やさしい風の吹く街で~謎の美青年、海に落ちる~
さっさとここから消えたいのに、全身が怒りに震えているからかスムーズに靴が履けない。

もたもたしていると、 奥でドタッ、と大きな音がした。

思わず動きが止まる。 今の音……人が倒れた音?

まさか、また?

……でも知らない。関係ない。 助けてなんて頼まれてない。

乱暴に靴を履き、ドアの取っ手に手をかけた。

――だけど。

体を翻し、靴を脱ぎ散らかし、スリッパも履かずに廊下を走った。

少し滑って行き過ぎたあと、開けっぱなしのドアから部屋に入ると、 テーブルの脇に清風さんが倒れていた。

「清風さん!! 清風さん!! しっかりしてください!! 今救急車呼びますから!!」

バッグの中をまさぐり、スマホを取り出す。 そしてまさかの二日連続での119番を押そうとしたとき、清風さんが倒れたままわたしの腕を掴んだ。

「大丈夫だから……」

か細い声だった。

「大丈夫なわけないでしょう!? あなたは頼んでないかもしれないけど、わたしは“人を見殺しにした人間”にはなりたくないの!! 死ぬんなら病院に行ってから死んで!!」

清風さんは腕を掴む手に力を込めた。

「大丈夫。本当に。僕は病気じゃない。頼むから、やめてくれ」

「病気じゃないのになんで毎日毎日ぶっ倒れるの!? 大丈夫なわけないじゃない!」

清風さんは手を離し、ゆっくりと体を起こした。 そして立ち上がろうとした瞬間またふらついて、しゃがんでいたわたしに倒れかかってきた。

「きゃーーーっ!!」

押し倒されるような形で覆いかぶさった体を跳ねのけ、這うようにして逃げた。 息が荒くなる。

少し離れたところで振り返ると、清風さんは仰向けに転がって、目を閉じたまま動かない。

倒れるふりをして襲おうとしたのかと思ったけれど……違う。 たぶん本当に限界なんだ。

でもいつまた急に起き上がるかわからない。 そのまま様子をうかがった。

「ねえ」

返事はない。

「ねえっ」

すると、目を閉じたまま、弱々しく手で“しっしっ”と追い払う仕草をした。

……何なのこの人。

このまま置いて帰るわけにはいかない。 でも救急車を呼んだら絶対怒る。 でもこのままじゃ不安すぎる。

「あの、お水でも飲みます?」

返事はなかったけれど、 わたしは清風さんから目を離さないように遠回りしながら、水を取りにキッチンへ向かった。

応接間の隣がダイニングで、その向こうがキッチンだった。

でーんと広いアイランドキッチンの上には、空のワインボトルとグラス、空のミネラルウォーターのペットボトルがいくつか、そして白い紙袋が置いてあった。 病院の薬の袋だった。 ……病気じゃないって言ったのに。

冷蔵庫を開けると、中には500ミリの水のペットボトルが一本だけ入っていた。

応接間に戻り、警戒しながらそっと清風さんに近づく。 ゆっくりとそばにしゃがみ込み、冷蔵庫から持ってきたペットボトルを顔の真上にかざした。

「飲みます?」

清風さんはゆっくり目を開けた。

「病気じゃないなんて嘘じゃないですか。キッチンに病院の薬が置いてありました」

「あれは睡眠薬だよ」

「睡眠薬?」

「近頃よく眠れないんだ」

昨日意識を失ったのはそのせいなんだろうか。 尋ねると、清風さんは軽くうなずいた。

「もしかして、ワインと一緒に飲んだんですか?」

今度はうなずかなかったけれど、絶対そうだ。

「今日も飲んだんですか? 睡眠薬」

清風さんはわずかに横に首を振った。

「じゃあ、どうして倒れちゃったんですか?」

うつろな目で天井を見つめている。

「急に、目まいがして……」

だから。 健康な人は急に目まいがしたりしない。

「おそらく……何にも……」

「ん?」

「しばらく……何も食べてないから……」

「は?」

まさか、お腹が空いて倒れたってこと!?

「食べてないって、いつから食べてないんですか?」

「多分……おとといの……昼……くらい……」

「おとといの昼!? 病院でも何にも食べてないの?」

「目が覚めたらすぐに帰ってきたから……」

「もしかして、ずっと薬とワインだけ飲んでたんですか?」

「食欲がないんだ……」

呆れて、思わずため息が出た。

「そんなんじゃいずれ本当に病気になります。そして死にます。 とにかく、わたし何か食べるもの買ってきますから。頼まれてないけど“人を見殺しにした人間”にはなりたくないから。 とりあえず、こっちに移動しましょう」

わたしはソファをぽんぽんと叩いた。

「ここでいい。冷たくて気持ちいいんだ……」

……ダメだこりゃ。

「じゃあ水、ここに置いときますよ」

ペットボトルを顔の横に置いて立ち上がる。

「わたしが戻って来るまで絶対に死なないでくださいよ」


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