僕は、あの作品が好きです」
長い沈黙。
そして。
「小春と作った花だからです」
征臣は黙った。
朔は静かに言った。
「叔父さん」
「……何だ」
「僕は、叔父さんの花も好きです」
征臣の目が揺れた。
朔は続けた。
「子どものころ、何度も見ていました」
「……」
「松の扱い方も、枝の残し方も」
彼は少し微笑んだ。
「たくさん学びました」
征臣は何も言わなかった。
朔は続けた。
「だから、花のことで競いたかった」
長い沈黙。
征臣は目を伏せた。
そして、静かに言った。
「……おまえには、わからん」
朔は黙った。
征臣は続けた。
「私は、三十年、兄の下にいた」
「……」
「何をしても、兄の名前が先に出た」
彼の声が低くなった。
「そして、おまえが生まれた」
朔は顔を上げた。
征臣は続けた。
「天才の息子」
「……」
「久遠流の未来」
彼は笑った。
「私が積み重ねてきたものは、何だったんだろうな」
私は胸が苦しくなった。
朔は静かに言った。
「叔父さん」
征臣は首を横に振った。
「同情はいらん」
朔は黙った。
征臣は続けた。
「私は、間違えたのかもしれない」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、すぐに顔を上げた。
「だが、花では負けん」
朔は静かに頷いた。
「はい」
征臣は背を向けた。
そして、去っていった。
私はその背中を見つめた。
朔が静かに言った。
「……叔父は、花が好きなんです」
私は頷いた。
「……うん」
「でも」
彼は少し目を伏せた。
「好きなものを、誰かに勝つためだけに使うようになってしまった」
私は何も言えなかった。
夕方。
京都華道展の公開講評が始まった。
会場中央に、審査員たちが集まっていた。
今回の展覧会では、順位を決めるだけでなく、作品の思想や技術について公開で講評する時間が設けられていた。
私は朔と並んで座った。
胸が高鳴る。
次々に作品が紹介されていく。
伝統的な大作。
現代的な造形。
大胆な色彩。
繊細な小品。
どれも素晴らしかった。
やがて、久遠征臣の作品が紹介された。
審査員の一人が言った。
「久遠流の伝統技法を高度に完成させた作品です」
別の審査員が続けた。
「松の力強さと菊の配置に、長年の経験が表れています」
会場から拍手が起きた。
征臣は静かに頭を下げた。
私はその姿を見つめた。
やがて。
「続いて、久遠朔氏、三崎小春氏による共同作品『居場所』です」
私は息を止めた。
朔が私の左手をそっと握った。
私は彼を見た。
彼は微笑んだ。
「……大丈夫です」
私は頷いた。
審査員が口を開いた。
「この作品は、非常に興味深い試みです」
私は胸が高鳴った。
「花の量は少なく、造形的な派手さもありません」
会場が静かになった。
審査員は続けた。
「しかし、余白の使い方に独自性があります」
私は息を止めた。
「中央の曲がった枝は、自然の時間を感じさせます」
「……」
「そして、足元の蕾」
審査員は少し微笑んだ。
「まだ咲いていない花を、作品の中心的な意味として扱っています」
私は胸が熱くなった。
別の審査員が続けた。
「また、展示期間中の花の変化を前提にしている点も特徴的です」
「……」
「通常、展示作品は完成時の美しさを維持することを重視します」
私は頷いた。
「しかし、この作品は、花が変化することを受け入れています」
長い沈黙。
そして。
「生命そのものを、作品の一部にしている」
私は目を伏せた。
胸が熱くなった。
審査員は続けた。
「共同制作の役割分担も明確です」
「……」
「造形設計と生命管理が、対等に機能しています」
私は息を止めた。
「今後の華道表現に、一つの可能性を示した作品と言えるでしょう」
会場から拍手が起きた。
私は何も言えなかった。
朔が私の手を握り直した。
私は彼を見た。
その目が、少し潤んでいた。
私は小さく笑った。
「……よかったね」
朔は頷いた。
「……はい」
そして、静かに言った。
「あなたと作って、よかった」
私は胸が熱くなった。
「……私も」
講評が終わったあと。
私たちは展示室へ戻った。
夕方の光が、作品『居場所』を照らしていた。
白い蕾は、朝より少し開いていた。
私はしゃがみ込んだ。
「……朔」
彼が近づいた。
「はい」
私は花を指さした。
「見て」
朔は静かに息を呑んだ。
小さな白い花弁。
その中心に、淡い黄色の光。
蕾が、咲き始めていた。
私は微笑んだ。
「……咲いたね」
朔は何も言わなかった。
ただ、花を見つめていた。
長い沈黙。
そして。
「……小春」
彼の声が震えた。
私は顔を上げた。
「何?」
朔は静かに言った。
「僕は、ずっと」
「……」
「花を咲かせようとしていました」
私は黙った。
彼は続けた。
「でも、違ったんですね」
私は彼を見つめた。
朔は微笑んだ。
「花は、自分で咲く」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
彼は続けた。
「僕たちにできるのは、その場所を作ることだけなんですね」
私は頷いた。
「……そうだね」
朔は静かに笑った。
そして、私の手を取った。
「小春」
「何?」
「あなたに会えて、よかった」
私は少し笑った。
「……また?」
彼も笑った。
「何度でも言います」
私は胸が温かくなった。
そして、静かに答えた。
「……私も」
その夜。
京都華道展の関係者向け懇親会が開かれた。
私は朔と一緒に参加した。
会場には、多くの華道家や関係者が集まっていた。
私は少し緊張していた。
けれど、朔は私の隣に立っていた。
「……小春」
「何?」
「疲れましたか」
私は首を横に振った。
「大丈夫」
彼は微笑んだ。
「無理しないでください」
私は笑った。
「朔こそ」
彼も少し笑った。
そのとき。
一人の女性が近づいてきた。
九条玲奈だった。
淡い水色の着物。
落ち着いた表情。
彼女は私たちに頭を下げた。
「こんばんは」
私は頷いた。
「こんばんは」
玲奈は静かに言った。
「作品、見たわ」
朔が顔を上げた。
「ありがとうございます」
玲奈は微笑んだ。
「本当に、綺麗だった」
私は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
玲奈は続けた。
「私の作品も、見てくれた?」
私は頷いた。
「はい」
彼女の作品は、小さな花器に淡い色の花を数本だけ生けたものだった。
以前の玲奈なら、もっと華やかで、朔の作品に似た構成を選んでいただろう。
けれど、今回は違った。
柔らかく、静かな花だった。
私は微笑んだ。
「……素敵でした」
玲奈は少し驚いた。
「……本当?」
私は頷いた。
「はい」
そして、静かに続けた。
「玲奈さんらしい花だと思いました」
その瞬間。
彼女の目が揺れた。
長い沈黙。
そして。
「……ありがとう」
玲奈は小さく笑った。
朔も静かに頷いた。
「僕も、そう思いました」
玲奈は彼を見た。
そして、少し目を伏せた。
「……そう」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、彼女は微笑んだ。
「嬉しいわ」
私はその姿を見つめた。
彼女もまた、自分の花を探していたのだ。
そのとき。
玲奈が少し真剣な表情になった。
「三崎さん」
私は顔を上げた。
「……はい」
「花乃井のことだけど」
私は息を止めた。
玲奈は続けた。
「父の会社が、賃貸借契約について再検討することになったわ」
私は驚いた。
「……本当ですか」
玲奈は頷いた。
「ええ」
そして、静かに言った。
「私が関与した経緯も、正式に説明した」
私は何も言えなかった。
玲奈は続けた。
「一方的な賃料引き上げ案は、いったん撤回されたそうよ」
私は胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
玲奈は首を横に振った。
「お礼を言われることじゃないわ」
そして、静かに続けた。
「私が、最初に問題を起こしたんだから」
私は頷いた。
「……そうですね」
玲奈は少し笑った。
「厳しいのね」
私は微笑んだ。
「仕事のことなので」
玲奈は頷いた。
「……そうね」
そして、静かに言った。
「これからは、ちゃんと自分の花を生けるわ」
私は頷いた。
「はい」
玲奈は去っていった。
私はその背中を見つめた。
朔が静かに言った。
「……よかったですね」
私は頷いた。
「うん」
花乃井の問題が、少しずつ解決に向かっている。
それが、何より嬉しかった。
そのころ。
久遠流本部では、臨時の幹部会が開かれていた。
外部調査の最終報告を受け、文化財修復事業の会計処理について説明が行われた。
征臣が管理していた資金の一部に、不適切な振替処理が確認されたこと。
旧温室の改修費が、別の事業へ回されていたこと。
そして、宗一郎が問題を把握しながら、十分な対応を取らなかったこと。
幹部たちは、重い表情で資料を見つめていた。
宗一郎は静かに言った。
「私にも責任がある」
会議室が静かになった。
彼は続けた。
「久遠流の評判を守ることを優先し、問題を放置した」
「……」
「その結果、施設の安全対策が遅れた」
長い沈黙。
そして。
「私は、家元としての責任を取る」
幹部たちが顔を上げた。
宗一郎は静かに言った。
「一定期間、職務を停止する」
会議室がざわめいた。
彼は続けた。
「外部の専門家による監督体制を整え、会計と施設管理を見直す」
幹部たちは黙って聞いていた。
宗一郎は静かに言った。
「征臣についても、管理責任を調査し、必要な措置を取る」
そのころ。
征臣は一人で、京都のホテルの部屋にいた。
机の上には、外部調査の報告書が置かれていた。
彼は静かに笑った。
「……終わりか」
その声には、疲れが滲んでいた。
長い年月。
兄の影に隠れてきた。
自分の才能を認めてもらいたかった。
家元になりたかった。
誰よりも優れた華道家であると、証明したかった。
けれど。
気づけば、花を生けることより、誰かを負かすことに夢中になっていた。
征臣は窓の外を見た。
京都の夜。
遠くに、寺の屋根が見える。
彼は静かに呟いた。
「……朔」
その声は、以前より弱かった。
「おまえは、勝ったのか」
答える者はいなかった。
翌朝。
京都華道展の最終日。
私はいつもより早く会場へ向かった。
作品『居場所』の前に立つ。
白い蕾は、さらに開いていた。
小さな花。
柔らかな光。
そして、静かな余白。
私は微笑んだ。
「……おはよう」
そのとき。
背後から声がした。
「……小春」
振り返る。
朔が立っていた。
私は笑った。
「おはよう」
彼は微笑んだ。
「おはようございます」
私は花を指さした。
「見て」
朔は近づいた。
そして、静かに息を呑んだ。
白い花が、咲いていた。
小さく。
けれど、確かに。
朔はしばらく黙って見つめていた。
そして、静かに言った。
「……美しい」
私は頷いた。
「うん」
彼は私を見た。
「小春」
「何?」
「僕は、もう」
彼は少し言葉を切った。
「花を完璧に生けたいとは、思いません」
私は顔を上げた。
朔は続けた。
「花が、自分らしく咲ける場所を作りたい」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
彼は微笑んだ。
「あなたと一緒に」
私は笑った。
「……もちろん」
朔は左手を差し出した。
私はその手を握った。
そして、二人で作品を見つめた。
そのとき。
会場のアナウンスが流れた。
『本年度京都華道展の特別賞について、お知らせいたします』
私は息を止めた。
朔が私を見た。
私たちは顔を見合わせた。
そして、静かに頷いた。
アナウンスが続いた。
『本年度の特別賞は、共同制作による新しい華道表現を示した作品に授与されます』
私は胸が高鳴った。
『作品名』
短い沈黙。
そして。
『居場所』
私は息を止めた。
『久遠朔氏、三崎小春氏』
その瞬間。
会場から拍手が起きた。
私は何も言えなかった。
朔が私の手を握り直した。
私は彼を見た。
彼の目が、潤んでいた。
私は小さく笑った。
「……朔」
彼は頷いた。
「……はい」
私は胸がいっぱいになった。
「……よかったね」
朔は静かに微笑んだ。
「……はい」
そして。
「あなたと作れて、本当によかった」
私は頷いた。
「……私も」
拍手が、会場に広がっていた。
けれど。
私たちが見つめていたのは、賞状でも、審査員でもなかった。
小さな白い花だった。
誰かに選ばれなくても。
誰かに許されなくても。
その花は、静かに咲いていた。
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