放課後、秘密の特別教室。〜イケメンな精霊たちは、私をあきらめない〜
第1章:白衣のメガネと、理科室の甘い罠
翌日の放課後。
昨日の夕方に体験した、あのあまりにも奇妙で非現実的な出来事のせいか、私は一日中、授業に全く集中することができなかった。黒板に書かれる数式も、先生の退屈な朗読も、すべてが遠い世界の雑音のように頭を通り過ぎていく。
それもそのはずだった。制服の右側のポケットの奥深くに押し込んである、あの古めかしい真鍮の鍵が、授業中も、休み時間も、ずっと静かに熱を持ち続けていたからだ。それだけではない。指先をポケットの布地にそっと押し当てると、鍵の持ち手の部分が、まるで生き物の心臓みたいに、ドクドク、ドクドクと、小さく、けれど力強い一定の鼓動を刻み続けていたのだ。
(やっぱり、昨日のあれは夢なんかじゃなかったんだ。この鍵、本当に生きているみたい……。早く誰かに返さなきゃいけないのに、どうしたらいいんだろう……)
お昼休みも、周囲の楽しげな笑い声から一人取り残されながら、私はずっと右のポケットをそっと押さえ、不安と緊張で胸をいっぱいにしていた。
「あの、小鳥遊さん。今日の理科のレポート、班の分をまとめて理科室に提出してきてくれる?」
そんな私のどんよりとした思考を断ち切るように、終礼のチャイムが鳴り響いた直後、同じ班の班長の女子生徒が目の前に立ちはだかった。彼女は私の返事を待つこともなく、プラスチック製の硬いバインダーを私の胸元に押し付けてきた。そこには、班のメンバーが適当に書き殴った、まだインクの匂いが残るレポートの用紙が数枚挟まれている。
クラスの中で最下層の「空気」である私には、当然、そんな面倒な頼み事を断る勇気など微塵もなかった。
「あ、うん、いいよ……」と、蚊の鳴くような小さな声でうつむきながら頷くのが精一杯だった。班長の女の子は「ありがとー!」と形だけの軽い言葉を残すと、すぐにスマートフォンの画面に目を落とし、仲の良いグループの元へと駆け寄っていった。
(はぁ……。みんな、私が何も言えないのを分かってて、こういう面倒な仕事を全部押し付けていくんだよね。どうせ私は、パシリにちょうどいい存在なんだ……)
心の中でぐるぐると黒いため息を吐きながら、私は重い足取りでスクールバッグを持ち上げ、教室を出た。
目指すのは、新館の近代的な設備とは完全に切り離された、旧館の三階の最奥にある理科室だ。
学校の怪談の舞台にでもなりそうな旧館の理科室は、床の木板が歩くたびにギシギシと悲鳴をあげ、古いワックスと埃の混ざった独特の匂いが鼻を突く、少し不気味な場所だった。おまけに、今はすでに全校生徒の大半が下校した放課後。新館の喧騒が遠ざかるにつれて、薄暗い廊下を一人で歩くだけで、背筋に冷たいものが走ってゾクゾクとしてくる。窓から差し込む西日さえも、ここではどこか影を長く引き伸ばし、血のような赤黒い色をして見えた。
「失礼します……。レポートを置きに来ました……」
理科室の重い木製の引き戸を、指先で恐る恐るそっと開けて中に入る。ガラガラと静寂を破る音が、やけに大きく部屋に響いた。
当然、中には先生の姿も、居残りの生徒の姿もなかった。部屋の中はしんと冷たく静まり返っており、整然と並べられた焦げ茶色の木製の実験机や、古びた薬品棚が影を作っている。棚のガラスケースの向こうで、埃をかぶったアルコールランプや三脚、大小様々なビーカーやフラスコが、窓からの夕日を反射して鈍く怪しげに光っていた。
早くこの不気味な空間から抜け出したくて、私は教卓の隅の目立つ場所にレポートのバインダーをそっと置いた。任務完了。すぐに踵を返して立ち去ろうとした、その時だった。
「おい。そこで何をしている」
「ひゃっ!?」
突如として、誰もいないはずの私の背後から、低くて水滴が凍りつくような冷ややかな声が鼓膜を震わせ、私は心臓が跳ね上がるほど驚いて飛び上がった。持っていたスクールバッグを落としそうになりながら、慌てて声を上げながら振り返る。
一番奥の、一番西日が当たらない暗い実験台の影。そこに、一人の男の子が静かに立っていた。
彼は、中学生の私たちとは違う、大人びた仕立ての真っ白な白衣を無造作に羽織っていた。そして、夕方の風にサラサラと揺れる色素の薄い黒髪の間から、きらりと冷たい光を放つ銀縁のメガネを覗かせている。
思わず息をのむほど、端正で綺麗な男の子だった。年の頃は高校生くらいだろうか。一切の無駄がない整った顔立ちは、まるで冷徹な彫刻のようであり、メガネの奥にある切れ長の瞳が、獲物を値踏みするような鋭い光を放って、私を完全に射すくめていた。彼の周囲だけ、空気の温度が数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「だ、誰ですか……? ここの生徒じゃ、ないですよね……?」
恐怖と緊張で声を震わせながら問いかける私に対して、その白衣の男の子は、楽しむようにフッと鼻で笑った。そして、ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと、けれど確実な足取りで私との距離を詰めてきた。
コツン、コツン、と、静寂が満ちる理科室に、彼の硬い靴音が不気味に響き渡る。その音が私の心臓の鼓動と重なって、ますますパニックが加速していく。
「誰、か、だと? そんなことより、お前の方こそ、僕の許可なく僕の実験室(部屋)に入るなんて、いい度胸じゃないか」
「えっ……? でも、ここは学校の理科室で、私はレポートを提出しにきただけで……」
「ここは僕のドメイン(領地)だ。学校の規則など、僕の科学の城(ここ)では何の意味も持たない」
気づけば、彼は目と鼻の先、手を伸ばせば触れられるほどの距離まで迫っていた。
私よりも頭一つ分以上背の高い彼に上から冷酷に見下ろされ、私は蛇に睨まれた蛙のように、一歩も後ろに動けなくなってしまう。彼の体からは、どこか高原の風のように爽やかで、けれどそれと同時に、少し危険な有毒植物を連想させるような、ミントと薬品を混ぜた独特の知的な香りが漂ってきて、私の嗅覚を支配した。
彼はすっと白衣から細く長い指を伸ばすと、私の制服の右側のポケットに、迷いなく指先を触れさせた。
「やっぱりな。お前のそのポケットの奥で、異質なエネルギーが脈打っている。……隠さずに出してみろ」
「あ、これ……?」
彼の威圧感に押されるがままに、私は昨日旧館の階段の下で拾った、あの真鍮の鍵をポケットから引っ張り出した。
すると、どういうことだろう。昨日まではただ温かかっただけの鍵が、彼の目の前に現れた瞬間、持ち手のエメラルドグリーンの結晶を中心に、パァァッと理科室の薄暗闇を照らすほどの淡い青色の光を放ち始めたのだ。私の手のひらの上で、鍵が激しく主張するように光り輝いている。
「間違いない。お前が、この古い旧館の封印を解いた『マスター』か」
男の子は、その光を愛おしむように見つめた後、メガネのブリッジを端正な中指でくいっと上げた。その口元に、冷徹なだけではない、獲物を見つけた肉食獣のような不敵な笑みが浮かぶ。
「自己紹介をしておこう。僕は『蓮(れん)』。この理科室に宿る精霊であり、お前がその鍵を拾い上げて僕を目覚めさせた瞬間から、お前は僕の【所有物】であり、同時にお前を【所有する者】となったんだ」
「せ、精霊……!? 所有物って、一体何言ってるんですか……!? 意味が分かりません!」
およそ現実的ではない単語の連続に、頭の中が完全に飽和してパニックになる私を面白がるように、蓮くんはさらに容赦なく顔を近づけてきた。彼の綺麗な顔が視界のすべてを埋め尽くすほど間近に迫り、吐息が触れそうな距離に、私の心臓は恥ずかしさと恐怖で爆発しそうになる。
「言葉通りの意味さ。お前は今日から、僕の特別な研究対象になったんだ。他の部屋の有象無象のやつらにうつつを抜かすなんて、僕の完璧な計算(計画)にはない。……いいから大人しく、これから毎日、僕の実験台になって(僕の隣にいて)くれないか?」
「じ、実験台なんて絶対に嫌です!!」
私が顔を真っ赤にして、拒絶の声を理科室に響かせたその瞬間だった。
それまで静かだった室内の空気が一変し、壁際に並んでいたガラスの薬品棚や、実験台の上のビーカーたちが、まるで小規模な地震でも起きたかのように、ガタガタ、ガタガタと激しく揺れ動き、不気味な音を立てて共鳴し始めたのだ。
「――おっと、そこまでだ、理科室のインテリメガネくん。僕の可愛いミューズに、そんな不躾で暴力的な勧誘をするなんて、芸術的センスの欠片もないね」
突如として、理科室の分厚い壁のコンクリートを、まるで最初からそこには何もなかったかのように静かに透過して、夕日の光を背中に背負ったもう一人の男の子が、私たちの前にその姿を現したのだった。
昨日の夕方に体験した、あのあまりにも奇妙で非現実的な出来事のせいか、私は一日中、授業に全く集中することができなかった。黒板に書かれる数式も、先生の退屈な朗読も、すべてが遠い世界の雑音のように頭を通り過ぎていく。
それもそのはずだった。制服の右側のポケットの奥深くに押し込んである、あの古めかしい真鍮の鍵が、授業中も、休み時間も、ずっと静かに熱を持ち続けていたからだ。それだけではない。指先をポケットの布地にそっと押し当てると、鍵の持ち手の部分が、まるで生き物の心臓みたいに、ドクドク、ドクドクと、小さく、けれど力強い一定の鼓動を刻み続けていたのだ。
(やっぱり、昨日のあれは夢なんかじゃなかったんだ。この鍵、本当に生きているみたい……。早く誰かに返さなきゃいけないのに、どうしたらいいんだろう……)
お昼休みも、周囲の楽しげな笑い声から一人取り残されながら、私はずっと右のポケットをそっと押さえ、不安と緊張で胸をいっぱいにしていた。
「あの、小鳥遊さん。今日の理科のレポート、班の分をまとめて理科室に提出してきてくれる?」
そんな私のどんよりとした思考を断ち切るように、終礼のチャイムが鳴り響いた直後、同じ班の班長の女子生徒が目の前に立ちはだかった。彼女は私の返事を待つこともなく、プラスチック製の硬いバインダーを私の胸元に押し付けてきた。そこには、班のメンバーが適当に書き殴った、まだインクの匂いが残るレポートの用紙が数枚挟まれている。
クラスの中で最下層の「空気」である私には、当然、そんな面倒な頼み事を断る勇気など微塵もなかった。
「あ、うん、いいよ……」と、蚊の鳴くような小さな声でうつむきながら頷くのが精一杯だった。班長の女の子は「ありがとー!」と形だけの軽い言葉を残すと、すぐにスマートフォンの画面に目を落とし、仲の良いグループの元へと駆け寄っていった。
(はぁ……。みんな、私が何も言えないのを分かってて、こういう面倒な仕事を全部押し付けていくんだよね。どうせ私は、パシリにちょうどいい存在なんだ……)
心の中でぐるぐると黒いため息を吐きながら、私は重い足取りでスクールバッグを持ち上げ、教室を出た。
目指すのは、新館の近代的な設備とは完全に切り離された、旧館の三階の最奥にある理科室だ。
学校の怪談の舞台にでもなりそうな旧館の理科室は、床の木板が歩くたびにギシギシと悲鳴をあげ、古いワックスと埃の混ざった独特の匂いが鼻を突く、少し不気味な場所だった。おまけに、今はすでに全校生徒の大半が下校した放課後。新館の喧騒が遠ざかるにつれて、薄暗い廊下を一人で歩くだけで、背筋に冷たいものが走ってゾクゾクとしてくる。窓から差し込む西日さえも、ここではどこか影を長く引き伸ばし、血のような赤黒い色をして見えた。
「失礼します……。レポートを置きに来ました……」
理科室の重い木製の引き戸を、指先で恐る恐るそっと開けて中に入る。ガラガラと静寂を破る音が、やけに大きく部屋に響いた。
当然、中には先生の姿も、居残りの生徒の姿もなかった。部屋の中はしんと冷たく静まり返っており、整然と並べられた焦げ茶色の木製の実験机や、古びた薬品棚が影を作っている。棚のガラスケースの向こうで、埃をかぶったアルコールランプや三脚、大小様々なビーカーやフラスコが、窓からの夕日を反射して鈍く怪しげに光っていた。
早くこの不気味な空間から抜け出したくて、私は教卓の隅の目立つ場所にレポートのバインダーをそっと置いた。任務完了。すぐに踵を返して立ち去ろうとした、その時だった。
「おい。そこで何をしている」
「ひゃっ!?」
突如として、誰もいないはずの私の背後から、低くて水滴が凍りつくような冷ややかな声が鼓膜を震わせ、私は心臓が跳ね上がるほど驚いて飛び上がった。持っていたスクールバッグを落としそうになりながら、慌てて声を上げながら振り返る。
一番奥の、一番西日が当たらない暗い実験台の影。そこに、一人の男の子が静かに立っていた。
彼は、中学生の私たちとは違う、大人びた仕立ての真っ白な白衣を無造作に羽織っていた。そして、夕方の風にサラサラと揺れる色素の薄い黒髪の間から、きらりと冷たい光を放つ銀縁のメガネを覗かせている。
思わず息をのむほど、端正で綺麗な男の子だった。年の頃は高校生くらいだろうか。一切の無駄がない整った顔立ちは、まるで冷徹な彫刻のようであり、メガネの奥にある切れ長の瞳が、獲物を値踏みするような鋭い光を放って、私を完全に射すくめていた。彼の周囲だけ、空気の温度が数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「だ、誰ですか……? ここの生徒じゃ、ないですよね……?」
恐怖と緊張で声を震わせながら問いかける私に対して、その白衣の男の子は、楽しむようにフッと鼻で笑った。そして、ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと、けれど確実な足取りで私との距離を詰めてきた。
コツン、コツン、と、静寂が満ちる理科室に、彼の硬い靴音が不気味に響き渡る。その音が私の心臓の鼓動と重なって、ますますパニックが加速していく。
「誰、か、だと? そんなことより、お前の方こそ、僕の許可なく僕の実験室(部屋)に入るなんて、いい度胸じゃないか」
「えっ……? でも、ここは学校の理科室で、私はレポートを提出しにきただけで……」
「ここは僕のドメイン(領地)だ。学校の規則など、僕の科学の城(ここ)では何の意味も持たない」
気づけば、彼は目と鼻の先、手を伸ばせば触れられるほどの距離まで迫っていた。
私よりも頭一つ分以上背の高い彼に上から冷酷に見下ろされ、私は蛇に睨まれた蛙のように、一歩も後ろに動けなくなってしまう。彼の体からは、どこか高原の風のように爽やかで、けれどそれと同時に、少し危険な有毒植物を連想させるような、ミントと薬品を混ぜた独特の知的な香りが漂ってきて、私の嗅覚を支配した。
彼はすっと白衣から細く長い指を伸ばすと、私の制服の右側のポケットに、迷いなく指先を触れさせた。
「やっぱりな。お前のそのポケットの奥で、異質なエネルギーが脈打っている。……隠さずに出してみろ」
「あ、これ……?」
彼の威圧感に押されるがままに、私は昨日旧館の階段の下で拾った、あの真鍮の鍵をポケットから引っ張り出した。
すると、どういうことだろう。昨日まではただ温かかっただけの鍵が、彼の目の前に現れた瞬間、持ち手のエメラルドグリーンの結晶を中心に、パァァッと理科室の薄暗闇を照らすほどの淡い青色の光を放ち始めたのだ。私の手のひらの上で、鍵が激しく主張するように光り輝いている。
「間違いない。お前が、この古い旧館の封印を解いた『マスター』か」
男の子は、その光を愛おしむように見つめた後、メガネのブリッジを端正な中指でくいっと上げた。その口元に、冷徹なだけではない、獲物を見つけた肉食獣のような不敵な笑みが浮かぶ。
「自己紹介をしておこう。僕は『蓮(れん)』。この理科室に宿る精霊であり、お前がその鍵を拾い上げて僕を目覚めさせた瞬間から、お前は僕の【所有物】であり、同時にお前を【所有する者】となったんだ」
「せ、精霊……!? 所有物って、一体何言ってるんですか……!? 意味が分かりません!」
およそ現実的ではない単語の連続に、頭の中が完全に飽和してパニックになる私を面白がるように、蓮くんはさらに容赦なく顔を近づけてきた。彼の綺麗な顔が視界のすべてを埋め尽くすほど間近に迫り、吐息が触れそうな距離に、私の心臓は恥ずかしさと恐怖で爆発しそうになる。
「言葉通りの意味さ。お前は今日から、僕の特別な研究対象になったんだ。他の部屋の有象無象のやつらにうつつを抜かすなんて、僕の完璧な計算(計画)にはない。……いいから大人しく、これから毎日、僕の実験台になって(僕の隣にいて)くれないか?」
「じ、実験台なんて絶対に嫌です!!」
私が顔を真っ赤にして、拒絶の声を理科室に響かせたその瞬間だった。
それまで静かだった室内の空気が一変し、壁際に並んでいたガラスの薬品棚や、実験台の上のビーカーたちが、まるで小規模な地震でも起きたかのように、ガタガタ、ガタガタと激しく揺れ動き、不気味な音を立てて共鳴し始めたのだ。
「――おっと、そこまでだ、理科室のインテリメガネくん。僕の可愛いミューズに、そんな不躾で暴力的な勧誘をするなんて、芸術的センスの欠片もないね」
突如として、理科室の分厚い壁のコンクリートを、まるで最初からそこには何もなかったかのように静かに透過して、夕日の光を背中に背負ったもう一人の男の子が、私たちの前にその姿を現したのだった。