私だけに優しい、殺人鬼

第10話『壊れた人間』

 勤務終了の打刻を済ませた頃には、外は薄暗くなっていた。
 冬の日は短い。東雲総合医療センターの正面玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。月はコートの襟を寄せる。明日は深夜勤だ。今日はこのまま帰宅して、ゆっくり休むつもりだった。いつものように足早に、月は駐車場へと向かう。
 その途中のことだった。

「……神倉月(かぐらつき)さん?」

 突然、男の声がして、月は思わず足を止める。
 声の方に顔を向けると、見知らぬ男が立っていた。年は三十代半ばくらいだろうか。白い埃汚れの目立つ黒いダウンジャケットを着ている。髪はぼさぼさで、目の下には濃い隈があり、疲れたような顔をしていた。しかしそこにはやけに人懐っこい笑みが浮かんでいる。
 月は眉根を寄せた。

「どなたですか?」
「ああ、やっぱりそうだ」

 男は嬉しそうに言った。

「高瀬の動画で見たまんまだ」

 その瞬間、月の表情が固まる。
 高瀬。動画。胸の奥がざわついた。

「俺、西村っていいます」

 男は勝手に話を続ける。

「白烏(しろがらす)って名前なら分かる? 高瀬の昔のハンドルネームが由来なんだ。黒烏(くろがらす)っていう……」

 何のことなのか、月には分からない。
 だが、白烏という名前自体は記憶の片隅に残っている。
 高瀬の動画のコメント欄で見た覚えがあった。
 高瀬に対する誹謗中傷を書き連ねていたアカウントだ。妄想で他人を陥れるな、印象操作をする前にソースを出せ、といった批判から、殺害予告まがいのものまで、あの手この手で高瀬を糾弾する熱心なアンチだった。
 関わらない方が良さそうだ。月はそう判断する。

「……知らないです」
「そう?」

 西村は肩をすくめた。

「まあいいか。神倉さんも被害者だし」
「何の話ですか?」
「高瀬に付きまとわれてる。動画に勝手に映されてる。俺と同じだ。被害者同士、協力しよう」

 初対面とは思えない、おかしな距離感だった
 月は無意識に一歩下がった。

「あの。どうして私の名前を?」
「ああ、それ」

 西村は悪びれもなく答える。

「コメント欄。高瀬の動画のコメント欄に書いてあったんだ」

 嫌な感覚が背筋を走った。
 自分の知らない場所で、情報が一人歩きする。気味が悪くて仕方がない。

「神倉さん、有名人ですね」

 西村は笑ったが、月は笑えなかった。

「……何の用ですか?」
「いや、ちょっと話したくて」

 西村は駐車場の方を指差す。

「ここ、高瀬の動画に映ってたでしょ。俺さ──」

 西村の笑顔が少し消えた。

「高瀬に人生をめちゃくちゃにされたんだよね」

 垂れ下がった眉、今にも泣き出しそうな目元、無理して笑おうとしている口。
 ちぐはぐな表情の中で、声だけが妙に真面目だった。
 月は黙っていた。

「だから気になったんだ」
「……何がですか?」
「今度は誰がターゲットなんだろうって」

 西村は空を見上げた。吐く息が白い。

「俺、昔は普通に働いてたんだよ。建築関係の仕事をしてた。別に悪いことなんてしていない」

 そこで一度言葉を切る。

「でも、動画一本で終わった。スケートリンクがあってさ」

 西村のその言葉に、月の身体が僅かに強張る。
 しかし西村は何も気付かず、懸命に話し続けた。

「もう潰れてるけど。昔、有名なコーチが使ってたんだ。そのスケートリンクを」

 月の指先が冷たくなる。

「そのコーチが逮捕された。児童への性的虐待で」

 聞きたくない単語だった。

「高瀬はそれを動画にした。子供を狙う性犯罪者がわずか数年で社会に戻ってくるなんておかしいって。それだけならいいんだ。でも、高瀬はそれだけじゃなかった。親戚が経営してたスケートリンクまで悪者扱いして、俺まで共犯者みたいに言われた。動画を鵜呑みにした連中に……」

 月の呼吸が浅くなる。
 スケートリンク。コーチ。逮捕。頭の奥で古い記憶が軋む。
 白いリンク。冷たい空気。観客席。母親の声。そして、あの男。

「……もちろん俺は自分の身の潔白を訴えたよ。でも、ダメだった。言えば言うほど泥沼だった」

 西村は一息ついたあと、何気なく付け加えた。

「そのコーチさ、確か墨図(すみず)って名前だったかな」

 月の世界から音が消えた。
 冬の風。車の走行音。病院の空調音。周りの全てが遠くなる。
 墨図義己(すみずよしき)──その名前を聞くのは何年ぶりだろう。
 白いリンク。冷たい氷。観客席の照明。子供だった自分。そして、気味の悪い視線。にやにやと笑いながら墨図が近付いてくる。そんな風に笑うとき、何故か墨図は決まって小声になる。言葉にできない違和感があった。何かがおかしいと思った。

『あのコーチが嫌。気持ち悪い。もうスケートをやめたい』

 月はつたない言葉で母に助けを求めた。
 しかし返ってきたのは娘に対する心配ではなかった。

『先生になんてことを言うの。お前はマトモな人間じゃない。スケートをやめるなんてお母さんは許さない。フィギュアスケート選手になってくれなきゃ、親戚に自慢できないじゃないの。親に恥をかかせるな。甘ったれた根性を叩き直してやる!』

 母は月を平手で打ち、怒鳴り声を上げながら壁に叩きつけた。
 胸の奥が冷たくなる。

「……神倉さん?」

 西村の声が遠く聞こえた。

「顔色悪いけど大丈夫?」

 月は何も答えられずにいた。
 墨図の逮捕を報じるニュースを見た日のことを思い出していた。
 自分は間違っていなかった。自分の感覚は正しかった。なのに誰も謝らなかった。母親も、周囲の大人も、誰一人として謝らない。それどころか母は逆ギレした。

『どうしてちゃんと言わないの。あんな言い方じゃ分からないじゃない。親に恥をかかせるなんて、やっぱりお前はマトモな人間じゃない!』──

 西村は怪訝そうに月の顔を覗き込む。

「……興味ありません」

 ようやく絞り出した声は別人のように冷たかった。
 西村は首を傾げる。

「そう? 神倉さん、昔スケートやってたんでしょ?」

 月の心臓が止まりかけた。
 西村は何も気付いていない。
 本当に何気なく言っただけだった。

「動画のコメントに書いてあった。ジュニアの有望選手だったって」

 月は無言で立ちつくす。
 まただ──寒い冬なのに、汗が背中を伝い落ちる。
 知らない誰かが、知らない場所で、自分の人生を勝手に語っている。

「神倉さん、もしかして墨図のこと知って──」
「やめてください!」

 思ったより強い声が出た。
 西村が目を瞬(またた)く。
 月は自分の手が震えていることに気付いた。怒りだった。高瀬への怒り。西村への怒り。母親への怒り。過去への怒り。その全部が混ざっていて、自力ではどうすることもできない。
 その時だった。

「何をやめるんですか?」

 穏やかな声が割って入った。
 振り返ると、九条がそこにいた。
 いつの間に現れたのだろう。白衣の上からコートを羽織り、こちらへと歩いてくる。
 その表情は笑っているが、目は笑っていなかった。

「先生……」

 月は思わず声を漏らす。
 九条は月の隣に立った。自然な動作だったが、西村との間に入る位置だった。

「知り合いですか?」

 九条に訊かれて、西村は苦笑した。

「いや、初対面です」
「それで個人情報の話を?」

 空気が少し変わる。
 九条の口調は穏やかなままだったが、その声は冷たかった。
 口ごもる西村の代わりに九条が言葉を続ける。

「動画で見たから。コメント欄で知ったから。そういう理由で職員に話しかけるのは感心しませんね」
「俺は別に悪いことを──」
「神倉さんが困っているように見えます」

 九条は遮った。
 その一言で、西村もようやく気付いたらしい。
 月の顔色がひどく青ざめ、表情が強ばっていることに。

「……悪かった」

 西村は頭を掻いた。

「そういうつもりじゃなかった」

 その言葉は本音だったのだろう。
 だが月にはなんの慰めにもならなかった。

「帰ります」

 月は短く言った。
 西村とはこれ以上、何も話したくなかった。
 西村は何か言いかけるが、九条の視線とぶつかり、口を閉じる。
 しばらくの沈黙のあと、西村は小さく肩をすくめた。

「分かった」

 それだけ言うと、西村はその場から立ち去った。
 冬の夕暮れの駐車場に、月と九条だけが残る。
 西村の姿が見えなくなっても、月はしばらく動けなかった。
 冬の風が頬を撫でる。駐車場の照明が白く滲んで見えた。

「神倉さん、大丈夫?」

 九条の声は静かだった。
 月は頷こうとした。しかし体が動かない。
 墨図の名前を聞いただけで、あれほど動揺するとは思わなかった。
 もう終わったことだと思っていたのに。

「……帰ります」

 震える唇を動かし、ようやくそれだけを伝える。
 九条は何かを考えるように月の顔をしばらく見つめた。
 そして駐車場の奥を見る。

「車はどれ?」

 月は反射的に答えていた。

「あれです」

 白いコンパクトカー。夜勤帰りの運転を考えて選んだ中古車だった。
 九条は月の手の中で震えている車の鍵を見た。

「今日は運転しない方がいい」
「平気です」
「平気じゃない」

 九条の語気は強かった。
 月は何も言い返せない。自分でも分かっていた。今の状態で運転したら危ない。

「送るよ」
「先生は?」
「タクシーで戻る」

 九条は当たり前のように言った。

「だから鍵を貸してくれ」

 月は数秒迷ったあと、九条に鍵を手渡した。
 二人は車へ向かう。月が助手席に座ると、九条が運転席へ乗り込んだ。エンジンがかかり、暖房の風が流れ出す。車内は静かだった。病院の灯りがバックミラーの中で遠ざかっていく。しばらくの間、二人は何も話さなかった。ラジオもつけない。ただタイヤの走行音だけが続く。
 やがて九条が口を開いた。

「墨図義己のこと、知っていたんだね」

 月の肩が僅かに強張る。
 触れられたくなかったが、否定する気力はなかった。
 月は窓の外を見たまま言った。

「昔、スケートをやっていました」

 それだけで充分だった。
 九条は続きを促さなかった。

「母が、私を選手にしたがっていたので」

 信号の前で停車する。
 赤信号の光が車内を照らす。
 九条は月の話を黙って聞いていた。

「でも辞めました。私には向いていなかったので」

 嘘だった。辞めた理由は本当は違う。
 だが、説明したくなかった。
 母親のことも。墨図のことも。リンクで感じた不快感も。
 車は再び走り出し、しばらくして海沿いの道路へ入った。
 窓の向こうに冬の夜の暗い海が広がっている。
 月はその景色を見るともなしに眺めていた。

「神倉さん」

 九条が言う。

「君は自分の感覚をもっと信じた方がいい」

 月は顔を上げ、九条を見た。彼は何故、今この時に、そんなことを言うのだろう。月には分からなかった。ただ、胸の奥のどこかが痛んだ。あの日、子供だった頃の自分に必要だった言葉を、九条はあまりにも簡単に口にする。今更だ。必要だった時期は過ぎた。しかしもしもその言葉を適切なタイミングで与えられていれば、今ここでこうして九条と話すこともなかったのだろう。
 やがて車はシーサイドパレス東雲に到着した。
 夜のマンションは相変わらず巨大な廃墟のようだった。
 九条は車のエンジンを切る。
 静寂が戻った車内で九条が口を開く。

「明日の勤務、無理をしないように。明後日もね」

 月は小さく頷いた。
 車を降りようとして、ふと気付く。
 九条は西村を追い払った後、一度も「何があったのか」を聞かなかった。
 彼は詮索してこない。なのに必要な時だけ手を伸ばしてくる。
 その距離感が心地良くて、少しだけ怖かった。

「おやすみなさい」

 月は言う。

「おやすみ。水族館、楽しみにしてるから」

 九条は穏やかに微笑んだ。
 その笑顔を見た瞬間、月は何故か思ってしまう。
 西村よりも、高瀬よりも、他の誰よりも。
 もしかすると、一番危険なのはこの男なのかもしれない、と。
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