冷たい華道家は、私だけに花を乱す
第7話 すべてを捨てた彼が、私にだけ見せた涙
店長が泣くところを、私は初めて見た。
花乃井は創業七十年になる小さな花屋だった。今の店長で三代目。祖父が始め、父親が守り、そして彼女が受け継いできた。
店内には古い木製の棚が並び、奥の作業台には何十年も使われてきた鋏が置かれている。
決して新しい店ではない。
けれど、私はこの店が好きだった。
「……ごめんね、小春ちゃん」
店長は目元を押さえた。
「何で謝るんですか」
「せっかく頑張ってくれているのに、こんなことになって」
「まだ、閉店が決まったわけじゃありません」
私はできるだけ明るく言った。
「ほかのお客さんもいますし、何とかしましょう」
店長は小さく頷いた。
けれど、その表情は暗かった。
久遠流との取引は、店の売上の三割近くを占めていた。さらに、久遠流の紹介で契約したホテルや企業からの注文もある。
それらが一度になくなれば、店の経営が厳しくなるのは当然だった。
私はスマートフォンを取り出した。
朔からメッセージが届いている。
『今日、会えますか。』
私は画面を見つめた。
彼は知っているのだろうか。
自分の父親が、何をしたのか。
私は短い返事を送った。
『仕事が終わったら、話があります。』
すぐに返信が来た。
『僕もです。』
私はスマートフォンをしまった。
そして、店長に言った。
「今日の配達、私が全部行きます」
「でも」
「大丈夫です。少しでも売上を増やしましょう」
店長は私を見た。
「……ありがとう」
私は笑った。
「まだ、諦めませんから」
午後は配達に追われた。
近くのレストラン。
美容室。
個人宅。
小さな事務所。
花束を届けるたびに、私は店のことを考えた。
どうすれば売上を増やせるだろう。
新しい顧客を探す。
オンライン販売を始める。
定期便を作る。
頭の中に、いくつもの案が浮かんでは消えていった。
けれど、どれもすぐに大きな売上につながるものではない。
夕方。
最後の配達を終えて店に戻ると、店長が電話をしていた。
「はい……はい、承知しました」
その声は沈んでいた。
電話を切る。
「また、キャンセルですか」
私が尋ねると、店長は頷いた。
「来週のホテルの装花も」
私は唇を噛んだ。
「……そうですか」
店長は小さく笑った。
「仕方ないわね」
その笑顔が、かえってつらかった。
午後七時。
私は店を出た。
待ち合わせ場所は、以前二人で食事をした洋食店だった。
店の前には、朔が立っていた。
今日は黒いシャツに紺色のジャケット。
着物ではない。
けれど、遠くからでもすぐにわかった。
彼は私を見つけると、微笑んだ。
「小春」
その声を聞いた瞬間、胸が苦しくなった。
私は足を止めた。
朔が近づいてくる。
「お疲れさまでした」
「……朔」
「はい」
「話があります」
彼は私の表情を見た。
そして、静かに頷いた。
「僕もです」
私たちは店に入らず、近くの公園へ向かった。
夕暮れの空。
街灯が灯り始めている。
ベンチに座る。
しばらく、どちらも話さなかった。
先に口を開いたのは、朔だった。
「久遠家を出ました」
私は彼を見た。
「……本当に?」
「はい」
「どうして」
彼は少し考えた。
「父と、意見が合わなくなったので」
「婚約のこと?」
朔は頷いた。
「それもあります」
私は息を吐いた。
「……花乃井のこと、知っていますか」
朔の表情が変わった。
「何かありました?」
私は彼を見つめた。
「久遠流からの注文が、全部キャンセルになりました」
沈黙。
「来月の契約も、白紙になったそうです」
朔は何も言わなかった。
「ほかの取引先からも、キャンセルが出ています」
私は声を落とした。
「店長が、店を続けられないかもしれないって」
長い沈黙が続いた。
朔は目を閉じた。
そして、静かに言った。
「……父ですね」
私は頷いた。
「そうだと思います」
朔は拳を握りしめた。
右手だった。
私はその手を見た。
五年前の傷。
今でも痛みが残っているという右手。
「……朔」
彼は答えなかった。
「私、どうしたらいいかわからない」
声が震えた。
「あなたを責めたいわけじゃない」
「……」
「でも、私のせいで店がなくなるなんて、嫌なの」
朔は私を見た。
その目には、深い苦しみが浮かんでいた。
「……ごめんなさい」
私は首を横に振った。
「謝ってほしいんじゃない」
「……」
「何とかしたいんです」
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「僕が、何とかします」
私は顔を上げた。
「どうやって?」
「父に話します」
「それで解決するんですか」
朔は答えなかった。
私は胸が苦しくなった。
「……朔」
「はい」
「私のために、全部捨てないでください」
彼の表情が変わった。
「……」
「華道家でいることも、久遠流も」
私は続けた。
「あなたにとって、大切なものでしょう」
朔は目を伏せた。
「大切でした」
過去形だった。
私は息を止めた。
「……でした?」
「今は、あなたのほうが大切です」
その言葉に、胸が締めつけられた。
嬉しい。
けれど、同じくらい怖かった。
「……それは違うと思います」
朔が顔を上げた。
「何がですか」
「私と花を、比べないで」
私は静かに言った。
「私のために花を捨てたら、きっと後悔します」
朔は黙っていた。
「あなたは、花が好きなんでしょう?」
長い沈黙。
そして。
「……好きです」
彼の声が震えた。
私は頷いた。
「だったら、捨てないで」
朔は目を伏せた。
「でも」
「でも?」
「あなたを失うくらいなら」
彼は言葉を切った。
「……花なんて、要らない」
私は何も言えなかった。
その言葉が、あまりにも悲しかったから。
「朔」
私は彼の右手を取った。
「私、そんなことを言ってほしくない」
彼は顔を上げた。
「……」
「あなたが花を好きなところも、好きなんです」
その瞬間。
朔の瞳が揺れた。
私は続けた。
「花を見ているときの顔も、真剣に作品を作るところも」
「……」
「全部、あなたでしょう?」
彼は何も言わなかった。
「だから、捨てないで」
長い沈黙。
そして。
朔の目から、一粒の涙が落ちた。
私は息を止めた。
彼はすぐに顔を伏せた。
「……すみません」
私は首を横に振った。
「謝らないで」
朔は唇を噛んだ。
「……僕は」
その声が震えていた。
「何を守ればいいのか、わからないんです」
私は彼を見つめた。
「父の期待に応えれば、あなたを傷つける」
「……」
「あなたを守ろうとすれば、花を失う」
彼は小さく息を吐いた。
「どうすればいいんですか」
私は何も言えなかった。
天才華道家。
名門の御曹司。
誰もが羨む青年。
けれど、今、私の前にいるのは。
ただ、途方に暮れた二十二歳の男の子だった。
私はそっと彼の頭を抱き寄せた。
朔の身体が固まる。
「……小春?」
「大丈夫」
私は囁いた。
「今すぐ答えを出さなくていい」
彼は動かなかった。
「一緒に考えよう」
その瞬間。
朔の腕が、私の背中に回った。
強く。
けれど、壊れ物に触れるように慎重に。
彼は私の肩に顔を埋めた。
そして、声を殺して泣いた。
私は何も言わなかった。
ただ、彼の背中を撫でていた。
夜の公園。
遠くで車の音がする。
風が木々を揺らしている。
私は思った。
この人は、ずっと一人だったのだ。
泣くことも。
弱音を吐くことも。
誰かに頼ることも許されなかった。
だから、今。
せめて私の前では、普通の青年でいてほしかった。
しばらくして、朔が顔を上げた。
目元が赤かった。
「……情けないですね」
私は首を横に振った。
「全然」
「こんなところを見せるつもりじゃ」
「見せてくれて、嬉しいです」
朔は驚いた顔をした。
私は笑った。
「私ばっかり弱いところを見せるのは、不公平でしょう」
彼は少し笑った。
「……そうですね」
私はハンカチを差し出した。
白い布。
小さな青い花の刺繍。
朔の動きが止まった。
「……それ」
「母が作ってくれたんです」
私は微笑んだ。
「五年前のものとは別ですけど」
彼はハンカチを見つめた。
そして、そっと受け取った。
「……同じ柄ですね」
「はい」
朔は目を閉じた。
「五年前、あなたに貸してもらったハンカチ」
「……」
「今でも、持っています」
私は胸が熱くなった。
「返さなくていいって言ったでしょう」
彼は小さく笑った。
「返すつもりはありません」
「どうして?」
朔は私を見た。
「僕の宝物なので」
私は顔が熱くなった。
「……また、そういうこと」
彼は微笑んだ。
「本当です」
しばらくして、私たちは立ち上がった。
朔は私の手を握った。
「小春」
「はい」
「一つ、お願いしてもいいですか」
「何ですか」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「今夜、もう少し一緒にいてください」
私は彼を見た。
「……どこで?」
「僕の新しい部屋です」
私は驚いた。
「もう家を出たんですか」
「はい」
「どこに住んでいるの?」
「ここから近いところです」
彼は少し恥ずかしそうに笑った。
「狭いですが」
私は頷いた。
「少しだけなら」
朔の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
私たちは歩き始めた。
十分ほど歩いたところに、小さなマンションがあった。
高級マンションではない。
ごく普通の賃貸住宅だった。
エレベーターで四階へ上がる。
朔は鍵を取り出した。
「どうぞ」
私は部屋に入った。
ワンルームだった。
白い壁。
小さなキッチン。
簡素なベッド。
低いテーブル。
家具はほとんどない。
けれど、窓際には一つだけ大きな花器が置かれていた。
そこには、白い花が一輪生けられていた。
「……綺麗」
私は呟いた。
朔は微笑んだ。
「それだけ、持ってきました」
「花器?」
「はい」
私は部屋を見渡した。
「本当に、何もないですね」
「必要なものが、よくわからなくて」
私は笑った。
「冷蔵庫は?」
「あります」
「洗濯機」
「……まだです」
「お皿は?」
「二枚」
「お箸は?」
「一本ずつ」
私は思わず吹き出した。
「どうやって生活するつもりなんですか」
朔は少し困ったように笑った。
「勉強します」
私は腕を組んだ。
「まず、生活用品を買いましょう」
「はい」
「あと、食事」
「はい」
「洗濯も」
「はい」
あまりにも素直なので、私は笑ってしまった。
朔も笑った。
その笑顔を見て、少し安心した。
彼はきっと大丈夫だ。
久遠家を出ても。
華道界の後ろ盾を失っても。
この人には、花を生ける力がある。
そして、少しずつ普通の生活を覚えていけばいい。
「……小春」
朔が私を呼んだ。
「はい」
「何だか」
彼は部屋を見渡した。
「新婚生活みたいですね」
私は固まった。
「……何を言ってるんですか」
「違いますか」
「違います!」
朔は少し笑った。
「残念です」
私は顔を覆った。
本当に、この人は。
冷たい天才華道家のくせに。
二人きりになると、どうしてこんなに甘いのだろう。
私はキッチンを確認した。
冷蔵庫には水と卵しか入っていなかった。
「……朔」
「はい」
「今日、何を食べたんですか」
「朝は食べていません」
「昼は?」
「忘れていました」
私はため息をついた。
「駄目です」
彼は少し困った顔をした。
「……すみません」
「近くにスーパーはありますか」
「たぶん」
「じゃあ、買い物に行きましょう」
朔は嬉しそうに頷いた。
「はい」
私たちは近くのスーパーへ向かった。
夜の店内は、仕事帰りの客で賑わっていた。
私はカゴを持ち、野菜や肉を選んだ。
朔は隣を歩いている。
「何を作るんですか」
「簡単な親子丼」
「……親子丼」
「食べたことあります?」
「あります」
「本当に?」
「たぶん」
私は笑った。
「また、それ」
朔も笑った。
会計を済ませ、部屋に戻る。
私はキッチンに立った。
朔は隣で手伝おうとしていた。
「玉ねぎ、切れます?」
「はい」
彼は包丁を持った。
その手つきは、意外なほど美しかった。
「……上手」
「花材を切るので」
「なるほど」
けれど、数分後。
朔は目を細めた。
「……痛い」
「どうしたの?」
「目が」
私は笑った。
「玉ねぎです」
彼は真剣な顔で言った。
「こんなに攻撃的な植物だとは知りませんでした」
私は声を出して笑った。
朔も笑った。
その時間は、驚くほど穏やかだった。
食事ができる。
二人で小さなテーブルに座る。
朔は一口食べた。
そして、目を見開いた。
「……おいしい」
私は笑った。
「普通の親子丼ですよ」
「今まで食べた中で、一番おいしいです」
「大げさ」
「本当です」
彼はもう一口食べた。
そして、静かに言った。
「……幸せです」
私は手を止めた。
「……」
「こういう時間が、欲しかったんだと思います」
朔は私を見た。
「誰かと一緒に買い物をして、料理を作って、食べる」
私は胸が温かくなった。
「これから、いくらでもできますよ」
彼は微笑んだ。
「……あなたと?」
私は少し照れながら答えた。
「都合が合えば」
朔は笑った。
「じゃあ、都合を合わせます」
食事のあと、私は食器を洗った。
朔は隣で拭いていた。
そのとき、彼の右手が止まった。
皿を持ったまま、少し顔をしかめる。
「……朔?」
「何でもありません」
私は手を止めた。
「痛むの?」
彼は少し迷った。
そして、頷いた。
「……少し」
私は皿を受け取った。
「座って」
「でも」
「いいから」
彼は素直に椅子に座った。
私は彼の右手を見た。
傷痕。
親指の付け根から手首にかけて、薄い線が残っている。
「今日は、花を生けすぎたんですね」
「……そうかもしれません」
私はそっと手を包んだ。
「病院には行っていますか」
「定期的に」
「本当に?」
「はい」
私は彼を見つめた。
「無理しないでください」
朔は微笑んだ。
「あなたに心配されるのは、嬉しいです」
「そういう問題じゃありません」
彼は少し笑った。
「……はい」
私は彼の手を離そうとした。
けれど、朔がそっと握り返した。
「小春」
「はい」
「もう少しだけ」
私は動きを止めた。
「……何?」
「こうしていても、いいですか」
私は頷いた。
「はい」
朔は目を閉じた。
しばらく、二人で黙っていた。
部屋の外では、車の音が聞こえる。
時計の針が進む。
何でもない夜だった。
けれど、私には特別な時間に思えた。
やがて、朔が口を開いた。
「……小春」
「はい」
「僕は、あなたを幸せにしたい」
私は彼を見た。
「……」
「でも、今は何も持っていません」
彼は小さく笑った。
「家も、財産も、肩書も」
私は首を横に振った。
「そんなもの、関係ありません」
朔は私を見つめた。
「……本当に?」
「はい」
私は笑った。
「私は、久遠流の跡取りと付き合いたいわけじゃないですから」
その瞬間。
朔の表情が変わった。
「……付き合う?」
私は固まった。
しまった。
思わず口にしてしまった。
「……あ」
朔は私を見つめている。
「小春」
「……はい」
「今、何て」
私は顔を伏せた。
「忘れてください」
「無理です」
即答だった。
私は思わず顔を上げた。
朔は真剣だった。
「忘れられません」
「……」
「もう一度、言ってください」
私は首を横に振った。
「嫌です」
「お願いします」
「……」
「一生のお願いです」
私は吹き出した。
「大げさ!」
朔は少し笑った。
けれど、その目は真剣だった。
「小春」
彼は私の手を握った。
「僕と、付き合ってくれますか」
胸が大きく鳴った。
私は彼を見つめた。
五年前の少年。
花を嫌いだと言っていた少年。
その人が、今、私の前にいる。
不器用で。
真面目で。
時々、驚くほど甘くて。
そして、誰よりも花を愛している人。
私はゆっくり頷いた。
「……はい」
朔の動きが止まった。
「……本当に?」
「はい」
彼は何も言わなかった。
ただ、私を見つめていた。
「……朔?」
その瞬間。
彼は私を抱きしめた。
強く。
けれど、優しく。
「……ありがとう」
耳元で声がした。
震えていた。
「本当に、ありがとう」
私は彼の背中に腕を回した。
「こちらこそ」
朔はしばらく動かなかった。
そして、少しだけ身体を離した。
「小春」
「はい」
「キスしても、いいですか」
胸が跳ねた。
私は彼を見つめた。
昨日は、まだ待ってほしいと言った。
けれど、今は。
「……はい」
そう答えた。
朔の瞳が揺れた。
彼はゆっくり顔を近づけた。
私は目を閉じた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
柔らかくて。
温かくて。
驚くほど優しいキスだった。
彼が離れる。
私は目を開けた。
朔は少し赤くなっていた。
「……小春」
「はい」
「もう一度、してもいいですか」
私は思わず笑った。
「欲張り」
彼は真剣に頷いた。
「はい」
私は彼のシャツを軽くつかんだ。
「……一回だけ」
朔は微笑んだ。
そして、もう一度唇を重ねた。
今度は少し長く。
けれど、やっぱり優しかった。
私は思った。
この人が好きだ。
本当に、好きだ。
だからこそ。
守りたい。
彼の花も。
彼の人生も。
彼自身も。
その夜、私は帰宅した。
朔は駅まで送ってくれた。
改札の前で、何度も振り返る。
「小春」
「はい」
「明日も会えますか」
私は笑った。
「仕事があるので」
「終わってから」
「……少しだけなら」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「待っています」
私は手を振った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そして、改札を通った。
振り返ると、朔はまだそこに立っていた。
私を見つめている。
私は小さく手を振った。
彼も手を振った。
その姿が、何だかかわいかった。
けれど。
翌朝。
私が花乃井に出勤すると、店の前に黒い車が停まっていた。
そこから降りてきたのは、久遠宗一郎だった。
私は足を止めた。
「……家元」
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「おはようございます」
彼は頷いた。
「少し、話がある」
私は胸が冷たくなった。
「……何でしょう」
宗一郎は店を見た。
そして、静かに言った。
「花乃井の取引についてだ」
私は息を止めた。
「……」
「条件次第では、契約を元に戻してもいい」
私は彼を見つめた。
「条件?」
宗一郎は頷いた。
「簡単なことだ」
そして、私の目を見た。
「朔と別れてほしい」
長い沈黙。
私は何も言えなかった。
宗一郎は続けた。
「君が身を引けば、花乃井との契約を復活させる」
「……」
「さらに、今後五年間の発注も保証しよう」
私は拳を握りしめた。
「……それは」
宗一郎は静かに言った。
「悪い話ではないはずだ」
私は店を見た。
七十年続いた花屋。
泣いていた店長。
守りたい場所。
そして。
昨夜、私に好きだと言ってくれた青年。
胸が苦しくなった。
宗一郎は私を見つめた。
「返事は、今日中にもらいたい」
そして、名刺を差し出した。
「よく考えなさい」
私は受け取らなかった。
「……少し、聞いてもいいですか」
宗一郎の眉が動いた。
「何だ」
「家元は、朔さんの花が好きですか」
宗一郎は黙った。
私は続けた。
「朔さんが生ける花を、本当に綺麗だと思ったことがありますか」
長い沈黙。
宗一郎の表情が変わった。
「……何を言いたい」
私は静かに答えた。
「朔さんは、花を生けるとき、本当に幸せそうなんです」
「……」
「でも、家元の前では、いつも苦しそうです」
宗一郎の目が細くなった。
私は頭を下げた。
「失礼なことを言って、申し訳ありません」
そして、顔を上げた。
「でも、私は」
声が震えた。
「朔さんから花を奪いたくありません」
宗一郎は何も言わなかった。
「だから、別れることも、今ここでは約束できません」
長い沈黙。
宗一郎は私を見つめた。
そして、静かに言った。
「……後悔するぞ」
私は頷いた。
「そうかもしれません」
「店が潰れてもいいのか」
その言葉に、胸が痛んだ。
私は答えられなかった。
宗一郎は小さく息を吐いた。
「感情だけでは、人は生きていけない」
私は黙っていた。
「朔も、いずれわかる」
彼は車へ向かった。
そして、乗り込む直前に振り返った。
「三崎さん」
「はい」
「君は、五年前と同じことをしている」
私は息を止めた。
「……どういう意味ですか」
宗一郎は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「息子を、また壊すつもりか」
車のドアが閉まった。
黒い車が走り去る。
私は一人、店の前に立っていた。
胸が苦しかった。
足元には、朝の光が差していた。
花乃井の店先では、白い百合が咲いている。
私はその花を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……違う」
私は朔を壊したいわけじゃない。
幸せにしたい。
ただ、それだけなのに。
そのとき。
背後から声がした。
「小春ちゃん」
振り返る。
店長が立っていた。
顔色が悪かった。
「……今の、久遠家の家元さん?」
私は頷いた。
「はい」
店長はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「話、聞こえちゃった」
私は息を止めた。
「……店長」
彼女は微笑んだ。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
「小春ちゃん」
「はい」
「私のために、好きな人と別れないで」
私は何も言えなかった。
店長は続けた。
「この店は、私が守るから」
「でも」
「大丈夫」
彼女は笑った。
「七十年も続いた店だもの。そう簡単には終わらないわ」
私は涙がこぼれそうになった。
「……店長」
彼女は私の肩を叩いた。
「それに」
少し笑う。
「天才華道家の彼氏なんて、そう簡単に見つからないでしょう」
私は思わず笑ってしまった。
店長も笑った。
けれど。
その日の午後。
花乃井に、一通の内容証明郵便が届いた。
差出人は、久遠流ではなかった。
九条グループの関連会社だった。
そこには、店舗の賃貸借契約に関する通知が記されていた。
建物の所有権が、九条グループの関連会社へ移転したという。
そして。
契約更新の条件について、協議を求める内容だった。
店長は書類を見つめた。
「……そんな」
私は息を止めた。
久遠流からの注文停止だけではない。
今度は、店そのものが狙われている。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
九条玲奈からだった。
私は電話に出た。
「……もしもし」
玲奈の声がした。
『書類、届いた?』
私は拳を握りしめた。
「……あなたが?」
玲奈は笑った。
『私は何もしていないわ』
「嘘」
『ただ、父に相談しただけ』
私は何も言えなかった。
玲奈は静かに続けた。
『小春さん』
「……」
『あなた、朔のことが好きなんでしょう?』
私は答えなかった。
『だったら、別れてあげて』
「……」
『あの人は、あなたと一緒にいると不幸になる』
私は唇を噛んだ。
「それは、あなたが決めることじゃありません」
玲奈は黙った。
そして、低い声で言った。
『……本当に、わかっていないのね』
「何がですか」
長い沈黙。
そして。
『五年前、朔が右手を怪我した本当の理由』
私は息を止めた。
『あなた、まだ知らないでしょう』
「……」
『朔は、あなたを守ろうとしたんじゃない』
私は何も言えなかった。
玲奈は静かに続けた。
『私を、止めようとしたのよ』
「……どういう意味ですか」
玲奈は笑った。
『知りたければ、明日の午後三時、久遠家の旧温室に来て』
私は息を呑んだ。
『一人でね』
電話が切れた。
私はスマートフォンを握りしめた。
旧温室。
五年前。
朔の右手。
そして、血に染まったハンカチ。
すべてが、そこにつながっているのだろうか。
私は窓の外を見た。
白い百合が風に揺れている。
その花は、何も知らないように静かに咲いていた。
私は決めた。
もう、誰かの言葉に振り回されるのはやめよう。
自分の目で確かめる。
自分の耳で聞く。
そして、自分で選ぶ。
たとえ、その先に何が待っていても。
私は、朔の隣にいたかった。
けれど。
その夜。
久遠家の旧温室では、一人の男性が古い木箱を開けていた。
榊原だった。
箱の中には、五年前の事故に関する資料が入っている。
写真。
診断書。
そして、一枚の録音媒体。
榊原はそれを手に取った。
「……まだ残っていたか」
低い声だった。
その背後から、女性の声がした。
「見つけた?」
九条玲奈だった。
榊原は振り返った。
「はい」
玲奈は微笑んだ。
「よかった」
彼女は録音媒体を受け取った。
そして、静かに言った。
「これで、全部終わるわね」
榊原は黙っていた。
玲奈は彼を見た。
「どうしたの?」
「……九条さん」
「何?」
榊原は低い声で言った。
「本当に、これを三崎さんに聞かせるつもりですか」
玲奈は頷いた。
「もちろん」
「ですが」
「何?」
榊原は少し迷った。
そして、静かに言った。
「あなた自身も、傷つくことになります」
玲奈の笑顔が消えた。
長い沈黙。
そして。
彼女は小さく笑った。
「……もう、とっくに傷ついているわ」
玲奈は録音媒体を握りしめた。
「五年前から、ずっと」
旧温室の外では、雨が降り始めていた。
五年前と同じような、冷たい雨だった。
玲奈は窓の外を見た。
そして、静かに呟いた。
「朔」
その声には、愛情と憎しみが混じっていた。
「あなたが私を選ばなかったこと」
彼女は目を閉じた。
「一生、後悔させてあげる」
雨音が強くなった。
そのころ。
朔の部屋では、彼が一輪の白い花を生けていた。
小さなガラスの花器。
小春とおそろいで買ったものだった。
彼は花の向きを整えた。
そして、静かに微笑んだ。
「……小春」
その声は、優しかった。
けれど。
彼のスマートフォンには、一通のメッセージが届いていた。
差出人不明。
『明日、三崎小春は旧温室へ来る。』
朔の表情が消えた。
続けて、もう一通。
『五年前の真実を知りたければ、おまえも来い。』
彼は画面を見つめた。
そして、ゆっくり立ち上がった。
右手が、わずかに震えていた。
五年前。
雨。
旧温室。
血。
そして。
忘れたかった、あの日の声。
朔は目を閉じた。
「……もう、逃げない」
彼は小さく呟いた。
「今度こそ、全部終わらせる」
窓の外では、雨が降り続いていた。
二人の知らないところで。
五年前の秘密が、再び動き始めていた。