私だけに優しい、殺人鬼

第11話『夜の水族館』【1】

 約束の日は、驚くほどあっさりと訪れた。
 深夜勤明けを挟んだ休日。その日、神倉月(かぐらつき)は昼過ぎまで眠り、目覚めた後もしばらくはベッドの上で天井を見ていた。

 どうしてこんなことになったのだろう。
 九条零(くじょうれい)と水族館に行く。どう考えてもデートだった。

 断る機会なら何度もあった。なのに断り切れなかった。自分でもよく分からない。九条を疑っているからかも知れないし、彼のことをもっと知りたいと思っているからかも知れない。あるいは──そこまで考えて、月は思考を打ち切った。
 鏡を見ながら、普段より少しだけ丁寧に髪を整え、買ったばかりのクリスマスコフレを使う。病院に行くときには使わないような、高価で華やかな化粧品をこの日のために購入した。その事実に気付いて、少し嫌になる。

「……何やってるんだろう」

 ため息と共に、独り言が漏れた。
 約束の時間は午後六時。待ち合わせ場所は東雲マリンアクアリウム。海沿いの大型水族館で、期間限定のナイトアクアリウムを開催している。館内照明を落とし、幻想的な演出を施した人気イベントだと聞いた。病院の看護師たちも話題にしていたような気がする。

 月が水族館へ到着すると、既に九条が入口付近に立っていた。
 私服姿の九条は今日も前髪を下ろしていた。群青色のシャツの上に、黒いロングコートを着ている。上質な布地のシャツには幾何学的な柄が入っていて、病院で見る濃紺のスクラブ姿とは印象が異なる。彼の立ち姿は妙に様になっており、周囲の女性客がちらちらと視線を向けていた。

「こんばんは」

 九条が手を上げる。

「こんばんは」
「来てくれて嬉しいよ」
「断り切れなかっただけです」
「そういうことにしておくよ」

 腹立たしいくらいに九条は楽しそうだった。
 二人で入館ゲートを通る。館内は薄暗く、深海を思わせる群青の光が満ちていた。巨大な水槽からこぼれる青は床を流れ、壁を撫で、まるで水そのものが建物の中を漂っているかのようだった。魚たちが向きを変えるたびに銀色の鱗が淡く瞬き、その光が水面に砕けて天井へと映る。
 海の底を歩いているような気分になる場所だった。
 周りを見ると、子供連れは少なく、代わりにカップルが多い。
 その事実に気付いた瞬間、月は少し後悔した。

「先生、騙しましたね」
「何を?」
「ここ、デートスポットじゃないですか」

 九条が笑う。

「知ってた」
「最悪です」
「でも帰らないでしょう?」

 月は返事をしなかった。図星だった。巨大なメイン水槽の前で足が止まる。何十万リットルもの海水をたたえた水槽が視界いっぱいに広がり、厚いアクリルガラスの向こうでは無数の魚たちがゆるやかな流れに身を任せていた。
 銀色の群れが照明を反射し、星空のように煌めく。
 綺麗だった。静かで、幻想的で、病院とは別世界だった。

「好き?」

 九条に問われて、月の心臓が跳ねた。
 慌てて九条の顔を見て、すぐに目をそらす。
 九条は月のそんな反応を確認すると、楽しげに笑って付け加えた。

「こういう場所」
「……嫌いじゃないです」
「それは良かった」

 しばらく二人は並んで魚を眺めた。
 言葉はなかった。だが不思議と気まずくない。魚たちはゆっくりと群れをなし、青く揺れる光の中を滑るように泳いでいる。静まり返った館内には、水のうねる微かな音と足音だけが響いている。時間の流れまで緩やかになったかのようだ。ずっとここにいたい。そんなことを思いかけて、月はふと、思い出す。高瀬からの電話。その内容が、あの日以来ずっと胸の奥に引っ掛かっている。九条に言うべきか、迷う。この空気を壊したくない。だからといって隠していても意味がない気がした。

「……先生」
「うん?」
「少し前に、高瀬さんから電話がありました」

 九条の表情は変わらなかった。
 ただ視線だけが魚の群れから月へと移る。

「電話?」
「はい」
「どんな内容?」

 月は高瀬とのやり取りを説明した。
 非通知だったこと。携帯番号だけでなく自分の本名も知っていたこと。病院内に協力者がいると言っていたこと。そして──

「先生について聞かれました」

 月はちらりと九条を見た。
 九条は静かに聞いており、口を挟もうとはしなかった。

「高瀬さんは、先生にもう会ったと言っていました」
「会ったよ」

 九条はあっさりと認めた。
 月は少し驚いた。

「否定しないんですね」
「事実だからね」

 九条は苦笑しながら続ける。

「面倒な相手だった」
「何を話したんですか?」
「色々とね」
「答えになってません」
「答える気もあまりない」

 そう言って肩を竦める九条に、月は不満そうに眉を寄せた。
 そんな月の様子を見て、九条が付け加える。

「でも安心して。君の電話番号は教えてない」

 その言葉を聞いたとき、月は自分の心身から力が僅かに抜けるのを感じた。
 自分でも気付かないうちに気にしていたらしい。

「そう。それなら良かったです」
「疑ってた?」
「少しだけですが」
「ひどいな」

 九条は笑う。言葉とは裏腹に、怒っている様子はない。
 巨大水槽の青い光が彼の横顔を照らしている。
 その表情を見ながら、月は思う。
 この人は本当に何を考えているのだろう。どんなときも彼は本心を見せない。自分に疑いが向いていることに気付いたであろうときも、焦りも怒りも見せず、平然としていた。高瀬のような相手とも冷静に渡り合えるのだろう。しかし彼が高瀬とどんな話をしているのか、月には想像がつかなかった。
 水槽の向こうを、大きなエイがゆっくりと横切っていく。青い光の中で、その影は空を飛ぶ鳥のように見える。月は知らず知らずのうちに、その姿を目で追っていた。そして九条もまた、同じ方向を見ていた。
 巨大水槽を離れた後も、二人はゆっくりと館内を歩いた。通路は薄暗く、壁面水槽の中では色鮮やかな熱帯魚が泳いでいる。青や黄色、赤。ありふれた色のはずなのに、病院で見る色とは違う。それは生命維持装置のランプやモニター画面ではなく、生き物そのものが放つ色彩だった。

「先生はよく水族館に来るんですか?」
「いや。十年ぶりくらいかな」
「意外です」
「そう?」
「もっと頻繁に来てるのかと思った」
「どうして?」
「デートのために」

 九条が吹き出した。

「俺を何だと思ってるの」
「いろんな相手を誘ってる人」
「ひどい評価だな」

 彼はそう言いながら、むしろ楽しんでいるようだった。
 月は少しだけ警戒心を強める。何を考えているのか、以前に、どういう人なのかすら分からない。二人はクラゲの展示エリアへ入った。天井も壁も暗い。照明を受けたクラゲたちだけが、白く、青く、ゆっくりと脈動しながら、ぼんやりと浮かんでいる。
 まるで別の世界の生き物のようだった。月は足を止め、しばらく見入っていた。

「好きなの?」

 九条が訊く。

「分かりません」

 月は正直に答えた。

「綺麗だとは思います」
「神倉さんらしい感想だね」
「どういう意味ですか」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、まず観察するところが」

 月は反論しようとした──私にも好き嫌いはあります──しかし、できなかった。九条の言う通りだったからだ。
 昔からそうだった。人も、動物も、物事も。理解できないものがあれば、まず観察する。すると直感的な理解を得られる。好き嫌いとはまた違う、言葉にならない違和感や納得。だからこそ、フィギュアスケートのコーチの墨図義己(すみずよしき)の異常に気付いた。だからこそ──

「先生は……」

 月はクラゲを見つめたまま言う。

「高瀬さんをどうするつもりなんですか?」

 九条は笑って答えた。

「どうもしないよ」
「本当に?」
「本当に」

 九条の言葉には迷いがなかった。
 しかし月には納得できない。観覧車の中で見せた表情。高瀬について語るときの声音。それらを思い出すと、九条は高瀬を嫌っている、それは間違いないと思える。
 だが、嫌悪だけでは説明できない感情が混じっているような気がした。
 月自身も似たような感情を抱いているからかも知れない。
 高瀬を殺したい。そう思うほど高瀬が憎い。
 しかし同時に、高瀬の存在そのものに興味を惹かれている。
 人の死を娯楽にする男。人の人生をコンテンツとして消費する男。そんな人間がどういう結末を迎えるのか、見てみたいという気持ちがある。できることならその結末は自分の手で与えたい。だから、殺したい。もしも高瀬のアンチが死に絶え、高瀬本人が人々に愛され、何不自由なく天寿をまっとうするのだとしたら、そのような結末は自分の見たいものではない。高瀬の迎えるべき結末、その答えはすでに自分の中に存在するのだ。
 そこまで自覚して、月はふと気付く。
 自分は高瀬を見下している。だが見下しながら観察している。
 それは高瀬が他人にしていることに少し似ている。
 高瀬に対する憎悪には、同族嫌悪が含まれているのだろう。嫌な気分になる。自分と高瀬の共通点は、他人の死を利用する、という一点だけでは済まないようだ。

「……あまり考えすぎないことだね」

 九条が言った。

「確かに、高瀬は危険だ。自分が何をしているのかを理解していないところが特にね。でも、だからと言って、どうにかしようとは思わない」
「どうしてですか?」
「高瀬のことで頭の中がいっぱいになるなんて嫌だからね」

 九条が軽く笑う。月もつられて笑った。
 その時、館内放送が流れた。イルカショーの開始を告げるアナウンスだった。
 九条が腕時計を見る。

「まだ間に合うな。……神倉さん、イルカショーは興味ある?」
「ありません」
「じゃあ、行こう」
「興味ないって言いました」
「うん、聞いてた。神倉さんが興味を持てない理由に興味があるんだ」

 九条は楽しそうにショー会場へと向かう。
 月は呆れながらも、九条の隣を歩いていた。
 自分でも不思議だった。彼のことを警戒している。彼のことを疑っている。それなのに、一緒にいることを苦痛だとは感じない。むしろ、少しだけ安心する。
 不意に、月の鞄の中でスマートフォンが震え出した。着信だった。
 月は電話を無視した。結局のところ、九条と過ごすこの時間よりも優先しなければならない相手など、自分にはいないのだと気付く。
 しかし相手は諦めない。着信が止まったかと思うと、またすぐに震え出す。
 月はふと、高瀬から電話があったあの日のことを思い出す。着信のリズムがあのときと似ているような気がした。鞄から電話を取り出すと、案の定、非通知着信だった。嫌な予感がする。
 九条が立ち止まり、月を見た。

「……高瀬から?」

 月は九条を見上げただけで、何も答えなかった。
 しかし九条にはその表情だけで充分伝わったようだった。
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