私だけに優しい、殺人鬼
第12話『夜の水族館』【2】
非通知着信を受けた月のスマートフォンは、なおも震え続けている。
九条は小さく息を吐いた。
「出る?」
「……出ます」
無視しても、またかかってくるだろう。今までそうだったように。
月は通路の端へと移動し、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『神倉さんさぁ。今どこにいる?』
軽薄な声が、馴れ馴れしく語りかけてくる。
スマホから聞こえてきたのは案の定、高瀬の声だった。
月は嫌悪を感じ、眉を寄せた。
「答える義務はありません」
『冷たいなぁ』
高瀬の声は楽しげだった。
『……まぁ、知ってるんだけどね。水族館にいるんだろ?』
月の心臓が冷たく跳ねた。思わず周囲の様子を見る。
青い光に照らされた薄暗い通路では、カップルも、家族連れも、影に溶け込む人影のようで、高瀬がこの場にいたとしても誰なのか判別がつかない。
『そんなに警戒しなくても大丈夫だって』
電話の向こうで笑い声がした。
『っていうか、神倉さんも人が悪いなぁ。九条先生のこと、知らないって言ってたけど。実際は仲良いよね、水族館でデートしてるくらいだし。めちゃくちゃ知ってるじゃんっていう』
芝居がかったテンションでツッコミを入れてから、高瀬は普段どおりの口調に戻る。
『……それとも、知らないっていうのは、そういう意味じゃなかったんですかねぇ?』
月は何も言わなかった。
高瀬の声は、奇妙な熱を帯びつつあった。
『っていうか、神倉さんってさ。九条先生のこと、どこまで知ってます?』
月は答えなかった。いや、答えられなかった。
その答えを自分自身が知りたいくらいなのだから。
月の沈黙をどのように捉えたのか。高瀬は勝手に納得し、一人で話を進め始める。
『知らないか。……まあ、当然だよね。俺も最近気付いたばかりだし』
「何にですか?」
『さあね。それを教えたら動画にならないだろ』
せせら笑うような高瀬の声。月は無意識に拳を握った。
この男は本当に、他人の人生も恐怖も全て、コンテンツにしか思っていない。
月の怒りをよそに、高瀬は得意げにまくし立てる。
『まぁ、俺は動画配信者なんでね。気付いたことを誰か一人だけに教えるっていうのは信条に反するんだよねぇ。誰かに伝えたいことがあれば、動画にまとめてみんなに公開するっていうのが俺のやり方っていうか。そういうわけなんで。今後の更新を楽しみにしててくださいよ。じゃ』
高瀬は言いたいことを言い終えると、返事も待たずに通話を切った。
月はしばらくスマートフォンを見つめていた。
通話終了の無機質な文字。指先が冷たい。
しかしこちらに近づく九条の気配を感じると、月はすぐに顔を上げ、彼の方を見た。
「神倉さん、大丈夫?」
九条の表情は穏やかだった。
だが、その目は静かに冷えていた。
「電話は高瀬さんからでした。私たちが水族館にいることを知られています」
「そうか。他には何か?」
「先生のことを調べているみたいです。気付いたことがあるとか……」
「それは困ったな」
九条は少しだけ笑った。
彼の浮かべた表情は、本気で困っているというより、何かを確認したときのような、したたかなものだった。
巨大な水槽に囲まれた青い通路を抜け、二人はイルカショーの会場に入る。
緩やかな傾斜を描く観客席は、既に多くの観客で埋まっていた。中央には巨大なプールが広がり、その水面は照明を反射して青く揺れている。
今夜はクリスマス特別公演とのことで、会場はリースやガーランドで飾り立てられていた。プールの周囲には赤や緑のイルミネーションが輝き、色鮮やかな光が水面に映り込んでいる。天井近くには大きな雪の結晶を模した装飾が吊るされ、まるで海の中に冬の夜空が広がっているかのようだった。
館内に流れる音楽は、少し大きい。
それでも観客たちの話し声や笑い声は消えなかった。
月は周囲を見回した。家族連れもいるが、目立つのは恋人同士だった。肩を寄せ合う男女。腕を組むカップル。スマートフォンで写真を撮り合う若い二人組。どこを見てもそんな光景ばかりだった。
──先生と私、浮いてる。帰りたい。
しかし九条はまったく気にする素振(そぶ)りも見せず、空いている席に腰を下ろした。月も仕方なく隣に座る。
会場の照明が落ちると、歓声が上がった。ショーの開始を告げるアナウンスが流れる。鈴の音を思わせる軽快なクリスマスソングが響く。サンタ服を着たトレーナーがプールサイドに現れて、観客席に向かって大きく手を振った。拍手が巻き起こる。次の瞬間、水面が弾けた。
一頭のイルカが高く跳び上がる。銀色の身体がスポットライトを浴びた。続いて二頭、三頭。次々と空中へ舞い上がる。着水のたびに飛沫が散る。水しぶきは光を受けて宝石のようにきらめいた。赤や緑の照明が飛沫に反射して、まるで無数のクリスマスオーナメントが宙に撒き散らされたかのよう。
子供たちの歓声が響く。月は思わず見入っていた。美しい。どの動きも正確で、無駄がない。タイミングも揃っている。それはどこかフィギュアスケートの競技演技に似ていた。リンクの上で見た光景を思い出す。ジャンプ、ステップ、スピン、観客の拍手と歓声。演技そのものは華やかだ。だが、その裏にあるものを月は知っている。何百回もの反復、転倒、怪我、痛み、努力。そういうものを見せないから、美しいと感じるのだろう。
そこに思い至ったとき、月は自分がイルカショーに抵抗を感じた理由に気付いた。裏を想像すると、純粋に楽しめない。自分の知っている舞台裏を思い出してしまうから。その記憶は、痛みを伴う。誰とも共有したくない──
「神倉さん」
九条が小声で言った。
「何ですか?」
「ちょっと失礼」
言葉の意味を理解する前に、何かが肩に触れる。
温かい、と思ってから、それが何なのかに気付く。
九条の腕だった。九条は月の肩を軽く抱き寄せていた。
自然な動作だった。まるで最初から恋人同士だったかのように。
月の心臓が大きく跳ねた。
「先生」
声が震え、上ずった。しかし九条は前を向いたまま。特別なことなど何もしていないかのような顔で言う。
「ここはデートスポットだからね。カップルに見えた方が自然だ」
「意味が分かりません」
「ここではよそよそしい方が浮く。高瀬が近くにいるなら、目につきやすい」
月は軽く唇を噛む。
九条の言うとおりだった。この会場に入った時、自分たち二人は浮いていると確かに思った。九条の言葉は、理屈としては通っている。しかし月は思う──絶対に口実だ。
とはいえ、月には九条の腕を振り払うことはできなかった。
強く抱かれているわけではない。逃げようと思えば逃げられる。でも、ここで振り払えば、この場で浮くようなことをすれば、高瀬に見つかりかねないから──そう自分に言い訳する。
プールの中央でイルカが高く跳び上がった。飛沫がスポットライトにきらめく。歓声。拍手。観客席全体が沸き上がる。その喧騒の中で、九条が静かに言った。
「高瀬はね」
月は前を向いたまま耳を傾ける。
「見つけたものを誰かに見せたくなるという性質の持ち主だ」
「……」
「だから何か掴んだなら、近いうちに動くだろう」
月の脳裏に高瀬の顔がよぎる。
あの男は確かにそういう人間だった。自分だけが知っているということに耐えられない。誰かに見せて、広めて、騒ぎにする。それが存在理由のような人間だった。
イルカショーは終盤に入っていた。
会場の照明が暗くなる。わずかに残った青白い光の中、人工の雪を模した細かな泡が天井から舞い降りた。
クリスマスソングが盛り上がりを迎える。四頭のイルカが同時に加速する。滑るように水面を切り裂き、そして一斉に跳躍した。宙を舞う大量の飛沫が、青白いライトに照らされて、無数の光の粒へと変わる。まるで聖夜の星屑が降り注いだかのようだった。観客席から大歓声が上がる。
その光景を見つめながら、月はまったく別のことを考えていた。
高瀬。病院。九条。気にすべきことが山ほどある。
それなのに、今は肩越しに伝わる体温だけが気になっていた。
九条は小さく息を吐いた。
「出る?」
「……出ます」
無視しても、またかかってくるだろう。今までそうだったように。
月は通路の端へと移動し、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『神倉さんさぁ。今どこにいる?』
軽薄な声が、馴れ馴れしく語りかけてくる。
スマホから聞こえてきたのは案の定、高瀬の声だった。
月は嫌悪を感じ、眉を寄せた。
「答える義務はありません」
『冷たいなぁ』
高瀬の声は楽しげだった。
『……まぁ、知ってるんだけどね。水族館にいるんだろ?』
月の心臓が冷たく跳ねた。思わず周囲の様子を見る。
青い光に照らされた薄暗い通路では、カップルも、家族連れも、影に溶け込む人影のようで、高瀬がこの場にいたとしても誰なのか判別がつかない。
『そんなに警戒しなくても大丈夫だって』
電話の向こうで笑い声がした。
『っていうか、神倉さんも人が悪いなぁ。九条先生のこと、知らないって言ってたけど。実際は仲良いよね、水族館でデートしてるくらいだし。めちゃくちゃ知ってるじゃんっていう』
芝居がかったテンションでツッコミを入れてから、高瀬は普段どおりの口調に戻る。
『……それとも、知らないっていうのは、そういう意味じゃなかったんですかねぇ?』
月は何も言わなかった。
高瀬の声は、奇妙な熱を帯びつつあった。
『っていうか、神倉さんってさ。九条先生のこと、どこまで知ってます?』
月は答えなかった。いや、答えられなかった。
その答えを自分自身が知りたいくらいなのだから。
月の沈黙をどのように捉えたのか。高瀬は勝手に納得し、一人で話を進め始める。
『知らないか。……まあ、当然だよね。俺も最近気付いたばかりだし』
「何にですか?」
『さあね。それを教えたら動画にならないだろ』
せせら笑うような高瀬の声。月は無意識に拳を握った。
この男は本当に、他人の人生も恐怖も全て、コンテンツにしか思っていない。
月の怒りをよそに、高瀬は得意げにまくし立てる。
『まぁ、俺は動画配信者なんでね。気付いたことを誰か一人だけに教えるっていうのは信条に反するんだよねぇ。誰かに伝えたいことがあれば、動画にまとめてみんなに公開するっていうのが俺のやり方っていうか。そういうわけなんで。今後の更新を楽しみにしててくださいよ。じゃ』
高瀬は言いたいことを言い終えると、返事も待たずに通話を切った。
月はしばらくスマートフォンを見つめていた。
通話終了の無機質な文字。指先が冷たい。
しかしこちらに近づく九条の気配を感じると、月はすぐに顔を上げ、彼の方を見た。
「神倉さん、大丈夫?」
九条の表情は穏やかだった。
だが、その目は静かに冷えていた。
「電話は高瀬さんからでした。私たちが水族館にいることを知られています」
「そうか。他には何か?」
「先生のことを調べているみたいです。気付いたことがあるとか……」
「それは困ったな」
九条は少しだけ笑った。
彼の浮かべた表情は、本気で困っているというより、何かを確認したときのような、したたかなものだった。
巨大な水槽に囲まれた青い通路を抜け、二人はイルカショーの会場に入る。
緩やかな傾斜を描く観客席は、既に多くの観客で埋まっていた。中央には巨大なプールが広がり、その水面は照明を反射して青く揺れている。
今夜はクリスマス特別公演とのことで、会場はリースやガーランドで飾り立てられていた。プールの周囲には赤や緑のイルミネーションが輝き、色鮮やかな光が水面に映り込んでいる。天井近くには大きな雪の結晶を模した装飾が吊るされ、まるで海の中に冬の夜空が広がっているかのようだった。
館内に流れる音楽は、少し大きい。
それでも観客たちの話し声や笑い声は消えなかった。
月は周囲を見回した。家族連れもいるが、目立つのは恋人同士だった。肩を寄せ合う男女。腕を組むカップル。スマートフォンで写真を撮り合う若い二人組。どこを見てもそんな光景ばかりだった。
──先生と私、浮いてる。帰りたい。
しかし九条はまったく気にする素振(そぶ)りも見せず、空いている席に腰を下ろした。月も仕方なく隣に座る。
会場の照明が落ちると、歓声が上がった。ショーの開始を告げるアナウンスが流れる。鈴の音を思わせる軽快なクリスマスソングが響く。サンタ服を着たトレーナーがプールサイドに現れて、観客席に向かって大きく手を振った。拍手が巻き起こる。次の瞬間、水面が弾けた。
一頭のイルカが高く跳び上がる。銀色の身体がスポットライトを浴びた。続いて二頭、三頭。次々と空中へ舞い上がる。着水のたびに飛沫が散る。水しぶきは光を受けて宝石のようにきらめいた。赤や緑の照明が飛沫に反射して、まるで無数のクリスマスオーナメントが宙に撒き散らされたかのよう。
子供たちの歓声が響く。月は思わず見入っていた。美しい。どの動きも正確で、無駄がない。タイミングも揃っている。それはどこかフィギュアスケートの競技演技に似ていた。リンクの上で見た光景を思い出す。ジャンプ、ステップ、スピン、観客の拍手と歓声。演技そのものは華やかだ。だが、その裏にあるものを月は知っている。何百回もの反復、転倒、怪我、痛み、努力。そういうものを見せないから、美しいと感じるのだろう。
そこに思い至ったとき、月は自分がイルカショーに抵抗を感じた理由に気付いた。裏を想像すると、純粋に楽しめない。自分の知っている舞台裏を思い出してしまうから。その記憶は、痛みを伴う。誰とも共有したくない──
「神倉さん」
九条が小声で言った。
「何ですか?」
「ちょっと失礼」
言葉の意味を理解する前に、何かが肩に触れる。
温かい、と思ってから、それが何なのかに気付く。
九条の腕だった。九条は月の肩を軽く抱き寄せていた。
自然な動作だった。まるで最初から恋人同士だったかのように。
月の心臓が大きく跳ねた。
「先生」
声が震え、上ずった。しかし九条は前を向いたまま。特別なことなど何もしていないかのような顔で言う。
「ここはデートスポットだからね。カップルに見えた方が自然だ」
「意味が分かりません」
「ここではよそよそしい方が浮く。高瀬が近くにいるなら、目につきやすい」
月は軽く唇を噛む。
九条の言うとおりだった。この会場に入った時、自分たち二人は浮いていると確かに思った。九条の言葉は、理屈としては通っている。しかし月は思う──絶対に口実だ。
とはいえ、月には九条の腕を振り払うことはできなかった。
強く抱かれているわけではない。逃げようと思えば逃げられる。でも、ここで振り払えば、この場で浮くようなことをすれば、高瀬に見つかりかねないから──そう自分に言い訳する。
プールの中央でイルカが高く跳び上がった。飛沫がスポットライトにきらめく。歓声。拍手。観客席全体が沸き上がる。その喧騒の中で、九条が静かに言った。
「高瀬はね」
月は前を向いたまま耳を傾ける。
「見つけたものを誰かに見せたくなるという性質の持ち主だ」
「……」
「だから何か掴んだなら、近いうちに動くだろう」
月の脳裏に高瀬の顔がよぎる。
あの男は確かにそういう人間だった。自分だけが知っているということに耐えられない。誰かに見せて、広めて、騒ぎにする。それが存在理由のような人間だった。
イルカショーは終盤に入っていた。
会場の照明が暗くなる。わずかに残った青白い光の中、人工の雪を模した細かな泡が天井から舞い降りた。
クリスマスソングが盛り上がりを迎える。四頭のイルカが同時に加速する。滑るように水面を切り裂き、そして一斉に跳躍した。宙を舞う大量の飛沫が、青白いライトに照らされて、無数の光の粒へと変わる。まるで聖夜の星屑が降り注いだかのようだった。観客席から大歓声が上がる。
その光景を見つめながら、月はまったく別のことを考えていた。
高瀬。病院。九条。気にすべきことが山ほどある。
それなのに、今は肩越しに伝わる体温だけが気になっていた。