嘘か真か 〜幼馴染に仕掛けられた恋の罠〜
嘘の婚約届
紙と皐月を交互に見ながら、混乱する。
「大丈夫、よくできてるけど、フェイクだよ」
「え? ほんと?」
まじまじと見つめるが、婚姻届なんて書いたことも見たこともない碧には、どこが本物と違うのかさっぱり分からない。
「あれ? ……これ、証人の名前が入ってるんだけど……」
「あ、証人欄はもう書いてもらったから。二人必要だから、二人分」
「……書いてもらった?」
皐月の友人の名前と、碧の母親の名前が書かれていた。
(……嘘の婚姻届にしては、手が込みすぎじゃないっ? ここまでする? てか、親や友達になんて説明して書いてもらったのよ)
彼の顔を見ても、やはり何を考えてるのか分からない。
「俺のこと、好きなら書けるよね? 結婚も、うんって言ったし。というか、婚姻届も本物じゃないし、練習みたいなものだよ?」
「……本物じゃないなら、書かなくてよくない?」
「本物じゃないから、書いても問題ないでしょ?」
「……」
譲る気がないのか、ペンをずっとこちらに向けてくる。
「……分かったよ」
碧は差し出されたペンを受け取ると、婚姻届に視線を落とした。
(まぁ、嘘の婚姻届なんだし……、書くだけなら)
そう思いつつ、手が震えそうになるのを、指に力を入れて抑える。
皐月は手元がよく見えるようにしゃがみ込み、一筆一筆を食い入るように見つめてくる。
(……見すぎじゃない?)
その視線に急かされ、少しずつ文字を書き進めていく。
「碧、マイナンバーカード持ってきてるよね」
「……あるけど」
なんで今そんなことを聞くのだろうと思いつつも、気付けば最後の一文字まで書ききっていた。
「じゃあ、次俺が書くね」
「うん。……あ、お水もらう」
「いいよ。あ、こっちに来ないで、キッチンで飲んできてね」
一瞬、婚姻届へ視線を落としてから、皐月が言った。
「……? 分かった」
理由が分からないまま、碧は了承した。
(なんで、キッチン? ……ま、いっか)
緊張しすぎて、喉がカラカラになっていた碧は、水を飲もうとキッチンへ向かう。
冷蔵庫から水の入った未開封のペットボトルを取り出す。
グラスへと注ぎ、唇をつけた。
チラリとリビングを振り返ると、皐月は真剣な表情で婚姻届にペンを走らせていた。
(……なんで、あんなに真剣な顔してんの?)
全部嘘のはずなのに、本当に向き合っているように見えてしまう。
(まさか、本物なんてことないよね?)
演技に見えないその表情や言動に、もしかして嘘じゃないのではと、わずかな疑いが生まれる。
(そ、そんなわけないじゃんね。だったら、好きだって言ったのも、本当だってことになるし……)
皐月が今まで自分を好きだと言ったことも、特別な行動で表してくれたこともなかった。
(妹みたいにしか思われてないのは、分かってる)
もし好きなら、目の前で他の女の子といちゃついたりはしないだろう。
(高校のとき、姿見つけて追いかけたら、目の前でおっ始められそうになったときもあったしさ……)
二つ上の皐月とは、一年だけ同じ学校に通っていた。
あのとき、何が起きているのかすぐに理解ができなくてぼーっと突っ立って見ていたら、『見ちゃダメ……』って色気たっぷりに追い出されたのだ。
もう六、七年ほど前のことだけど、碧は今でも鮮明に覚えている。
家に女の子を連れ込むことはなかったから、イチャイチャするのを目撃したのは学校や道端での話だったけれど。
(やっぱ、皐月にとってはゲーム(嘘)なんだよね……)
込み上げる虚しさや悲しさで、胸の奥がズキズキと痛んだ。
皐月のもとへ行かず、ローテーブルに置いてあるスマホの画面を見にいく。
(……早く終わればいいのに)
――二十分経過。制限時間まであと十分。
嘘の婚姻届を書き終えた皐月は、それを丁寧に折りたたんで封筒に収め、手提げバッグへと大切そうにしまい込んだ。
「それ、どうするの?」
「役所に持ってくから、鞄に入れておくんだよ」
「……あ、そう」
(……息を吐くように、こんな嘘つく人だったかな)
意地悪は言っても、本気で自分を困らせるような嘘なんてつかない人だった。
(明らかに体調悪いのに、『平気だから』って言ってバイトのお迎えに来てくれたりとか……、母さんが夜勤でうちにいないとき、寂しいって言えずにいたら、『俺が寂しいから朝まで付き合って』って言って隣で眠ってくれたり。つくとしても優しい嘘だった。こんなたちの悪い嘘はついたりしなかったのに。……そもそも、こんなよく分からないゲーム、なんで始めたんだろう)
すぐに嘘だと分かるようなゲームを仕掛けた理由が、よく分からなかった。
「……あぁ、やっとこれで」
逃げ場を塞ぐように一気に距離が詰められた。
腰を引き寄せられ、身体がぴたりと密着する。
腰に回された腕の力は強く、反射的に離れようとしてもびくともしない。
さらに、長い指が顎に添えられ、顔を上げさせられた。
熱を帯びた瞳が、まっすぐに見つめてくる。
「俺のものになるね」
(な、な、な……!?)
碧は今まで皐月からこんなふうに触れられたことが、ただの一度もなかった。
髪の毛をドライヤーで乾かしてくれたり、頭を撫でたり、膝枕をしてくれたり、マッサージ……は若干際どいラインだったが、その程度の触れ合いしか思いつかない。
(お、お、女の子にするみたいに触れるなぁっ!!)
熱が一気に跳ね上がり、碧の顔が真っ赤に染まる。
「……碧、耳まで真っ赤っか」
そう言って皐月は、タレ目気味の目元をくしゃりと下げて、心底嬉しそうに笑った。
(誰のせいだぁっ!!)
言葉にして言い返したいのに、動揺しすぎて口がはくはくと動くだけで声が出ない。
「だって……嬉しいんだよ。やっと触れられるんだもん」
碧の顎に触れていた指が下へと滑り、首筋から肩、腰を確かめるようになぞっていく。
「全部……俺のもの」
その囁きが耳元を掠めた瞬間、碧の背筋にぞくぞくと震えが走った。
皐月の指が触れている場所から、甘い痺れが波紋のように全身へ広がっていく。
「……も、もう……やめてよ」
喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「……止めないよ」
皐月は不意に別の方へ視線をやり、何かを確かめると、再び碧を見た。
「じゃあ、嘘の答え合わせしよっか……」
「……へ?」
――二十五分経過。制限時間まであと五分。
皐月に翻弄されているうちに、いつの間にか時間が経っていた。
「……」
「これじゃあ、喋れないか……」
低く呟くと、彼は碧の腰に巻き付けていた腕を解いた。
自由になった瞬間、碧は慌てて皐月から距離を取り、暴れる心臓を両手で押さえながら、その場にへたり込んだ。
「……なんでこんな嘘をついたのよ」
「……嘘?」
「最初から、ずっと。ずぅっとっ! ひどい嘘つきっぱなしじゃん!」
「……どんな嘘?」
どこか余裕を崩さないその言い方に、碧は怒りに瞳を潤ませながら彼を睨みつけた。
「だ、だから! 私を好きだとか、結婚しようとか言うのも全部――全部、嘘なんでしょ!?」
「……」
「偽の婚姻届を書かせたり、証人の署名まで準備したり……こんなの、タチが悪すぎる……!」
「……それが、碧の答えでいいの?」
「それしかないでしょ!?」
「俺が君にした告白が、嘘……なんだね」
「……そうだよ」
「……そう。じゃあ―――君の負けだね」