私だけに優しい、殺人鬼
第9話『見つからないまま』
『──あ、やっと繋がった。神倉月(かぐらつき)さんですよね。東雲(しののめ)総合医療センターの九条零(くじょうれい)先生について、お話を伺いたいんですが』
スマートフォンのスピーカーから聞き覚えのある声が聞こえてきた。動画配信者のタカセ探偵局こと、高瀬蒼介(たかせそうすけ)。全身の血の気が引く。何故、高瀬が自分の本名と電話番号を知っているのだろう。
「……どなたですか?」
月は他人のふりをして相手の出方を探ろうとした。
しかし──
『タカセ探偵局です。事後承諾になりましたが、神倉さんの映像を動画で使わせていただきまして。そのお礼も兼ねまして、こうしてお電話差し上げたんですが』
「迷惑です。勝手に動画に出さないでください。それ以前に、撮影許可も出してませんよね」
『いやでも、お陰様で動画の方も大評判でしてね』
「そういう問題じゃありません」
『綺麗な人に出ていただいてね、視聴者も盛り上がってますよ』
「電話番号を教えた覚えもありませんし」
電話の向こうで高瀬が忍び笑いを漏らした。
『それがですねぇ。協力者がいるんですよ。東雲総合医療センターに』
「誰ですか?」
『それは教えられません。こう見えてもね、協力者のプライバシーは守る主義なんですよ。そうじゃないと取材に協力してもらえませんからね』
無断で撮影した動画を使っておいて、よく言う。月は呆れ、苛立ったが、不安の元はそこではなかった。月にはプライベートで連絡を取り合うような同僚はいない。携帯番号を知っている病院関係者は九条だけだ。
それでは九条が自分の連絡先を高瀬に教えたのだろうか。そうは思いたくないし、観覧車や車の中での様子から考えても彼が教えたとは思えない。しかし高瀬が九条についてどこまで把握しているのかは、気になって仕方がない。
「九条先生という人から聞いたんですか、この番号」
『やっぱり気になるんだ』
「知らない人に電話番号を横流しされるのはいい気がしません」
『知らない人ねぇ。聞いてた話と食い違うなぁ』
しばらくの沈黙。
月は何も言わなかった。病院の外で九条と会ったことを知っているのは、本人だけだ。ならば彼が話したのだろうか。しかし高瀬にわざわざ話す理由が見えないし、高瀬のブラフの可能性もある。月は高瀬の出方を窺う。
『一つだけ種明かししますとね。九条先生ではないですね、電話番号を教えてくれたのは。まあでも……』
高瀬は一呼吸置いてから続けた。
『九条先生には、もう会いましたよ。いいネタをいただきました』
電話の向こうで、高瀬が笑う。それは成果の報告ではなかった。相手を試し、その反応を面白がっている笑いだった。俺を見ろ。俺を見ろ。ゼロからプラスに進化する俺を見ろ、餌どもが。
『……だから神倉さんも協力してください。返事は今すぐじゃなくていいので。病院にもまた伺いますから、その時にでも』
言いたいことを言い終えると、高瀬は通話を切った。
月は思い出したように暗い部屋に電気をつけた。
◇
休日を挟み、日勤が入る。その次は準夜勤だ。月の精神状態は、おおむね回復していた。いつもより早いのは、高瀬に対する怒りと敵意が支えになっていたのかも知れない。
月は病院の端末から、患者データベースの検索を続けた。
四人目が見つかったのは、翌日のことだった。
元医療安全委員会委員、死亡。
そこで初めて月は別の検索方法を試した。
役職。経歴。所属歴。病院名。
すると、死亡した患者の共通点が浮かび上がる。彼らは皆、八年前の医療事故の時点で東雲総合医療センターの要職に就いていた。つまり医療事故の隠蔽疑惑が事実だとすれば、隠蔽に関与した者、という形になる。
月の背筋を冷たいものが這い上る。
──まさか、そんなはずは……。
画面を見ながら、もう一度確認する。
死亡した患者の一人は、当時の医療安全委員会メンバー。もう一人は、事故後の内部調査担当者。さらにもう一人は、当時の事務部門責任者。
偶然。ただの偶然だ。期待するから怪しく見える。そう自分に言い聞かせる。
しかし、月は気付いてしまった。九条が東雲総合医療センターに赴任した後、医療事故の詳細を知っていたであろう者たちが少しずつ死んでいる。もちろん全員が九条の患者ではない。だが、彼の担当患者の中に含まれている割合が高い。これは動かしようのない事実だ。
月は端末から目を離した。ナースステーションでは誰かが電話対応をしている。プリンターが動き、看護師たちが行き交っている。いつも通りの病院の中で、自分だけが別の場所にいるような気分だった。
──もし、仮に。
──九条が患者を選んでいるとしたら。
──八年前の事件に関係する人間を、意図的に……。
その考えが浮かんだ瞬間、月は自分を否定した。
馬鹿らしい。証拠がない。数字だけだ。しかも膨大な患者の中のごく一部に過ぎないほどの、些細なもの。統計的な偏りかも知れない。単なる偶然かも知れない。そうだ。偶然だ。
そう考え、思考を断ち切ろうとしても、心のどこかが囁いている。
真壁隆志(まかべたかし)も、最初はこうだったのではないか。薬の数が少し合わない。誰かの様子が普段と違う。それらは『偶然』の一言で説明できる。だが、偶然は積み重なる。少しずつ。少しずつ。そして気付いてしまう。何かがおかしい、と。
月は画面を閉じた。
その瞬間──
「何がおかしいの?」
不意に、背後から声がした。聞き覚えのある声だった。全身の血が凍りつく。ゆっくりと振り返ると、白衣姿の九条が立っていた。片手に缶コーヒーを持ち、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべている。
彼はまるで偶然通りかかっただけのような顔をしていた。
偶然。そう、偶然。月の心臓が激しく脈打つ。
「先生……」
「仕事熱心だね」
九条は端末へと視線を落とす。
月は反射的に画面を閉じた。
だが、遅かった。何を見ていたのか、完全には隠せなかった。
「患者のデータを見ていたのかな?」
九条の声は穏やかで、月を責める様子はない。
しかし月にはそんな態度がかえって怖かった。
「担当患者の確認です」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
九条は少しだけ首を傾げる。
「そう」
それ以上、彼は追及しようとしなかった。
それが逆に月を不安にさせる。
何故、聞かないのだろう。何故、怒らないのだろう。
普通なら、不審に思うはずなのに。
「神倉さん、最近忙しそうだね」
「そうですか?」
「うん」
彼は缶コーヒーを開ける。
ノイズに溢れた病院の中で、プルタブの音がやけに大きく聞こえた。
「何か、調べ物でもしてる?」
月は息を呑んだ。やはり彼は気付いている。当然だ。何日もの間、少しずつ、同じ端末を使って調べている。痕跡が残らないはずがない。
「別に、大したことではないです」
「そう?」
九条は笑う。いつも通りの笑顔だった。優しく、穏やかで、患者から好かれそうな顔。
だからこそ、月は恐ろしくなる。画面の数字が頭から離れない。八年前の医療事故。その関係者たちが、九条の患者として、死亡者として、記録されている。偶然かもしれない。偶然ではないかもしれない。まだ何も分からない。なのに、真壁隆志の名前が脳裏をよぎる。
『薬が合わない』『数字がおかしい』──
あの日、観覧車の中で九条が語った言葉。
まるで、今の自分のことを先回りしていたかのよう。
「先生は──」
気付けば口にしていた。
九条がこちらを見る。
「何?」
「真壁さんから相談されたとき、本当に何も思わなかったんですか?」
九条の表情は変わらない。
だが、彼は一瞬だけ沈黙してから答えた。
「難しい質問だね」
「……」
「思ったよ。何かあるのかも知れないって。でも証拠がなかった」
九条は静かに言ってから、缶コーヒーを一口飲む。
「病院ってそういう場所だからね。違和感があっても説明できる。患者は死ぬし、薬はなくなるし、人は勘違いする」
九条の口調は優しかったが、月の背筋には寒気が走った。
彼のその言葉は正しい。だから怖い。
数字は嘘をつかないが、数字だけでは何も証明できない。
月自身が今まさにそうであるように。
「……神倉さん。人を疑うのは疲れるでしょう」
月には返事ができなかった。
まるで心を読まれたかのようで。
九条は何も気付いていないかのように穏やかに言葉を続ける。
「疑い始めると、何でも怪しく見える」
「……」
「だから気を付けた方がいい」
その言葉が忠告なのか、警告なのか、月には分からなかった。
ナースステーションの電話が鳴る。誰かが走っていく。いつもどおりの日常が今も続いている。その場に凍り付いたように月だけが立ち止まっていた。
九条は空になった缶を軽く振った。
「午後から手術なんだ」
そう言って、九条は立ち上がった。
月も端末を閉じる。このまま終わると思った。
だが、九条は数歩進んだところで足を止め、振り返る。
「そういえば、神倉さん。次の休みはいつ?」
月は一瞬だけ警戒した。
「明日が準夜勤で、その次が深夜勤です」
「その次は?」
「明けです」
「次の日は?」
「休みですけど」
九条が少し笑う。嫌な予感がした。
「よかった」
「何がですか?」
「休みの日、空けておいて」
月は眉をひそめた。
「先生。私の予定を勝手に決めないでください」
「予定、ある?」
「……ありませんけど」
言ってから、少し後悔する。
九条は満足そうだった。
「じゃあ決まりだね」
「だから何がですか」
九条は少しだけ考えるふりをした。
「水族館」
月は思わず聞き返す。
「水族館?」
「夜の水族館」
まるで当然のことのように、九条はさらりと言った。
「期間限定で夜間営業してるらしくてね」
九条はスマートフォンを取り出し、画面を月に見せる。
青く照らされた巨大水槽。暗い館内を泳ぐ魚の群れ。幻想的な写真だった。
「綺麗でしょう」
確かに綺麗だった。だが──
「一人で行ってください」
「嫌だよ。俺は神倉さんと行きたい」
月は言葉に詰まる。
九条はそれ以上は言わずに、ただ楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、また連絡するから」
そう言い残し、今度こそ彼は廊下の向こうへと消える。
その背中を見送りながら、月は先ほど閲覧した患者のデータを思い出す。
もしも。そう、もしも──九条零が自分と同じような殺人鬼だったとしたら。
その考えは恐ろしいはずなのに、何故か胸の奥で、小さな期待にも似た感情が生まれていることに月は気付いていた。
スマートフォンのスピーカーから聞き覚えのある声が聞こえてきた。動画配信者のタカセ探偵局こと、高瀬蒼介(たかせそうすけ)。全身の血の気が引く。何故、高瀬が自分の本名と電話番号を知っているのだろう。
「……どなたですか?」
月は他人のふりをして相手の出方を探ろうとした。
しかし──
『タカセ探偵局です。事後承諾になりましたが、神倉さんの映像を動画で使わせていただきまして。そのお礼も兼ねまして、こうしてお電話差し上げたんですが』
「迷惑です。勝手に動画に出さないでください。それ以前に、撮影許可も出してませんよね」
『いやでも、お陰様で動画の方も大評判でしてね』
「そういう問題じゃありません」
『綺麗な人に出ていただいてね、視聴者も盛り上がってますよ』
「電話番号を教えた覚えもありませんし」
電話の向こうで高瀬が忍び笑いを漏らした。
『それがですねぇ。協力者がいるんですよ。東雲総合医療センターに』
「誰ですか?」
『それは教えられません。こう見えてもね、協力者のプライバシーは守る主義なんですよ。そうじゃないと取材に協力してもらえませんからね』
無断で撮影した動画を使っておいて、よく言う。月は呆れ、苛立ったが、不安の元はそこではなかった。月にはプライベートで連絡を取り合うような同僚はいない。携帯番号を知っている病院関係者は九条だけだ。
それでは九条が自分の連絡先を高瀬に教えたのだろうか。そうは思いたくないし、観覧車や車の中での様子から考えても彼が教えたとは思えない。しかし高瀬が九条についてどこまで把握しているのかは、気になって仕方がない。
「九条先生という人から聞いたんですか、この番号」
『やっぱり気になるんだ』
「知らない人に電話番号を横流しされるのはいい気がしません」
『知らない人ねぇ。聞いてた話と食い違うなぁ』
しばらくの沈黙。
月は何も言わなかった。病院の外で九条と会ったことを知っているのは、本人だけだ。ならば彼が話したのだろうか。しかし高瀬にわざわざ話す理由が見えないし、高瀬のブラフの可能性もある。月は高瀬の出方を窺う。
『一つだけ種明かししますとね。九条先生ではないですね、電話番号を教えてくれたのは。まあでも……』
高瀬は一呼吸置いてから続けた。
『九条先生には、もう会いましたよ。いいネタをいただきました』
電話の向こうで、高瀬が笑う。それは成果の報告ではなかった。相手を試し、その反応を面白がっている笑いだった。俺を見ろ。俺を見ろ。ゼロからプラスに進化する俺を見ろ、餌どもが。
『……だから神倉さんも協力してください。返事は今すぐじゃなくていいので。病院にもまた伺いますから、その時にでも』
言いたいことを言い終えると、高瀬は通話を切った。
月は思い出したように暗い部屋に電気をつけた。
◇
休日を挟み、日勤が入る。その次は準夜勤だ。月の精神状態は、おおむね回復していた。いつもより早いのは、高瀬に対する怒りと敵意が支えになっていたのかも知れない。
月は病院の端末から、患者データベースの検索を続けた。
四人目が見つかったのは、翌日のことだった。
元医療安全委員会委員、死亡。
そこで初めて月は別の検索方法を試した。
役職。経歴。所属歴。病院名。
すると、死亡した患者の共通点が浮かび上がる。彼らは皆、八年前の医療事故の時点で東雲総合医療センターの要職に就いていた。つまり医療事故の隠蔽疑惑が事実だとすれば、隠蔽に関与した者、という形になる。
月の背筋を冷たいものが這い上る。
──まさか、そんなはずは……。
画面を見ながら、もう一度確認する。
死亡した患者の一人は、当時の医療安全委員会メンバー。もう一人は、事故後の内部調査担当者。さらにもう一人は、当時の事務部門責任者。
偶然。ただの偶然だ。期待するから怪しく見える。そう自分に言い聞かせる。
しかし、月は気付いてしまった。九条が東雲総合医療センターに赴任した後、医療事故の詳細を知っていたであろう者たちが少しずつ死んでいる。もちろん全員が九条の患者ではない。だが、彼の担当患者の中に含まれている割合が高い。これは動かしようのない事実だ。
月は端末から目を離した。ナースステーションでは誰かが電話対応をしている。プリンターが動き、看護師たちが行き交っている。いつも通りの病院の中で、自分だけが別の場所にいるような気分だった。
──もし、仮に。
──九条が患者を選んでいるとしたら。
──八年前の事件に関係する人間を、意図的に……。
その考えが浮かんだ瞬間、月は自分を否定した。
馬鹿らしい。証拠がない。数字だけだ。しかも膨大な患者の中のごく一部に過ぎないほどの、些細なもの。統計的な偏りかも知れない。単なる偶然かも知れない。そうだ。偶然だ。
そう考え、思考を断ち切ろうとしても、心のどこかが囁いている。
真壁隆志(まかべたかし)も、最初はこうだったのではないか。薬の数が少し合わない。誰かの様子が普段と違う。それらは『偶然』の一言で説明できる。だが、偶然は積み重なる。少しずつ。少しずつ。そして気付いてしまう。何かがおかしい、と。
月は画面を閉じた。
その瞬間──
「何がおかしいの?」
不意に、背後から声がした。聞き覚えのある声だった。全身の血が凍りつく。ゆっくりと振り返ると、白衣姿の九条が立っていた。片手に缶コーヒーを持ち、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべている。
彼はまるで偶然通りかかっただけのような顔をしていた。
偶然。そう、偶然。月の心臓が激しく脈打つ。
「先生……」
「仕事熱心だね」
九条は端末へと視線を落とす。
月は反射的に画面を閉じた。
だが、遅かった。何を見ていたのか、完全には隠せなかった。
「患者のデータを見ていたのかな?」
九条の声は穏やかで、月を責める様子はない。
しかし月にはそんな態度がかえって怖かった。
「担当患者の確認です」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
九条は少しだけ首を傾げる。
「そう」
それ以上、彼は追及しようとしなかった。
それが逆に月を不安にさせる。
何故、聞かないのだろう。何故、怒らないのだろう。
普通なら、不審に思うはずなのに。
「神倉さん、最近忙しそうだね」
「そうですか?」
「うん」
彼は缶コーヒーを開ける。
ノイズに溢れた病院の中で、プルタブの音がやけに大きく聞こえた。
「何か、調べ物でもしてる?」
月は息を呑んだ。やはり彼は気付いている。当然だ。何日もの間、少しずつ、同じ端末を使って調べている。痕跡が残らないはずがない。
「別に、大したことではないです」
「そう?」
九条は笑う。いつも通りの笑顔だった。優しく、穏やかで、患者から好かれそうな顔。
だからこそ、月は恐ろしくなる。画面の数字が頭から離れない。八年前の医療事故。その関係者たちが、九条の患者として、死亡者として、記録されている。偶然かもしれない。偶然ではないかもしれない。まだ何も分からない。なのに、真壁隆志の名前が脳裏をよぎる。
『薬が合わない』『数字がおかしい』──
あの日、観覧車の中で九条が語った言葉。
まるで、今の自分のことを先回りしていたかのよう。
「先生は──」
気付けば口にしていた。
九条がこちらを見る。
「何?」
「真壁さんから相談されたとき、本当に何も思わなかったんですか?」
九条の表情は変わらない。
だが、彼は一瞬だけ沈黙してから答えた。
「難しい質問だね」
「……」
「思ったよ。何かあるのかも知れないって。でも証拠がなかった」
九条は静かに言ってから、缶コーヒーを一口飲む。
「病院ってそういう場所だからね。違和感があっても説明できる。患者は死ぬし、薬はなくなるし、人は勘違いする」
九条の口調は優しかったが、月の背筋には寒気が走った。
彼のその言葉は正しい。だから怖い。
数字は嘘をつかないが、数字だけでは何も証明できない。
月自身が今まさにそうであるように。
「……神倉さん。人を疑うのは疲れるでしょう」
月には返事ができなかった。
まるで心を読まれたかのようで。
九条は何も気付いていないかのように穏やかに言葉を続ける。
「疑い始めると、何でも怪しく見える」
「……」
「だから気を付けた方がいい」
その言葉が忠告なのか、警告なのか、月には分からなかった。
ナースステーションの電話が鳴る。誰かが走っていく。いつもどおりの日常が今も続いている。その場に凍り付いたように月だけが立ち止まっていた。
九条は空になった缶を軽く振った。
「午後から手術なんだ」
そう言って、九条は立ち上がった。
月も端末を閉じる。このまま終わると思った。
だが、九条は数歩進んだところで足を止め、振り返る。
「そういえば、神倉さん。次の休みはいつ?」
月は一瞬だけ警戒した。
「明日が準夜勤で、その次が深夜勤です」
「その次は?」
「明けです」
「次の日は?」
「休みですけど」
九条が少し笑う。嫌な予感がした。
「よかった」
「何がですか?」
「休みの日、空けておいて」
月は眉をひそめた。
「先生。私の予定を勝手に決めないでください」
「予定、ある?」
「……ありませんけど」
言ってから、少し後悔する。
九条は満足そうだった。
「じゃあ決まりだね」
「だから何がですか」
九条は少しだけ考えるふりをした。
「水族館」
月は思わず聞き返す。
「水族館?」
「夜の水族館」
まるで当然のことのように、九条はさらりと言った。
「期間限定で夜間営業してるらしくてね」
九条はスマートフォンを取り出し、画面を月に見せる。
青く照らされた巨大水槽。暗い館内を泳ぐ魚の群れ。幻想的な写真だった。
「綺麗でしょう」
確かに綺麗だった。だが──
「一人で行ってください」
「嫌だよ。俺は神倉さんと行きたい」
月は言葉に詰まる。
九条はそれ以上は言わずに、ただ楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、また連絡するから」
そう言い残し、今度こそ彼は廊下の向こうへと消える。
その背中を見送りながら、月は先ほど閲覧した患者のデータを思い出す。
もしも。そう、もしも──九条零が自分と同じような殺人鬼だったとしたら。
その考えは恐ろしいはずなのに、何故か胸の奥で、小さな期待にも似た感情が生まれていることに月は気付いていた。