ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
プロローグ
0.現在
正面から両肩を強く押され、勢いのまま壁に背中が当たった。
『痛っ』
声が漏れそうになるのを我慢して、視線を床に落とした。
体育館の横にある湿った空気の準備室――
授業が終わった後、いろはとその子分たちに腕を引っ張られ押し込まれた。
少し前を歩いている友達は急にいなくなった私に気づいていなかった。呼べば振り向いてくれることは分かっているけれど、私は静かにあきらめた。
「さっきのなんなの」
腕組みの子分たちが私を睨みつけて言った。
「いろはちゃんのこと無視したじゃん」
「して、ないよ」
「したよねえ? みんな見てたし!」
「見てた!」
体育の授業は男女別、2クラス合同で行う。中学二年の一年間は私といろはの組が一緒だった。
「そんなことできる身分だと思ってんの? いろはちゃんちに居候してるくせに」
「そーだよ、サイテイな母親の子供のくせに」
「……」
授業はクラス対抗のドッジボールだった。
私は回ってきたボールをいろはに当てないように意識していた。それくらいいろはだって気づいているだろうに、結局私がなにをしてもしなくても、こうして言いがかりをつけてくるのだ。
「ちょっと運動神経がいいからって、はりきっちゃってばかみたい」
「……」
自慢したいわけではなく事実として、私は運動が得意だ。走るのも速い方で、望んではいないけれど大会や行事があれば選手として選ばれてしまう。だけど今日ははりきってもいないし、むしろ抑えて動いていた。
私は控えめにいろはに視線を向けた。
いろははそれが気に入らなかったのか顎を上げながら近づいてきた。
「なに見てんの、あんたごときが私を見るとか自分の立場わかってんの」
どすのきいた声。この声を知っているのは私と子分たちだけに違いない。
「土下座してよ」
いろはは当たり前のように要求してくる。
私はゆっくり、冷たい床に膝をついた。――今は我慢、我慢しなきゃ、こんなことたいしたことじゃない。『弟』が戻ってくるまでは耐えなきゃ。
ガタガタ、ガタ、
突然、重く鈍い音がして扉が開いた。
「陰険だね、さすが『蓮見旅館』のひとり娘」
その皮肉めいた声が誰のものか思い出す前に、いろはが裏返った声で言った。
< 1 / 110 >