天正の雪、444年の約束

カラン、コロン〜君と過ごした7日間〜

一日目 雪の中で出逢った少女

カラン、コロン。

静かな山あいに、下駄の音が響いた。

「……え?」

鶴川小太郎は、思わず足を止めた。

つい先ほどまで、大分県日田市の高塚愛宕地蔵尊で参拝していたはずだった。

境内には参拝客がいて、木々の間からは柔らかな日差しが差し込んでいた。

それなのに。

顔を上げた小太郎の目の前には、見知らぬ景色が広がっていた。

人の姿がない。

聞こえていた参拝客の声も消えている。

代わりに、空から白いものが舞い落ちてきた。

雪だった。

「雪……? なんで?」

大分の山あいとはいえ、突然、雪景色になるなんて。

小太郎は戸惑いながら周囲を見回した。

そのとき、ふと目を引かれた。

少し離れた場所に、一人の女の子が立っていた。

雪のように白い着物。

透き通るように白い肌。

綺麗な二重の瞳。

少女は降り積もる雪を見つめていた。

その手は、寒さで赤くなっている。

小太郎は、なぜだか彼女から目を離せなかった。

「あの……」

声をかけると、少女が振り返った。

「はい?」

小太郎は、戸惑いながら尋ねた。

「今って、何年なの?」

少女は不思議そうに小太郎を見つめた。

そして、静かな声で答えた。

「天正十年ですよ」

「……え?」

小太郎は、言葉を失った。

天正十年。

西暦一五八二年。

歴史の授業で習った、戦国時代。

「ちょ、ちょっと待って……。天正十年って、あの天正十年?」

「はい。そうですが……」

少女は、ますます不思議そうな顔をした。

小太郎は慌ててスマートフォンを取り出した。

画面には、令和八年の日付が表示されている。

電波は入らない。

何度見ても、画面は変わらなかった。

「嘘だろ……」

自分は令和八年から、四百四十四年も昔の世界へ来てしまったのだろうか。

そんなことが、本当にあるのか。

「あなた様、大丈夫ですか?」

少女の声に、小太郎は顔を上げた。

彼女は心配そうにこちらを見つめていた。

「あ、ごめん。ちょっと混乱してて……」

「お顔の色がよくありません」

「うん……。自分でも、何が起きてるのかわからないんだ」

小太郎は、もう一度、少女を見た。

彼女の手が赤くなっていることに気づいた。

「手、冷たそうだね」

少女は、自分の指先を見つめた。

「少し、冷えてしまいました」

小太郎は、自分の手袋を外して差し出した。

「これ、使って」

「え……?」

「寒いだろ? 俺は大丈夫だから」

少女は戸惑いながらも、手袋を受け取った。

「ありがとうございます」

その微笑みを見た瞬間、小太郎の胸が、ほんの少し温かくなった。

「俺、小太郎。鶴川小太郎」

少女は小さくうなずいた。

「小太郎様……」

「様はいらないよ」

「ですが……」

少女は困ったように笑った。

その笑顔が、雪の中でとてもきれいに見えた。

小太郎は、思わず見とれてしまった。

そのとき、遠くから少女を呼ぶ声が聞こえた。

少女は、はっと顔を上げた。

「申し訳ありません。そろそろ戻らなくては」

「あ、待って!」

小太郎は慌てて声をかけた。

「君の名前、聞いてもいい?」

少女は振り返った。

「……おゆきと申します」

「おゆき……」

小太郎は、その名前を心の中で繰り返した。

「また、会える?」

おゆきは少し驚いたあと、優しく微笑んだ。

「こちらへいらっしゃることがあれば」

そう言って、彼女は雪の中を歩いていった。

カラン、コロン。

下駄の音が、少しずつ遠ざかっていく。

小太郎は、その後ろ姿を見つめていた。

このときは、まだ知らなかった。

この出逢いが、自分の人生を変えることになるなんて。

二日目 もう一度、会いたい

翌朝。

小太郎は、見知らぬ天井を見上げていた。

「……夢じゃ、なかったんだな」

昨日の出来事を思い返す。

雪。

白い着物の少女。

天正十年という言葉。

そして、電波の入らなかったスマートフォン。

すべてが現実だった。

どうして自分がこの時代に来たのか。

どうすれば元の時代に戻れるのか。

何もわからなかった。

「はあ……」

小太郎がため息をついた、そのとき。

「小太郎様、いらっしゃいますか?」

聞き覚えのある声がした。

小太郎は、ぱっと顔を上げた。

「おゆき?」

戸を開けると、昨日の少女が立っていた。

「おはようございます」

「おはよう! どうしたの?」

「昨日、とてもお困りのご様子でしたので……。お食事をお持ちしました」

おゆきの手には、小さな包みがあった。

中には握り飯が入っていた。

「えっ、俺に?」

「はい。よろしければ、召し上がってください」

「ありがとう! 本当に助かるよ」

小太郎は、胸が温かくなるのを感じた。

この時代で知り合いもいない自分を、おゆきは心配してくれたのだ。

二人は並んで腰を下ろした。

「ねえ、おゆき」

「はい?」

「昨日、いろいろ聞きそびれちゃったんだけど……。ここは、どのあたりなの?」

おゆきは、この土地のことを少しずつ教えてくれた。

小太郎には聞き慣れない地名や、現代とは違う暮らし。

話を聞けば聞くほど、自分が本当に戦国時代にいるのだと実感した。

「小太郎様のいたところは、どのような場所なのですか?」

今度は、おゆきが尋ねた。

小太郎は少し考えた。

「俺の時代は、令和八年っていうんだ。電気があって、車が走ってて、遠くにいる人とも電話で話せるんだよ」

「遠くの方と、お話ができるのですか?」

「うん。スマートフォンっていうものがあってね」

小太郎が手元のスマートフォンを見せると、おゆきは目を丸くした。

「不思議な道具ですね……」

「そうだよね。俺も、まさか四百年以上前に来るなんて思ってなかったよ」

おゆきは、くすりと笑った。

その笑顔を見て、小太郎も笑った。

昨日は不安でいっぱいだった。

けれど、おゆきと話していると、少しだけ気持ちが落ち着く。

「また明日も、会えるかな?」

小太郎が尋ねると、おゆきは微笑んだ。

「はい。お会いできれば」

その返事が、小太郎にはとても嬉しかった。

三日目 未来の話

三日目。

雪はやみ、冬の空に薄い日差しが差し込んでいた。

おゆきは、小太郎を景色のきれいな場所へ案内してくれた。

遠くには山々が連なり、冬枯れの木々が風に揺れている。

「きれいだな……」

小太郎は、思わず声を漏らした。

「私は、この景色が好きなのです」

おゆきは、穏やかな表情で山を見つめていた。

「ここに来ると、心が落ち着きます」

「そっか」

二人は並んで景色を眺めた。

しばらくして、おゆきが尋ねた。

「小太郎様の時代には、どのようなものがあるのですか?」

小太郎は、知っていることを話して聞かせた。

車や電車。

学校のこと。

夜でも明るい街。

そして、空を飛ぶ飛行機のこと。

おゆきは、そのたびに驚いた。

「人が空を飛ぶのですか?」

「そう。飛行機っていう乗り物があるんだ」

「まあ……。一度、見てみたいものです」

小太郎は、少しだけ寂しい気持ちになった。

おゆきが生きるこの時代では、まだ存在しないものばかりだ。

自分にとって当たり前の世界が、彼女にとっては夢のような世界なのだ。

「おゆきは、未来に行ってみたい?」

おゆきは、空を見上げた。

「はい。どのような世界なのか、見てみたいです」

そして、少しだけ声を落とした。

「けれど、私には、この時代で果たさなければならないこともございます」

小太郎は、彼女の横顔を見つめた。

「……そっか」

それ以上、詳しく尋ねることはしなかった。

いつか、彼女が話してくれる日が来るかもしれない。

今は、こうして一緒にいられる時間を大切にしたかった。

四日目 赤くなった手

四日目の朝。

再び雪が降り始めた。

おゆきは、軒先に座って空を見上げていた。

小太郎が近づくと、彼女は振り返った。

「小太郎様」

「おはよう、おゆき」

「おはようございます」

小太郎は、彼女の手が赤くなっていることに気づいた。

「また手が冷たくなってる」

おゆきは、そっと指先を握りしめた。

「雪の日は、どうしても冷えてしまいます」

小太郎は、自分の手を差し出した。

「ちょっと、手を貸して」

「え……?」

「温めてあげる」

おゆきは少し戸惑った。

けれど、やがて、そっと手を重ねた。

小さくて、冷たい手だった。

小太郎は、その手を両手で包み込んだ。

「こうすれば、少しは温かいだろ?」

おゆきは驚いたように小太郎を見上げた。

「小太郎様は、お優しいのですね」

「そんなことないよ」

「いいえ。初めて会ったときも、手袋を貸してくださいました」

おゆきは、恥ずかしそうに微笑んだ。

「とても嬉しかったのです」

小太郎は、急に照れくさくなった。

ただ寒そうだったから。

困っているように見えたから。

それだけだったはずなのに。

おゆきにそう言われると、胸の奥がくすぐったくなった。

「……そっか」

小太郎は、照れ隠しに空を見上げた。

おゆきも、重ねた手を見つめていた。

二人の間に、静かな時間が流れていった。

五日目 帰りたい場所

五日目。

小太郎は、一人で元の時代に戻る方法を考えていた。

高塚愛宕地蔵尊。

一念洞。

参拝していたあの日。

何か手がかりがあるとすれば、あの場所に違いない。

けれど、どれだけ考えても答えは見つからなかった。

「……帰りたいな」

小太郎は、小さくつぶやいた。

令和八年には、自分の生活がある。

元の時代に帰らなければならない。

そう思っていた。

「小太郎様?」

振り返ると、おゆきが立っていた。

「何か、お考えごとですか?」

「うん。どうしたら元の時代に帰れるのかなって」

おゆきは、少しだけ目を伏せた。

「帰りたいのですね」

「……うん」

小太郎は、正直に答えた。

「俺のいた世界に戻らなきゃいけないから」

「そうですよね……」

おゆきの声が、いつもより小さく聞こえた。

小太郎は、慌てて付け加えた。

「でも、おゆきと過ごすのが嫌なわけじゃないよ!」

おゆきは顔を上げた。

「え……?」

「ここに来て、何もわからなくて、どうすればいいかもわからなくて。でも、おゆきがいてくれたから、本当に助かったんだ」

小太郎は、まっすぐ彼女を見つめた。

「ありがとう」

おゆきの瞳が、少し揺れた。

「……こちらこそ」

彼女は、優しく微笑んだ。

「小太郎様とお話ししていると、知らない世界を旅しているような気持ちになります」

「本当?」

「はい」

小太郎は、彼女の笑顔を見つめた。

この時代で過ごした五日間。

その時間が、少しずつ自分にとって特別なものになっていることに気づいていた。

六日目 四百年後の約束

六日目の夕暮れ。

空は淡い茜色に染まっていた。

小太郎とおゆきは、並んで座っていた。

明日で、出逢ってから七日目になる。

小太郎は、なぜだか胸の奥が落ち着かなかった。

いつか突然、元の時代に戻されるような気がしていた。

「小太郎様」

おゆきが、静かに声をかけた。

「もしも、いつか遠い未来で、私たちが再び出逢うことができたなら」

小太郎は彼女を見た。

「そのときも、私のことを覚えていてくださいますか?」

小太郎は、少し驚いた。

そして、迷わず答えた。

「忘れるわけないだろ」

おゆきは、じっと小太郎を見つめていた。

「たとえ、何百年経っても?」

「うん。何百年経ったって、忘れないよ」

小太郎は笑った。

「四百年経ったって、忘れない」

おゆきの瞳が揺れた。

彼女は、うつむいた。

白い頬を、一筋の涙が伝っていく。

「おゆき……?」

「申し訳ありません。なぜだか、涙が出てしまって」

おゆきは、慌てて涙を拭った。

「小太郎様のお言葉が、とても嬉しかったのです」

小太郎は、胸が締めつけられるような気持ちになった。

どうして、こんなに大切に思うのだろう。

出逢ってから、まだ六日しか経っていない。

それなのに、彼女の涙を見るだけで、どうしようもなく苦しくなる。

「……もし本当に、また会えたら」

小太郎は、ゆっくりと言った。

「そのときは、今度こそ、もっとたくさん話そう」

おゆきは顔を上げた。

そして、涙を浮かべたまま微笑んだ。

「はい。お約束です」

夕暮れの空に、最初の星が輝き始めていた。

二人は、その星を見つめていた。

この約束が、四百四十四年という長い時を越えることになるとは、まだ知らないまま。

七日目 突然の別れ

七日目の朝。

小太郎は、目を覚ました瞬間から胸騒ぎを感じていた。

今日、何かが起きる。

理由はわからない。

ただ、そんな気がしてならなかった。

外へ出ると、おゆきが待っていた。

「おはようございます、小太郎様」

「おはよう」

おゆきは、いつものように微笑んでいた。

白い着物。

綺麗な二重の瞳。

そして、初めて出逢ったときと同じ、優しい笑顔。

小太郎は、その姿を見つめた。

「……おゆき」

「はい?」

「今日も、一緒にいられるよね?」

自分でも不思議な質問だった。

おゆきは、少し驚いたあと、微笑んだ。

「もちろんです」

二人は、ゆっくりと歩き始めた。

そのときだった。

カラン。

コロン。

あの日と同じ、日田下駄の音が響いた。

小太郎は、はっと振り返った。

「……この音!」

次の瞬間、目の前がまばゆい光に包まれた。

「え……?」

足元が揺れる。

景色が歪む。

小太郎の身体が、少しずつ透き通っていく。

「なんだよ、これ……!」

おゆきが驚いて駆け寄った。

「小太郎様! どうなされたのですか?」

「わからない! 俺にも、何が起きてるのか……!」

小太郎は、必死に手を伸ばした。

おゆきもまた、その手をつかもうとした。

けれど、指先が触れた瞬間、二人の手はすり抜けてしまった。

「小太郎様!」

おゆきの声が震えていた。

小太郎は、必死に叫んだ。

「おゆき! 俺、帰りたくない!」

初めて、自分の本当の気持ちを口にした。

帰らなければならないと、ずっと思っていた。

けれど、いざ離れなければならないとわかった瞬間、どうしようもなく彼女と一緒にいたいと思った。

「まだ、話したいことがいっぱいあるんだ!」

おゆきの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

「小太郎様……!」

光が、さらに強くなる。

小太郎の姿が、薄れていく。

「忘れないから! 絶対に、おゆきのことを忘れない!」

おゆきは、涙を拭うこともできずに叫んだ。

「どうか……どうか、お忘れにならないでください!」

「忘れない! 絶対に!」

小太郎の声が、遠ざかっていく。

「おゆき――!」

その瞬間、視界が真っ白になった。

そして。

すべての音が、消えた。

終節 令和八年へ

「……あれ?」

小太郎は、ゆっくりと目を開けた。

目の前には、見慣れた境内が広がっていた。

高塚愛宕地蔵尊。

令和八年。

参拝客の話し声。

木々のざわめき。

いつもの景色。

「……戻ってきた?」

小太郎は、慌ててスマートフォンを取り出した。

画面には、参拝していた日の日時が表示されている。

時刻も、ほとんど変わっていなかった。

まるで、ほんの一瞬しか経っていないかのように。

「嘘だろ……」

小太郎は、自分の手を見つめた。

七日間。

確かに、七日間を過ごしたはずだった。

おゆきと話した。

一緒に景色を眺めた。

赤くなった彼女の手を温めた。

そして、また会おうと約束した。

すべて、確かに覚えている。

「……おゆき」

その名前を口にした瞬間、涙があふれた。

帰ってこられた。

それなのに、胸の中には、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが残っていた。

たった七日間。

けれど、小太郎にとって、その七日間は何ものにも代えられない時間だった。

彼は、境内のお地蔵様を見つめた。

そして、震える手を合わせた。

「……もう一度、会わせてください」

声が震えた。

「いつか、どんなに時間がかかってもいいから……もう一度、おゆきに会いたい」

木々の間から、柔らかな風が吹いた。

そのとき。

カラン、コロン。

どこからか、かすかに下駄の音が聞こえた。

小太郎は、はっと顔を上げた。

けれど、そこには誰もいなかった。

境内には、いつものように参拝客が行き交っているだけだった。

小太郎は、もう一度、お地蔵様を見つめた。

「……約束したからな」

四百年後でも、忘れない。

必ず、もう一度会う。

その約束だけを胸に、小太郎は涙を拭った。

このとき、小太郎はまだ知らなかった。

天正十年に残された、おゆきの想い。

そして、444年という時を越えて守り続けられる、一通の恋文の存在を。

七日間の恋は終わった。

けれど、二人の物語は、まだ終わってはいなかった。

令和八年から天正十年へ。

そして、再び令和八年へ。

四百四十四年の約束が、静かに動き始めていた。
< 2 / 5 >

この作品をシェア

pagetop