やさしい風の吹く街で~謎の美青年、海に落ちる~
尾道に来て一年以上たつけれど、今でも海を見下ろす坂の街は迷路みたいだなあと思う。 細い路地や階段が入り組んでいて、ちょっと一本違う道を行けば新しい発見があったりする。 道が狭いので、車で家の前まで行けるところは少ない。郵便や宅配便は歩いて配るのだそうだ。
タクシーの運転手さんも 「この先で降りて、あっちへ行って、向こうの方に曲がると坂があるけえ、そこを上がって……」 と、わかるようなわからないような説明をして、西國寺の参道の途中で車を停めた。 雅楽川さんの別荘へは車で行くこともできるけれど、遠回りになるのでここで降りて歩いた方が早いとのことだった。 運転手さんとしては家の前まで乗りつけた方が儲かるはずなのに、と思いながらタクシーを降りた。 ちなみに「さっきのお兄ちゃんには家の前まで行ってくれ言われたけどな」と言っていた。
近くまで行けば目立つからすぐわかると言われていたとおり、それらしき建物はすぐに見つかった。
お屋敷へと続く石畳の坂の途中で足を止める。 ここからでは全貌はわからないけれど、二階の青っぽい屋根やクリーム色の壁、庭に植えられた大きな木が見える。 やっぱり奥さんとマスターが言っていたのはここのことだろうか。
お屋敷の前まで来てみると、両サイドに石柱が立ち、つる植物のようなデザインの鉄製の門扉が、いかにも古い洋館の入り口といった趣だ。 表札にはローマ字で「UTAGAWA」とある。
額ににじんだ汗をハンカチで押さえながら、しばらく中の様子をうかがった。 静まり返っていて、人がいるのかどうかわからない。 でも、清風さんはきっとここにいるはずだ。
緊張しながらインターホンのボタンを押した。
…………。
応答はない。いないのだろうか。
もう一度押す。
やっぱり出ない。
出かけているのか、それとも出たくないのか……。
ハッと息を呑んだ。 もしかしたらまた意識を失って倒れているのかもしれない。 助けを呼びたくても動けないでいるのかもしれない。
慌ててボタンを連続で押し続けた。
するとようやく、カチャリと応答の音がした。
(警察呼びますよ)
冷静で、低い声。
「えっ!? あの、違うんです。すみません。中で倒れているのかと思って……」
(どちら様ですか?)
「夏井咲和と言います。昨日、一緒に救急車に乗って行ったものなんですけど……」
しばらく間があって、 (どうぞ) と言われたきり、インターホンは切れた。
どうぞ、ということは入っていいということよね……? 恐る恐る門扉の取っ手に手をかける。
開かない。
どうぞと言っておきながら開けてくれないつもりだろうか。
あ、押すのか。
インターホン越しの清風さんは、想像していた感じと違った。 葵さんが、ちょっと強引ではあるけれど誠実そうな話し方の人だったので、お兄さんの清風さんもそんな感じなのかと勝手に思っていた。 けれどさっきの感じだと、ちょっと取っつきにくいタイプの人かもしれない。
「どうぞ」と言うまでの間は、きっと迷いだ。 本当は招き入れたくはないのだけれど、助けてくれた恩がある以上、無下に追い返すわけにもいかない――そんなところだろう。 こっちとしても関わりたくない気持ちがふつふつと湧き上がっていた。
玄関前に立つと同時に、ドアが開いた。
現れたのは清風さん本人だった。 シャワーを浴びたのか、ふわっといい香りがする。 もちろんもう病衣姿ではない。黒いTシャツに下も黒のラフなパンツ姿だ。
昨日よりは顔色はましだけれど、それでも健康的とは言えない。 そしてやっぱり、とても整った顔立ちをしている。これが画面越しなら加工だと思うほどだ。
「あ、あの、こんにちは」
わたしは改めて挨拶をした。
「どうぞ」
応接間のような部屋に通された。
ダークブラウンの床も、置いてある家具もピカピカに磨き上げられ、古いけれど全体的に手入れが行き届いている。 マスターたちが言っていたように、管理人を雇っていつでも使えるようにしてあるのだろう。 ミステリー映画にでも出てきそうな雰囲気の立派なお屋敷だ。 けれど他に人がいる気配はない。
「あの、すみませんでした。何度もピンポン鳴らして」
「もし僕が倒れていたとしたら、何度鳴らしても無駄じゃないですか?」
清風さんはにこりともしない。
「そう……です……よね……スミマセン……」
張り詰めた空気に飲まれて、言葉が尻すぼみになってしまう。
「適当に座ってください。ただ申し訳ないんですが、おかまいできるようなものが何もないんです」
「そんな、何もいりません。お気づかい、なく……」
緊張する。 小さく「失礼します」と言いながら、お高い外国製と思われるソファに腰掛けた。 硬すぎず柔らかすぎず、座り心地がいい。
「あ、これ、洗っておきました。昨日着てた服」
わたしが紙袋を少し掲げてみせると、一瞥して、低い声で「どうも」とだけ言った。
清風さんは座ろうとはせず、外を見ながら窓辺にまっすぐ立っている。 “まっすぐ”という言葉がぴったりな、無駄のない美しい佇まいだ。
「具合は、どうですか?」
恐る恐る聞いてみる。
「大丈夫です」
「あの……勝手に退院されたって聞いたんですけど、ちゃんと検査してもらった方がい……」
「一つ伺っていいですか」
清風さんは窓の外を見たまま、わたしの言葉を遮った
「なぜここがわかったんですか」
「葵さんに教えてもらったんです」
その名前を口にした瞬間、清風さんの視線がすっとこちらに向いた。 ドキッとして、思わず目をそらす。
「どういうことですか?」
「電話があったんです。昨日、あなたが眠っている間に。 勝手に出るのもどうかとは思ったんですけど……ああいう状況だったので、出させてもらいました」
清風さんは何も言わない。
「それでわたし、頼まれたんです。葵さんから。 あなたのサポートをしてほしいって。 他に誰も頼れる人がいないからって」
ずっと無表情だった清風さんの顔に、ほんのわずか、動揺が走ったように見えた。
「どうしても仕事があってすぐには来られないけど、来られるようになったらすぐに来るって言ってました。 だから、それまで……」
「そうですか。でももうけっこうです。ご覧のとおり、僕はもう大丈夫ですから」
「でも……」
清風さんは突然窓辺を離れ、部屋の外へ出ていった。 が、驚いている間にすぐ戻ってきた。手には財布を持っている。
「失礼は承知の上ですが、封筒も何もないものでお許しください」
そう言って、わたしの前のテーブルに一万円札を何枚も置いた。 ざっと二十枚以上はありそうだ。
「……何ですかこれ」
「助けていただいたお礼です。申し訳ないが、今は手持ちがそれしかないんです」
「こんなのいただけません。そんなつもりじゃありません」
「どんなつもりでもいいから、それを持って帰ってもらえませんか」
耳を疑った。 なんて言い草だろう。
「しっ、失礼じゃないですか? うちのマスターとか、高校生の男の子とか、おじいさんとか…… みんなあなたのことを心配して助けたんですよ? あの人たちがいなかったら、あなた今頃死んでたかもしれないんですよ!?」
「僕は助けてなんて頼んでない」
思わず彼を睨みつけた。 清風さんは涼しい顔で、目を合わせようともしない。
わたしはわなわなと立ち上がった。
「後悔しています。あなたのことを、少しでも心配したこと」
そう吐き捨て、部屋を出た。
タクシーの運転手さんも 「この先で降りて、あっちへ行って、向こうの方に曲がると坂があるけえ、そこを上がって……」 と、わかるようなわからないような説明をして、西國寺の参道の途中で車を停めた。 雅楽川さんの別荘へは車で行くこともできるけれど、遠回りになるのでここで降りて歩いた方が早いとのことだった。 運転手さんとしては家の前まで乗りつけた方が儲かるはずなのに、と思いながらタクシーを降りた。 ちなみに「さっきのお兄ちゃんには家の前まで行ってくれ言われたけどな」と言っていた。
近くまで行けば目立つからすぐわかると言われていたとおり、それらしき建物はすぐに見つかった。
お屋敷へと続く石畳の坂の途中で足を止める。 ここからでは全貌はわからないけれど、二階の青っぽい屋根やクリーム色の壁、庭に植えられた大きな木が見える。 やっぱり奥さんとマスターが言っていたのはここのことだろうか。
お屋敷の前まで来てみると、両サイドに石柱が立ち、つる植物のようなデザインの鉄製の門扉が、いかにも古い洋館の入り口といった趣だ。 表札にはローマ字で「UTAGAWA」とある。
額ににじんだ汗をハンカチで押さえながら、しばらく中の様子をうかがった。 静まり返っていて、人がいるのかどうかわからない。 でも、清風さんはきっとここにいるはずだ。
緊張しながらインターホンのボタンを押した。
…………。
応答はない。いないのだろうか。
もう一度押す。
やっぱり出ない。
出かけているのか、それとも出たくないのか……。
ハッと息を呑んだ。 もしかしたらまた意識を失って倒れているのかもしれない。 助けを呼びたくても動けないでいるのかもしれない。
慌ててボタンを連続で押し続けた。
するとようやく、カチャリと応答の音がした。
(警察呼びますよ)
冷静で、低い声。
「えっ!? あの、違うんです。すみません。中で倒れているのかと思って……」
(どちら様ですか?)
「夏井咲和と言います。昨日、一緒に救急車に乗って行ったものなんですけど……」
しばらく間があって、 (どうぞ) と言われたきり、インターホンは切れた。
どうぞ、ということは入っていいということよね……? 恐る恐る門扉の取っ手に手をかける。
開かない。
どうぞと言っておきながら開けてくれないつもりだろうか。
あ、押すのか。
インターホン越しの清風さんは、想像していた感じと違った。 葵さんが、ちょっと強引ではあるけれど誠実そうな話し方の人だったので、お兄さんの清風さんもそんな感じなのかと勝手に思っていた。 けれどさっきの感じだと、ちょっと取っつきにくいタイプの人かもしれない。
「どうぞ」と言うまでの間は、きっと迷いだ。 本当は招き入れたくはないのだけれど、助けてくれた恩がある以上、無下に追い返すわけにもいかない――そんなところだろう。 こっちとしても関わりたくない気持ちがふつふつと湧き上がっていた。
玄関前に立つと同時に、ドアが開いた。
現れたのは清風さん本人だった。 シャワーを浴びたのか、ふわっといい香りがする。 もちろんもう病衣姿ではない。黒いTシャツに下も黒のラフなパンツ姿だ。
昨日よりは顔色はましだけれど、それでも健康的とは言えない。 そしてやっぱり、とても整った顔立ちをしている。これが画面越しなら加工だと思うほどだ。
「あ、あの、こんにちは」
わたしは改めて挨拶をした。
「どうぞ」
応接間のような部屋に通された。
ダークブラウンの床も、置いてある家具もピカピカに磨き上げられ、古いけれど全体的に手入れが行き届いている。 マスターたちが言っていたように、管理人を雇っていつでも使えるようにしてあるのだろう。 ミステリー映画にでも出てきそうな雰囲気の立派なお屋敷だ。 けれど他に人がいる気配はない。
「あの、すみませんでした。何度もピンポン鳴らして」
「もし僕が倒れていたとしたら、何度鳴らしても無駄じゃないですか?」
清風さんはにこりともしない。
「そう……です……よね……スミマセン……」
張り詰めた空気に飲まれて、言葉が尻すぼみになってしまう。
「適当に座ってください。ただ申し訳ないんですが、おかまいできるようなものが何もないんです」
「そんな、何もいりません。お気づかい、なく……」
緊張する。 小さく「失礼します」と言いながら、お高い外国製と思われるソファに腰掛けた。 硬すぎず柔らかすぎず、座り心地がいい。
「あ、これ、洗っておきました。昨日着てた服」
わたしが紙袋を少し掲げてみせると、一瞥して、低い声で「どうも」とだけ言った。
清風さんは座ろうとはせず、外を見ながら窓辺にまっすぐ立っている。 “まっすぐ”という言葉がぴったりな、無駄のない美しい佇まいだ。
「具合は、どうですか?」
恐る恐る聞いてみる。
「大丈夫です」
「あの……勝手に退院されたって聞いたんですけど、ちゃんと検査してもらった方がい……」
「一つ伺っていいですか」
清風さんは窓の外を見たまま、わたしの言葉を遮った
「なぜここがわかったんですか」
「葵さんに教えてもらったんです」
その名前を口にした瞬間、清風さんの視線がすっとこちらに向いた。 ドキッとして、思わず目をそらす。
「どういうことですか?」
「電話があったんです。昨日、あなたが眠っている間に。 勝手に出るのもどうかとは思ったんですけど……ああいう状況だったので、出させてもらいました」
清風さんは何も言わない。
「それでわたし、頼まれたんです。葵さんから。 あなたのサポートをしてほしいって。 他に誰も頼れる人がいないからって」
ずっと無表情だった清風さんの顔に、ほんのわずか、動揺が走ったように見えた。
「どうしても仕事があってすぐには来られないけど、来られるようになったらすぐに来るって言ってました。 だから、それまで……」
「そうですか。でももうけっこうです。ご覧のとおり、僕はもう大丈夫ですから」
「でも……」
清風さんは突然窓辺を離れ、部屋の外へ出ていった。 が、驚いている間にすぐ戻ってきた。手には財布を持っている。
「失礼は承知の上ですが、封筒も何もないものでお許しください」
そう言って、わたしの前のテーブルに一万円札を何枚も置いた。 ざっと二十枚以上はありそうだ。
「……何ですかこれ」
「助けていただいたお礼です。申し訳ないが、今は手持ちがそれしかないんです」
「こんなのいただけません。そんなつもりじゃありません」
「どんなつもりでもいいから、それを持って帰ってもらえませんか」
耳を疑った。 なんて言い草だろう。
「しっ、失礼じゃないですか? うちのマスターとか、高校生の男の子とか、おじいさんとか…… みんなあなたのことを心配して助けたんですよ? あの人たちがいなかったら、あなた今頃死んでたかもしれないんですよ!?」
「僕は助けてなんて頼んでない」
思わず彼を睨みつけた。 清風さんは涼しい顔で、目を合わせようともしない。
わたしはわなわなと立ち上がった。
「後悔しています。あなたのことを、少しでも心配したこと」
そう吐き捨て、部屋を出た。