【続編】亡国の聖女は氷帝に溺愛される
プロローグ
それは、とある朝のことだった。
いつものようにセルカが用意してくれた朝食を前に、ルーチェは手にしていたフォークをそっと皿の上へ戻した。
「……ルーチェ様?」
向かいに立っていたセルカが、不思議そうに首を傾げる。
焼きたてのパンに、色鮮やかな果物。どれもルーチェの好物ばかりで、普段であれば喜んで口にしているものだというのに、今日はどうにも食欲が湧かなかった。
「ごめんなさい。あまり食べられそうになくて……」
「お加減が悪いのですか?」
「いいえ。熱もありませんし、どこかが痛いわけでもないのです。ただ……少し、気持ちが悪いような」
自分でも上手く説明できず、ルーチェは困ったように笑う。
そういえば昨日も、昼食をほとんど残してしまった。その前の日は朝から身体が重く、午後になって急に眠くなったので、仕事の途中で休憩を取らせてもらった覚えがある。
皇后になってから一年が経ったが、まだまだ覚えなくてはならないことは多い。最近は冬に向けた慈善施設の報告書にも目を通していたので、単に疲れが溜まっているのだろうと思っていた。
「今日は午前中に、昨日届いた報告書を確認する予定でしたよね。少し休めば──」
「侍医を呼びます」
「えっ」
セルカはそう言うと、返事も待たずに扉へ向かって歩き始めた。
「セ、セルカさん。そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「昨日も一昨日も、食事を残しておられます」
「……見ていたのですか?」
「侍女ですので」
当然のように返されてしまい、ルーチェはそれ以上何も言えなくなった。
こうなってしまったセルカが考えを変えてくれないことは、この一年で嫌というほど知っている。
「……何ともなければ、お仕事に戻ってもいいですか?」
「それは侍医にお尋ねください」
「セルカさん……」
思わず情けない声を出すと、セルカはようやく少しだけ表情を緩めた。
◇
「──ご懐妊にございます」
侍医の口から告げられた言葉に、ルーチェは目を瞬いた。
何を言われたのか分からなかったわけではない。それでも、すぐには言葉が出てこなかった。
「……懐妊?」
「はい。お身体を大切になさってください」
そこでようやく、ルーチェは自分のお腹に目を落とした。
もちろん、見た目は何も変わらない。
「……赤ちゃんが、いるのですか?」
「はい」
もう一度頷いた侍医を見つめているうちに、視界がぼやけた。
「あ……」
頬に触れると、指先が濡れている。
どうして泣いているのだろうと自分でも不思議に思ったが、一度零れた涙はなかなか止まってくれなかった。
「ルーチェ様」
「ご、ごめんなさい。嬉しいんです。嬉しくて……」
慌てて目元を拭っていると、セルカが静かに布を差し出してくれる。
子どもは欲しいかとヴィルジールに尋ねられたのは、少し前のことだった。
いつかは欲しい。けれど、もう少しだけ二人で過ごしていたい。
そう答えたルーチェに、ヴィルジールも同じだと言ってくれた。
あの日、初めて二人で話し合った未来が、思っていたよりも早く訪れたらしい。
「……ヴィルジール様にも、お伝えしないと」
「すでにお呼びしております」
「えっ?」
顔を上げたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
間もなく扉が開き、現れたヴィルジールの姿を見て、ルーチェは丸い目をさらに大きくさせる。
「ルーチェ」
「ヴィルジール様……」
名前を呼ばれただけで、せっかく拭ったはずの涙がまた頬を伝った。
ヴィルジールは眉間に皺を寄せると、寝台の前までやって来る。
「何故泣いている」
「嬉しくて……」
「……そうか」
ヴィルジールはルーチェの顔を見つめた後、侍医へ顔を向けた。
「間違いないのか?」
「はい。ご懐妊で間違いございません」
「ルーチェの身体は」
「今のところ問題はございません。ただし、まだ日が浅いため、無理はなさらぬようお過ごしいただく必要がございます」
「公務は休ませた方がいいのか?」
「ヴィルジール様?」
「食事は。薬は飲ませていいのか。外出は控えさせるべきか?」
「ヴィルジール様」
ヴィルジールはようやくルーチェを見た。
「私は大丈夫です」
「大丈夫ではないから侍医が呼ばれたのだろう」
「それは、そうですけど……」
早くも公務をすべて取り上げられてしまいそうな気配を感じ、ルーチェは困り果ててセルカに助けを求めたが、セルカは知らぬ顔で視線を逸らしてしまった。
どうやら今回は助けてくれないらしい。
その後も侍医にいくつか質問をしたヴィルジールは、最後に「少しでも何かあればすぐに知らせろ」と念を押し、侍医とセルカが部屋を出ていくまで、その場から動こうとはしなかった。
二人きりになった部屋には、先ほどまでとは違う静けさが訪れる。
ヴィルジールは寝台の傍らに腰を下ろしたまま、何も言わなかった。
「……ヴィルジール様」
「どうした」
「嬉しいですか?」
そう尋ねると、ヴィルジールは少しだけ目を見開いた。
「……何故そんなことを訊く」
「だって、何も仰らないので」
「何を言えばいいのか分からない」
思いもしなかった答えに、ルーチェは目を丸くしたあと、ふふっと笑った。
「ヴィルジール様にも、分からないことがあるのですね」
「あるに決まっているだろう」
少し不機嫌そうに返され、ルーチェはますます笑ってしまう。
それから、自分のお腹に手を置いた。
「ここにいるそうです」
「ああ」
まだ何も変わっていないお腹を見下ろしながら、ルーチェはそっと撫でる。
「不思議ですね。まだ何も分からないのに……」
確かにここにいるのだと思うだけで、また涙が出そうになる。
ふと顔を上げると、ヴィルジールも同じ場所を見ていた。
やがて彼の手が持ち上がったが、途中で止まってしまう。その仕草を見たルーチェは、何も言わずにヴィルジールの手を取った。
「……ルーチェ?」
大きな手を引き寄せ、自分の手の上からお腹に重ねる。
ヴィルジールは驚いたようにルーチェを見ていたが、その手を離そうとはしなかった。
「私たちの赤ちゃんです」
口にすると、今までよりもずっと本当のことのように思えて、ルーチェは泣きながら笑った。
ヴィルジールはそんなルーチェを見つめ、それから二人の手が重なっている場所へ目を落とす。
「……そうか」
今度の「そうか」はいつものヴィルジールの声ではなかった。
それに気づいてしまったルーチェは何も言わず、ただ彼の手に自分の指を重ねた。
いつものようにセルカが用意してくれた朝食を前に、ルーチェは手にしていたフォークをそっと皿の上へ戻した。
「……ルーチェ様?」
向かいに立っていたセルカが、不思議そうに首を傾げる。
焼きたてのパンに、色鮮やかな果物。どれもルーチェの好物ばかりで、普段であれば喜んで口にしているものだというのに、今日はどうにも食欲が湧かなかった。
「ごめんなさい。あまり食べられそうになくて……」
「お加減が悪いのですか?」
「いいえ。熱もありませんし、どこかが痛いわけでもないのです。ただ……少し、気持ちが悪いような」
自分でも上手く説明できず、ルーチェは困ったように笑う。
そういえば昨日も、昼食をほとんど残してしまった。その前の日は朝から身体が重く、午後になって急に眠くなったので、仕事の途中で休憩を取らせてもらった覚えがある。
皇后になってから一年が経ったが、まだまだ覚えなくてはならないことは多い。最近は冬に向けた慈善施設の報告書にも目を通していたので、単に疲れが溜まっているのだろうと思っていた。
「今日は午前中に、昨日届いた報告書を確認する予定でしたよね。少し休めば──」
「侍医を呼びます」
「えっ」
セルカはそう言うと、返事も待たずに扉へ向かって歩き始めた。
「セ、セルカさん。そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「昨日も一昨日も、食事を残しておられます」
「……見ていたのですか?」
「侍女ですので」
当然のように返されてしまい、ルーチェはそれ以上何も言えなくなった。
こうなってしまったセルカが考えを変えてくれないことは、この一年で嫌というほど知っている。
「……何ともなければ、お仕事に戻ってもいいですか?」
「それは侍医にお尋ねください」
「セルカさん……」
思わず情けない声を出すと、セルカはようやく少しだけ表情を緩めた。
◇
「──ご懐妊にございます」
侍医の口から告げられた言葉に、ルーチェは目を瞬いた。
何を言われたのか分からなかったわけではない。それでも、すぐには言葉が出てこなかった。
「……懐妊?」
「はい。お身体を大切になさってください」
そこでようやく、ルーチェは自分のお腹に目を落とした。
もちろん、見た目は何も変わらない。
「……赤ちゃんが、いるのですか?」
「はい」
もう一度頷いた侍医を見つめているうちに、視界がぼやけた。
「あ……」
頬に触れると、指先が濡れている。
どうして泣いているのだろうと自分でも不思議に思ったが、一度零れた涙はなかなか止まってくれなかった。
「ルーチェ様」
「ご、ごめんなさい。嬉しいんです。嬉しくて……」
慌てて目元を拭っていると、セルカが静かに布を差し出してくれる。
子どもは欲しいかとヴィルジールに尋ねられたのは、少し前のことだった。
いつかは欲しい。けれど、もう少しだけ二人で過ごしていたい。
そう答えたルーチェに、ヴィルジールも同じだと言ってくれた。
あの日、初めて二人で話し合った未来が、思っていたよりも早く訪れたらしい。
「……ヴィルジール様にも、お伝えしないと」
「すでにお呼びしております」
「えっ?」
顔を上げたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
間もなく扉が開き、現れたヴィルジールの姿を見て、ルーチェは丸い目をさらに大きくさせる。
「ルーチェ」
「ヴィルジール様……」
名前を呼ばれただけで、せっかく拭ったはずの涙がまた頬を伝った。
ヴィルジールは眉間に皺を寄せると、寝台の前までやって来る。
「何故泣いている」
「嬉しくて……」
「……そうか」
ヴィルジールはルーチェの顔を見つめた後、侍医へ顔を向けた。
「間違いないのか?」
「はい。ご懐妊で間違いございません」
「ルーチェの身体は」
「今のところ問題はございません。ただし、まだ日が浅いため、無理はなさらぬようお過ごしいただく必要がございます」
「公務は休ませた方がいいのか?」
「ヴィルジール様?」
「食事は。薬は飲ませていいのか。外出は控えさせるべきか?」
「ヴィルジール様」
ヴィルジールはようやくルーチェを見た。
「私は大丈夫です」
「大丈夫ではないから侍医が呼ばれたのだろう」
「それは、そうですけど……」
早くも公務をすべて取り上げられてしまいそうな気配を感じ、ルーチェは困り果ててセルカに助けを求めたが、セルカは知らぬ顔で視線を逸らしてしまった。
どうやら今回は助けてくれないらしい。
その後も侍医にいくつか質問をしたヴィルジールは、最後に「少しでも何かあればすぐに知らせろ」と念を押し、侍医とセルカが部屋を出ていくまで、その場から動こうとはしなかった。
二人きりになった部屋には、先ほどまでとは違う静けさが訪れる。
ヴィルジールは寝台の傍らに腰を下ろしたまま、何も言わなかった。
「……ヴィルジール様」
「どうした」
「嬉しいですか?」
そう尋ねると、ヴィルジールは少しだけ目を見開いた。
「……何故そんなことを訊く」
「だって、何も仰らないので」
「何を言えばいいのか分からない」
思いもしなかった答えに、ルーチェは目を丸くしたあと、ふふっと笑った。
「ヴィルジール様にも、分からないことがあるのですね」
「あるに決まっているだろう」
少し不機嫌そうに返され、ルーチェはますます笑ってしまう。
それから、自分のお腹に手を置いた。
「ここにいるそうです」
「ああ」
まだ何も変わっていないお腹を見下ろしながら、ルーチェはそっと撫でる。
「不思議ですね。まだ何も分からないのに……」
確かにここにいるのだと思うだけで、また涙が出そうになる。
ふと顔を上げると、ヴィルジールも同じ場所を見ていた。
やがて彼の手が持ち上がったが、途中で止まってしまう。その仕草を見たルーチェは、何も言わずにヴィルジールの手を取った。
「……ルーチェ?」
大きな手を引き寄せ、自分の手の上からお腹に重ねる。
ヴィルジールは驚いたようにルーチェを見ていたが、その手を離そうとはしなかった。
「私たちの赤ちゃんです」
口にすると、今までよりもずっと本当のことのように思えて、ルーチェは泣きながら笑った。
ヴィルジールはそんなルーチェを見つめ、それから二人の手が重なっている場所へ目を落とす。
「……そうか」
今度の「そうか」はいつものヴィルジールの声ではなかった。
それに気づいてしまったルーチェは何も言わず、ただ彼の手に自分の指を重ねた。
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