放課後、秘密の特別教室。〜イケメンな精霊たちは、私をあきらめない〜
プロローグ:放課後の忘れ物と、光る鍵
「はぁ……。なんで私って、いつもこうなんだろう」
誰もいない放課後の教室で、私――小鳥遊紬は、胸元に抱きしめた英語の教科書の冷たい感触を確かめながら、ぽつりと小さくため息を漏らした。
今日の夕方の教室当番は、間違いなく私だった。黒板を綺麗に消して、窓の鍵をすべて閉め、ゴミ箱を片付ける。そんな簡単な仕事だったはずなのに、放課後のチャイムが鳴った瞬間に頭が完全に空っぽになってしまい、そのまま荷物をまとめて校門を出ようとしてしまったのだ。靴箱の前で他のクラスの当番の生徒とすれ違い、その腕章を見て「あ……っ!」と思い出したときには、すでに心臓が嫌な音を立ててバクバクと脈打っていた。
慌てて誰もいない教室へと引き返してきたものの、自分のあまりの要領の悪さと物覚えの悪さに、情けなさがじわじわと押し寄せてくる。
息を切らせて戻った夕方の教室には、窓の外から燃えるようなオレンジ色の西日が斜めに鋭く差し込んでいた。昼間の賑やかさや、クラスメイトたちの笑い声、机を引くガタガタとした雑音が嘘のように静まり返っている。空気中に舞う微細な埃が、西日の光の帯の中でキラキラと頼りなく踊っていた。廊下側の壁に長く伸びた自分自身の影を見つめていると、世界にたった一人だけ取り残されてしまったかのような、底知れない孤独感が胸を締め付ける。
(みんなはもう、部活に行って汗を流したり、仲の良い友達同士で寄り道して、駅前のカフェで買い食いしたりしてるよね。私には、そんな風に放課後を一緒に過ごせる、気楽に話せる友達もいないのに……)
中学に入学して、もうすぐ三か月が経とうとしていた。
周りの女の子たちは、最初の数週間で驚くほど素早くグループを作り上げ、毎日のようにメイクやアイドルの話で盛り上がっている。けれど、極度の人見知りで、これといった特技も流行の知識もない私は、その輪のどこにも入れないままだった。話しかけるタイミングを計っているうちに時は過ぎ、いまだにクラスの中で誰の視界にも入らない「空気」みたいな存在のまま、ただ毎日をやり過ごしていた。
「……早く帰ろう。お母さんが待ってるし」
これ以上ここにいたら、寂しさで涙がこぼれてしまいそうだった。どんよりとした重い気持ちのまま、角が少し折れ曲がった教科書をスクールバッグの奥へと押し込む。チャックを閉めるジッパーの音が、静かな教室にやけに大きく響いた。バッグを肩にかけ、せめてもの防犯のために教室の引き戸をゆっくりと閉めようとした、その時だった。
「――チリン」
静寂に満ちた廊下の向こうから、冷たいガラスとガラスをそっと合わせたような、あるいは繊細な氷細工が触れ合ったような、とても澄んだ綺麗な音が聞こえてきた。
それは、普通の学校生活ではおよそ耳にすることのない、耳の奥に心地よく残る神秘的な響きだった。
私はハッとして、反射的に音がした方へ視線を向けた。
視線の先にあるのは、新校舎と繋がってはいるものの、普段はほとんどの生徒が立ち入ることのない「旧館」へと続く渡り廊下だった。床のワックスが剥がれかけ、どこか古い木造特有の匂いが漂うその空間の、暗い階段のふもと。夕闇が忍び寄りつつあるその場所に、何かがぽつんと落ちていた。それが窓からの僅かな夕日を浴びて、まるで自ら発光しているかのように、キラキラと妖しい輝きを放っている。
「なにか……落ちてる?」
廊下には誰もいない。当直の先生の気配すらない。それなのに、まるで見えない糸で手首を引かれているかのように、私の足は自然と旧館の方へと動いていた。一歩進むたびに、上履きの底が床を鳴らす音が不気味に響く。緊張でごくりと唾を飲み込みながら、私はその光り輝く物体の前でしゃがみ込み、そっと指先を伸ばしてそれを拾い上げた。
「これ……鍵、だよね……?」
手のひらに載せてじっくりと観察してみる。それは、現代のプラスチックや軽い合金で作られたものとは明らかに違う、ずっしりとした重みのある、見たこともないほど古めかしい真鍮製の鍵だった。
持ち手の部分には、まるで生きているかのように複雑で繊細なツタの模様がぐるぐると彫り込まれていて、中央には小さな、けれど深いエメラルドグリーンの輝きを持つ結晶が埋め込まれている。まるでヨーロッパの古いお城や、ファンタジー小説の表紙に出てくる魔法のアイテムみたいに、恐ろしいほど美しかった。
「誰の忘れ物だろう。こんな大事そうなもの……やっぱり、職員室の先生に届けたほうがいいのかな……」
戸惑いながら鍵を見つめていた、その時だった。手のひらに載せた真鍮の表面から、まるで生き物の体温のような、ほんのりとした、けれど確かな温もりが伝わってきた。その温もりは、ただの金属が夕日に温められたものとは明らかに違っていた。じわじわと私の手のひらの皮膚を通り抜け、手首の血管を伝って、真っ冷えに冷え切っていた私の胸の奥深くへと、優しく染み込んでくるような、理屈では説明できない奇妙な感覚。
ドクン、と私の心臓が大きく波打った。
その瞬間、私の耳からではなく、頭の芯、魂の奥底に直接響き渡るような、低くて少し掠れた、信じられないほど甘い男の人の声が鳴り響いた。
『――見つけた。ようやく僕たちの「鍵」を開けてくれる女の子を』
「え……っ!?」
あまりの衝撃に、私は持っていた鍵を落としそうになりながら、その場に飛び上がった。
心臓が口から飛び出そうになるほど激しく脈打つ。慌てて周囲を何度も見回し、暗い階段の上や、渡り廊下の陰を必死に凝視した。けれど、そこには誰もいなかった。人影どころか、虫の羽音一つしない。ただ、夕暮れの冷たい風が、旧館の古い窓ガラスをガタガタと不気味に揺らしているだけだった。
(な、何今の……? 声が聞こえたの? ううん、そんなわけない。誰もいないもん。私、疲れて幻聴でも聞いちゃったのかな……)
気のせい、だよね。そうに決まってる。
自分に言い聞かせるようにブンブンと激しく首を振ると、私はその不思議な熱を持ち続ける真鍮の鍵を、制服のポケットの奥深くへと強く押し込んだ。生地越しに伝わるその温もりに背中をゾクゾクとさせながら、私はスクールバッグを強く握りしめ、振り返ることもせず、逃げるようにして夕闇の学校を後にした。
それが、私の平凡で地味だった「空気」のような日常が完全に終わりを告げる、すべての始まりだとも知らずに。
誰もいない放課後の教室で、私――小鳥遊紬は、胸元に抱きしめた英語の教科書の冷たい感触を確かめながら、ぽつりと小さくため息を漏らした。
今日の夕方の教室当番は、間違いなく私だった。黒板を綺麗に消して、窓の鍵をすべて閉め、ゴミ箱を片付ける。そんな簡単な仕事だったはずなのに、放課後のチャイムが鳴った瞬間に頭が完全に空っぽになってしまい、そのまま荷物をまとめて校門を出ようとしてしまったのだ。靴箱の前で他のクラスの当番の生徒とすれ違い、その腕章を見て「あ……っ!」と思い出したときには、すでに心臓が嫌な音を立ててバクバクと脈打っていた。
慌てて誰もいない教室へと引き返してきたものの、自分のあまりの要領の悪さと物覚えの悪さに、情けなさがじわじわと押し寄せてくる。
息を切らせて戻った夕方の教室には、窓の外から燃えるようなオレンジ色の西日が斜めに鋭く差し込んでいた。昼間の賑やかさや、クラスメイトたちの笑い声、机を引くガタガタとした雑音が嘘のように静まり返っている。空気中に舞う微細な埃が、西日の光の帯の中でキラキラと頼りなく踊っていた。廊下側の壁に長く伸びた自分自身の影を見つめていると、世界にたった一人だけ取り残されてしまったかのような、底知れない孤独感が胸を締め付ける。
(みんなはもう、部活に行って汗を流したり、仲の良い友達同士で寄り道して、駅前のカフェで買い食いしたりしてるよね。私には、そんな風に放課後を一緒に過ごせる、気楽に話せる友達もいないのに……)
中学に入学して、もうすぐ三か月が経とうとしていた。
周りの女の子たちは、最初の数週間で驚くほど素早くグループを作り上げ、毎日のようにメイクやアイドルの話で盛り上がっている。けれど、極度の人見知りで、これといった特技も流行の知識もない私は、その輪のどこにも入れないままだった。話しかけるタイミングを計っているうちに時は過ぎ、いまだにクラスの中で誰の視界にも入らない「空気」みたいな存在のまま、ただ毎日をやり過ごしていた。
「……早く帰ろう。お母さんが待ってるし」
これ以上ここにいたら、寂しさで涙がこぼれてしまいそうだった。どんよりとした重い気持ちのまま、角が少し折れ曲がった教科書をスクールバッグの奥へと押し込む。チャックを閉めるジッパーの音が、静かな教室にやけに大きく響いた。バッグを肩にかけ、せめてもの防犯のために教室の引き戸をゆっくりと閉めようとした、その時だった。
「――チリン」
静寂に満ちた廊下の向こうから、冷たいガラスとガラスをそっと合わせたような、あるいは繊細な氷細工が触れ合ったような、とても澄んだ綺麗な音が聞こえてきた。
それは、普通の学校生活ではおよそ耳にすることのない、耳の奥に心地よく残る神秘的な響きだった。
私はハッとして、反射的に音がした方へ視線を向けた。
視線の先にあるのは、新校舎と繋がってはいるものの、普段はほとんどの生徒が立ち入ることのない「旧館」へと続く渡り廊下だった。床のワックスが剥がれかけ、どこか古い木造特有の匂いが漂うその空間の、暗い階段のふもと。夕闇が忍び寄りつつあるその場所に、何かがぽつんと落ちていた。それが窓からの僅かな夕日を浴びて、まるで自ら発光しているかのように、キラキラと妖しい輝きを放っている。
「なにか……落ちてる?」
廊下には誰もいない。当直の先生の気配すらない。それなのに、まるで見えない糸で手首を引かれているかのように、私の足は自然と旧館の方へと動いていた。一歩進むたびに、上履きの底が床を鳴らす音が不気味に響く。緊張でごくりと唾を飲み込みながら、私はその光り輝く物体の前でしゃがみ込み、そっと指先を伸ばしてそれを拾い上げた。
「これ……鍵、だよね……?」
手のひらに載せてじっくりと観察してみる。それは、現代のプラスチックや軽い合金で作られたものとは明らかに違う、ずっしりとした重みのある、見たこともないほど古めかしい真鍮製の鍵だった。
持ち手の部分には、まるで生きているかのように複雑で繊細なツタの模様がぐるぐると彫り込まれていて、中央には小さな、けれど深いエメラルドグリーンの輝きを持つ結晶が埋め込まれている。まるでヨーロッパの古いお城や、ファンタジー小説の表紙に出てくる魔法のアイテムみたいに、恐ろしいほど美しかった。
「誰の忘れ物だろう。こんな大事そうなもの……やっぱり、職員室の先生に届けたほうがいいのかな……」
戸惑いながら鍵を見つめていた、その時だった。手のひらに載せた真鍮の表面から、まるで生き物の体温のような、ほんのりとした、けれど確かな温もりが伝わってきた。その温もりは、ただの金属が夕日に温められたものとは明らかに違っていた。じわじわと私の手のひらの皮膚を通り抜け、手首の血管を伝って、真っ冷えに冷え切っていた私の胸の奥深くへと、優しく染み込んでくるような、理屈では説明できない奇妙な感覚。
ドクン、と私の心臓が大きく波打った。
その瞬間、私の耳からではなく、頭の芯、魂の奥底に直接響き渡るような、低くて少し掠れた、信じられないほど甘い男の人の声が鳴り響いた。
『――見つけた。ようやく僕たちの「鍵」を開けてくれる女の子を』
「え……っ!?」
あまりの衝撃に、私は持っていた鍵を落としそうになりながら、その場に飛び上がった。
心臓が口から飛び出そうになるほど激しく脈打つ。慌てて周囲を何度も見回し、暗い階段の上や、渡り廊下の陰を必死に凝視した。けれど、そこには誰もいなかった。人影どころか、虫の羽音一つしない。ただ、夕暮れの冷たい風が、旧館の古い窓ガラスをガタガタと不気味に揺らしているだけだった。
(な、何今の……? 声が聞こえたの? ううん、そんなわけない。誰もいないもん。私、疲れて幻聴でも聞いちゃったのかな……)
気のせい、だよね。そうに決まってる。
自分に言い聞かせるようにブンブンと激しく首を振ると、私はその不思議な熱を持ち続ける真鍮の鍵を、制服のポケットの奥深くへと強く押し込んだ。生地越しに伝わるその温もりに背中をゾクゾクとさせながら、私はスクールバッグを強く握りしめ、振り返ることもせず、逃げるようにして夕闇の学校を後にした。
それが、私の平凡で地味だった「空気」のような日常が完全に終わりを告げる、すべての始まりだとも知らずに。
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