冷たい華道家は、私だけに花を乱す

第6話 暗闇の中で、あなたの名前を呼ぶ


大きな音がした。
何かが倒れ、ガラスが砕け、女性の悲鳴が展示室に響いた。
照明は完全に消えていた。
窓のない展示室には、非常口を示す緑色の明かりだけが浮かんでいる。
私は朔の胸に抱き寄せられたまま、動けずにいた。
「小春」
耳元で声がした。
「怪我はありませんか」
「……はい」
「どこも痛くない?」
「大丈夫です」
朔の腕が、少しだけ緩んだ。
「よかった」
その声を聞いて、私は初めて彼が震えていることに気づいた。
「朔?」
「はい」
「あなたは?」
「大丈夫です」
けれど、彼の呼吸は速かった。
私は暗闇の中で、彼の右手を探した。
指先に触れる。
温かい。
けれど、その手は強く握りしめられていた。
「朔」
「……」
「落ち着いて」
彼は答えなかった。
私はそっと手を握った。
「私はここにいるから」
その瞬間、彼の指が動いた。
そして、私の手を握り返した。
「……小春」
まるで、何かを確かめるような声だった。
「はい」
「絶対に、離れないで」
私は頷いた。
暗闇の向こうから、警備員の声が聞こえた。
「皆様、その場を動かないでください!」
別の場所では、誰かが泣いていた。
非常灯の明かりを頼りに、スタッフが客を誘導し始める。
朔は私を壁際へ移動させた。
「ここで待っていてください」
「どこへ行くの?」
「倒れた作品を確認します」
「危ないですよ」
「わかっています」
彼は私の顔を見た。
暗くて、表情はよく見えない。
けれど、声は落ち着いていた。
「僕の作品が倒れたなら、怪我をした人がいるかもしれない」
私は手を離した。
「気をつけて」
朔は頷いた。
「すぐ戻ります」
彼が離れていく。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に小さな不安を感じていた。
玲奈の言葉。
『今度こそ、選んで。』
あれは、どういう意味だったのだろう。
五年前と同じことを繰り返そうとしているのだろうか。
そのとき。
背後から声がした。
「三崎小春さん」
振り返る。
暗がりに、一人の男性が立っていた。
黒いスーツ。
細い眼鏡。
久遠家の顧問弁護士、榊原だった。
「こちらへ」
「……どこへ?」
「安全な場所にご案内します」
私は朔が向かった方向を見た。
「朔さんを待っています」
「朔様からも、あなたの安全を最優先するよう言われています」
私は少し迷った。
そのとき、展示室の奥で再び大きな音がした。
誰かの叫び声。
榊原が私の前に立った。
「危険です」
私は頷いた。
「わかりました」
彼について歩き始めた。
けれど、数歩進んだところで足を止めた。
何かがおかしい。
榊原は非常口ではなく、展示室の奥へ向かっていた。
「……あの」
「何でしょう」
「出口は反対ですよね」
榊原は振り返った。
そして、静かに答えた。
「一般のお客様とは別の通路を使います」
私は周囲を見た。
薄暗い廊下。
人の気配がない。
胸の奥がざわついた。
「やっぱり、ここで待ちます」
榊原は動かなかった。
「三崎さん」
「はい」
「少しだけ、話を聞いていただけませんか」
その声が変わっていた。
丁寧な口調は同じだった。
けれど、何か冷たいものが混じっている。
「……何の話ですか」
榊原は眼鏡を外した。
「五年前のことです」
私は息を止めた。
「あなたは、何を思い出しましたか」
「……」
「公園で起きたことを、どこまで覚えていますか」
私は後ずさった。
「どうして、そんなことを」
榊原は小さく息を吐いた。
「知らないほうが幸せなこともあります」
その瞬間。
廊下の向こうから声が響いた。
「小春!」
朔だった。
彼は走ってきた。
普段の落ち着いた姿からは想像できないほど、必死な表情だった。
「そこにいたんですね」
私は頷いた。
「朔」
彼は私の前に立った。
そして、榊原を見た。
「……榊原さん」
「朔様」
「何をしているんですか」
榊原は静かに頭を下げた。
「三崎様を安全な場所へ」
「僕は、彼女を移動させるよう頼んでいません」
沈黙。
私は息を呑んだ。
榊原の表情が、わずかに変わった。
「……そうでしたか」
朔は私の手を取った。
「小春、こちらへ」
私は彼の隣へ移動した。
朔は榊原を見つめた。
「あなたには、五年前の事故について調べてもらっていましたね」
「はい」
「報告書は?」
「現在、確認中です」
「もう必要ありません」
榊原の眉が動いた。
「……どういうことでしょう」
朔は静かに答えた。
「調査は別の弁護士に引き継ぎます」
長い沈黙。
榊原は微笑んだ。
「承知しました」
そして、ゆっくり頭を下げた。
「失礼いたします」
彼が去ったあと、私は朔を見た。
「……何が起きているの?」
朔はしばらく黙っていた。
そして、私の手を握り直した。
「僕にも、まだ全部はわかりません」
「……」
「ただ、父の周囲にいる人間を、簡単に信用してはいけないようです」
私は廊下の奥を見た。
榊原の姿は、もう消えていた。
やがて非常用の照明が点灯した。
展示室には、異様な光景が広がっていた。
中央の大作『再生』が、半分ほど崩れていた。
太い枝が折れ、花器が倒れ、水が床に広がっている。
スタッフたちが破片を片づけていた。
幸い、客に大きな怪我はなかったらしい。
私は少し安心した。
けれど、朔は作品を見つめたまま動かなかった。
「……ひどい」
私が呟くと、彼は静かに頷いた。
「そうですね」
「三か月もかけて作ったんでしょう」
「はい」
「悔しくないの?」
朔は少し考えた。
そして、折れた枝を一本拾い上げた。
「悔しいです」
その声は穏やかだった。
「でも、花には罪がありません」
私は彼を見た。
朔は折れた枝を作業台に置いた。
「まだ使える花もあります」
「……」
「全部、終わったわけじゃない」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
五年前の彼なら、どうしただろう。
怒りに任せて作品を壊したかもしれない。
すべてを投げ出したかもしれない。
けれど、今の朔は違った。
「小春」
彼が私を見た。
「手伝ってもらえますか」
私は驚いた。
「私が?」
「はい」
「でも、私なんて」
「あなたがいいんです」
まっすぐな瞳だった。
「僕一人では、作れないものがある」
私はしばらく彼を見つめた。
そして、頷いた。
「……わかりました」
朔は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私たちは作業を始めた。
折れた枝を選別する。
傷んだ花を取り除く。
使える花を水に戻す。
スタッフたちは驚いていた。
久遠流の若き天才が、床に膝をついて花を拾っている。
しかも、見知らぬ花屋の女性と一緒に。
けれど、朔は周囲の視線を気にしなかった。
「この枝、まだ使えますね」
私が言うと、彼は頷いた。
「はい」
「少し短く切れば」
「そのままで」
「え?」
朔は枝を手に取った。
途中で折れ、曲がっている。
普通なら捨ててしまうような枝だった。
「この形がいい」
私は彼を見た。
「……そうですね」
彼は微笑んだ。
「あなたに教わりました」
胸が温かくなった。
作業は一時間以上続いた。
会場に残っていた客たちが、少しずつ集まってきた。
誰も話さなかった。
ただ、私たちの手元を見つめていた。
朔は折れた枝を中心に据えた。
そこへ白い花を添える。
赤い花を低く置く。
私は水を替え、茎を切り、花の向きを整えた。
二人で一つの作品を作っていく。
言葉は少なかった。
けれど、不思議と迷わなかった。
朔が何を考えているのか、少しずつわかるようになっていた。
そして。
最後の一本を生け終えたとき。
会場に、静かな拍手が起こった。
私は顔を上げた。
目の前には、まったく新しい作品があった。
崩れた大作とは違う。
小さく、静かで。
けれど、強い生命力を感じる作品だった。
折れた枝が、空へ向かって伸びている。
その根元には、白い花。
そして、赤い花が一輪。
まるで、傷ついたものが再び立ち上がるようだった。
「……綺麗」
私は呟いた。
朔は作品を見つめた。
そして、静かに言った。
「題名を変えましょう」
「何に?」
彼は私を見た。
「『それでも咲く』」
私は息を止めた。
その言葉が、胸の奥に深く響いた。
会場の拍手が大きくなる。
朔は私の手を取った。
そして、客たちに向かって頭を下げた。
「本日は、お騒がせしました」
落ち着いた声だった。
「作品の一部が破損しましたが、皆様のおかげで新しい形に生まれ変わりました」
彼は私を見た。
「そして、こちらの三崎小春さんに感謝します」
私は驚いた。
「……朔?」
彼は微笑んだ。
「彼女がいなければ、この作品は完成しませんでした」
周囲から再び拍手が起こった。
私は顔が熱くなった。
けれど、朔は自然に私の手を握っていた。
その姿を、会場の奥から一人の男性が見つめていた。
久遠宗一郎。
朔の父親だった。
彼は無表情のまま、私たちを見ていた。
そして、隣に立つ女性に言った。
「……あの娘か」
女性は頷いた。
「はい」
「なるほど」
宗一郎は作品を見た。
「五年前と同じだな」
その声には、複雑な感情が混じっていた。
女性が尋ねた。
「どうなさいますか」
宗一郎は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「予定どおり進める」
私は、その会話を聞いていなかった。
ただ、朔の隣で笑っていた。
展覧会が終わったのは、午後十時を過ぎたころだった。
客たちが帰り、スタッフが片づけを始める。
私は疲れきっていた。
足が痛い。
腰も痛い。
けれど、不思議と気分はよかった。
「小春」
朔が声をかけた。
「はい」
「お疲れさまでした」
彼は温かいお茶を差し出した。
「ありがとうございます」
私は受け取った。
朔は隣に座った。
「今日は、本当に助かりました」
「私こそ」
私は笑った。
「すごく勉強になりました」
彼は首を横に振った。
「僕のほうが、教わりました」
「何を?」
「諦めないことです」
私は彼を見た。
朔は静かに続けた。
「五年前の僕なら、作品が壊れた時点で全部捨てていたと思います」
「……」
「でも、今日は違った」
彼は私の手を取った。
「あなたがいたから」
私は胸が温かくなった。
「朔」
「はい」
「あなた自身が変わったんですよ」
彼は少し驚いた顔をした。
「……」
「私がいなくても、きっと生け直せたと思います」
朔は黙っていた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……そうかもしれません」
私は頷いた。
「そうです」
彼は私を見つめた。
「でも」
「はい」
「あなたと一緒に作れて、嬉しかった」
私は笑った。
「私もです」
その瞬間。
朔が少しだけ顔を近づけた。
私は息を止めた。
彼の瞳が、私を見つめている。
「……小春」
「はい」
「今、キスしたいと言ったら」
胸が大きく鳴った。
「……」
「困りますか」
私は答えられなかった。
彼はすぐに距離を取った。
「すみません」
「……」
「急ぎすぎました」
私は彼を見た。
その表情が、あまりにも真剣だった。
「……朔」
「はい」
「嫌じゃないです」
彼の動きが止まった。
「……本当に?」
私は頷いた。
「でも」
「はい」
「もう少し、待ってください」
朔は静かに微笑んだ。
「もちろん」
そして、私の手の甲にそっと唇を触れさせた。
一瞬だった。
けれど、胸が熱くなった。
「……これくらいなら?」
私は顔を伏せた。
「ずるい」
彼は小さく笑った。
「よく言われます」
「誰に?」
「あなたに」
私は吹き出した。
朔も笑った。
そのとき。
背後から声がした。
「随分、楽しそうだな」
振り返る。
久遠宗一郎が立っていた。
黒いスーツ。
厳しい表情。
朔の顔から笑みが消えた。
「……父さん」
宗一郎は私を見た。
「三崎小春さんですね」
私は立ち上がった。
「はい」
「久遠宗一郎です」
深く頭を下げる。
「初めまして」
宗一郎は軽く頷いた。
そして、朔に向き直った。
「明日の朝、話がある」
「今では駄目ですか」
「今は客人がいる」
朔は黙った。
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「はい」
「今日は、息子を助けていただいたようですね」
「いえ、そんな」
「礼を言います」
意外だった。
もっと冷たい言葉を想像していた。
宗一郎は静かに続けた。
「ただし」
空気が変わった。
「久遠流には、久遠流の事情があります」
私は息を止めた。
「……」
「あなたには、理解できないことも多いでしょう」
朔が口を開いた。
「父さん」
宗一郎は手を上げた。
「話しているのは、私だ」
そして、私を見た。
「息子と関わるなら、覚悟が必要です」
私は黙っていた。
「普通の恋愛とは違う」
宗一郎の声は低かった。
「あなた自身の生活も、仕事も、家族も、無関係ではいられなくなる」
私は胸が苦しくなった。
けれど、目を逸らさなかった。
「……わかりました」
宗一郎の眉が動いた。
「本当に?」
「全部は、まだわかりません」
私は正直に答えた。
「でも、朔さんと関わるかどうかは、私が決めます」
長い沈黙。
宗一郎は私を見つめた。
そして、わずかに笑った。
「……なるほど」
朔が私の手を握った。
宗一郎はその手を見た。
「五年前と、同じだな」
私は息を止めた。
「……え?」
宗一郎は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「明日、午前九時。書斎に来なさい」
朔にそう告げて、去っていった。
私はその背中を見送った。
「……怖い人ですね」
朔は少し笑った。
「そうですね」
「怒らせちゃったかな」
「大丈夫です」
彼は私の手を握り直した。
「あなたは、何も間違っていません」
私は頷いた。
けれど、胸の奥には不安が残っていた。
その夜。
朔は私を家まで送ってくれた。
車の中では、あまり話さなかった。
二人とも疲れていた。
けれど、沈黙は苦しくなかった。
家の前に着く。
私は車を降りた。
朔も降りてきた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「小春」
「はい」
「明日、何があっても」
彼は言葉を切った。
「僕の気持ちは変わりません」
私は彼を見た。
「……何かあるんですか」
朔は首を横に振った。
「まだ、わかりません」
私は少し笑った。
「じゃあ、何かあったら話してください」
彼は頷いた。
「約束します」
私は手を振った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
朔は車に戻った。
けれど、ドアを開ける前に振り返った。
「小春」
「はい?」
「今日のあなたは」
彼は微笑んだ。
「世界で一番、綺麗でした」
私は顔が熱くなった。
「……また、そういうこと」
彼は少し笑った。
「本当なので」
そして、車に乗り込んだ。
私はしばらく、その場に立っていた。
胸が温かかった。
けれど。
そのころ、久遠家の書斎では、宗一郎が一枚の書類を見つめていた。
九条家との婚約に関する契約書。
その横には、別の書類が置かれていた。
花乃井への業務委託契約。
そして、融資に関する資料。
宗一郎は静かに電話をかけた。
「……私だ」
電話の向こうで、男性が答えた。
『はい』
「明日の朝までに、花乃井との取引関係を整理しておけ」
『承知しました』
「それから」
宗一郎は少し間を置いた。
「九条家にも連絡を」
『婚約の件でしょうか』
「そうだ」
彼は静かに言った。
「朔に、選ばせる」
電話が切れた。
宗一郎は窓の外を見た。
夜の庭園。
月明かりに照らされた白い花。
彼は小さく呟いた。
「……おまえは、どちらを守る」
翌朝。
午前九時。
朔は父親の書斎に入った。
宗一郎は机の向こうに座っていた。
「座れ」
朔は椅子に腰を下ろした。
「話とは?」
宗一郎は一枚の書類を差し出した。
「九条家との婚約を正式に進める」
朔の表情が消えた。
「断ります」
即答だった。
宗一郎は眉を動かさなかった。
「最後まで聞け」
「聞く必要はありません」
「ならば、こちらを見ろ」
宗一郎は別の書類を差し出した。
そこには、花乃井の名前が記されていた。
朔は目を細めた。
「……何ですか」
「花乃井は、ここ数年、経営が厳しい」
「……」
「久遠流からの発注がなくなれば、さらに苦しくなるだろう」
朔の指が止まった。
宗一郎は続けた。
「加えて、主要取引先との契約更新も控えている」
「……父さん」
「私が手を引けば、どうなると思う」
朔は立ち上がった。
「彼女の仕事に手を出すな」
その声は、低かった。
宗一郎は動かなかった。
「ならば、婚約を受け入れろ」
長い沈黙。
朔の拳が震えた。
「……卑怯ですね」
宗一郎は静かに答えた。
「経営とは、そういうものだ」
朔は父親を見つめた。
その瞳には、怒りが宿っていた。
けれど。
次の瞬間。
彼はゆっくり息を吐いた。
そして、静かに笑った。
「……わかりました」
宗一郎の眉が動いた。
「受け入れるのか」
朔は首を横に振った。
「いいえ」
彼は机の上の書類を取った。
そして、静かに破った。
紙の裂ける音が響いた。
宗一郎が立ち上がった。
「何をする!」
朔は父親を見た。
「僕は、久遠流を出ます」
長い沈黙。
「……何だと」
「家元の座も、財産も、すべて要りません」
朔は静かに続けた。
「僕は、自分の花を生けます」
宗一郎の顔色が変わった。
「おまえ、自分が何を言っているかわかっているのか」
「はい」
朔は微笑んだ。
「初めて、自分で決めました」
宗一郎は机を叩いた。
「そんなことが許されると思うな!」
朔は頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
そして、背を向けた。
「待て!」
宗一郎の声が響いた。
けれど、朔は振り返らなかった。
書斎を出る。
長い廊下。
庭園を見渡す窓。
幼いころから歩いてきた場所。
すべてが、いつもと同じだった。
けれど、彼の心は不思議と軽かった。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
小春からだった。
『おはよう。昨日の作品、ニュースになってるよ。すごいね。』
朔は画面を見つめた。
そして、微笑んだ。
『ありがとう。』
少し迷って、もう一通送った。
『今日、会えますか。』
すぐに返事が来た。
『仕事が終わってからなら。』
朔は目を閉じた。
『待っています。』
送信する。
その瞬間。
彼は、ある決意を固めていた。
今夜。
すべてを話そう。
久遠家を出ることも。
華道家としての未来も。
そして。
自分が、彼女とどんな人生を歩みたいのかも。
けれど。
その日の午後。
花乃井に一本の電話が入った。
店長が受話器を取る。
「はい、花乃井でございます」
相手の話を聞くうちに、店長の顔色が変わっていった。
「……え?」
私は花を束ねる手を止めた。
「どうしました?」
店長は電話を切った。
そして、呆然とした顔で私を見た。
「小春ちゃん」
「はい」
「久遠流からの注文が、全部キャンセルになった」
私は息を止めた。
「……全部?」
店長は頷いた。
「それだけじゃないの」
彼女の声が震えた。
「来月の大口契約も、白紙になったって」
私は何も言えなかった。
店長は椅子に座り込んだ。
「……どうしよう」
その声は、ひどく小さかった。
「このままじゃ、店を続けられないかもしれない」
私は手に持っていた花を見つめた。
白い百合。
朔と初めて出会った日の花。
その花弁が、静かに揺れていた。
そして。
私のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
差出人は、九条玲奈。
『朔が家を出るそうね。』
続けて、もう一通。
『あなたのせいで、みんな不幸になる。』
私は画面を見つめた。
そして、最後の一文を読んだ。
『それでも、彼を好きでいられる?』
私は、何も答えられなかった。
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